ケンドリー・モラレス

ページ名:20117

登録日:2010/03/01(月) 20:38:06
更新日:2024/03/12 Mon 00:58:06NEW!
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ロサンゼルス・エンゼルスに所属していたキューバ出身のメジャーリーガー。


1983年6月20日生まれ。
右投両打。


昨季大ブレイクした元キューバ代表の一塁手。
エンゼルスに移籍した松井秀喜とクリーンアップを組むとされている期待の若手大砲だが、メジャー屈指の可哀想な選手として知られている。




【キューバ時代】
純粋に野球が大好きだったモラレスの少年時代の憧れの選手は、
野村克也監督の教え子でありキューバ代表の主軸としてオリンピックで2つの金メダルを獲得したアントニオ・パチェコだった。
モラレス自身は元来投手をしており、1999年の世界選手権ではメキシコを相手に2対0の完封勝利を収めている。
また、2001年にキューバで開催された18歳以下の国際大会でも投手として代表入り。
決勝では後にエンゼルスでチームメイトとなるアメリカ代表のスコット・カズミアーと投げ合い、彼から本塁打を放った上に9イニングを投げて勝利投手になっている。
このように投球だけでなく打撃でも活躍していたことから、次第にモラレスは「オマー・リナレス(元中日)の後継者になるのでは」と見られるようになっていった。



後に本格的に打者へ転向し、キューバ国内リーグでデビュー。
投手として登板したこともあったが基本的には一塁・三塁・右翼を守り、本塁打21本をはじめとする打撃9部門で新人記録を塗り替えて新人王を受賞している。
さらにこの年、後にキューバ代表としてWBCで日本代表と戦ったユリエスキ・グリエルやフレデリク・セペダなど同年代の若手と共に代表入りした。
10代の選手が代表に選ばれたのはリナレス以来のことである。


当然メジャー関係者からは垂涎の的となっていたが、キューバの至宝リナレスの再来と呼ばれたモラレスにかけられた国内の期待は大きく、
政府機関は彼に対して相当な神経を使っていた。


とある日本人記者がハバナの球場でインタビューを試みたことがあったが、その直後に警官に取り囲まれて職務質問された。
社会主義国では珍しいことではないが、一歩間違えれば当局に拘束されていたかもしれないほどモラレスに対する体制は厳戒であった。



代表チームでは、2003年の野球ワールドカップ準決勝の台湾戦で満塁本塁打を放つなど主軸として活躍。
続いてパナマで開催されたアテネオリンピック地区予選にも出場。


順風満帆な野球人生を送っていたが、この頃から彼に徐々に不幸が忍び寄り始める…。




オリンピック予選のとある試合の3回、スタメン出場していたモラレスは突然選手交代をさせられ、何故かそのままキューバ本国へ送還された…。
加えて、所属するチームやキューバ代表からも無期限出場停止処分を受ける。



何が起こったかわからないまま自宅謹慎を受けるモラレスであったが、
実は前月に代表チームから選手が二人亡命していたことに加え、モラレスが亡命の手引きをするスカウトと接触したという疑いがかけられていたのだ。
しかしこれはモラレス本人には亡命の意思など全く無い濡れ衣であったのだが、
キューバ政府への不満を募らせつつも野球ができなくなることを何より恐れたモラレスは、
「キューバで野球ができなくなってしまった以上は国を出るしかない」と亡命を決意する。




その後亡命を試みるが、何と連続8回失敗
密輸業者に見つかって「野球なんて二度とできないように腕をへし折ってやろうかァ!」と脅されたり、
当局に捕まって72時間拘束されるといったことを繰り返す。
最終的に2004年6月、9度目のトライで18人の仲間とともに高速ボートで4時間ほど海を渡ってフロリダ州へ辿り着き、キューバからの脱出に成功。
一端は不法移民として拘束されるも、釈放後協力者を得てドミニカ共和国へと渡り、ドミニカに帰化することに。


そしてドミニカ国籍を取得したことでメジャーリーグとの契約が可能になり、同年にロサンゼルス・エンゼルスと6年契約を結ぶ。




【エンゼルス時代】
プロ1年目の2005年はマイナーの1Aと2Aで96試合に出場し、
打率3割1分5厘・22本塁打・OPS8割9分5厘の高成績を残してマイナーリーグのオールスター・フューチャーズゲームにも選出された。


翌2006年には3Aで41試合に出場し、打率3割1分7厘・5本塁打・29打点の成績で、5月22日にメジャー昇格を果たし、翌23日にメジャーデビュー。
初球をスタンドに叩きこんだ。



しかしそこから足踏み状態が続き、マイナーでは3割を上回る打率を記録していたが、メジャーでは結果を残せずにいた。
それはメジャーの投手の緩急を使った攻めに苦しんだということ以上に、
適応する暇もなく選手数の都合で数日置きにメジャーとマイナーを行ったり来たりさせられていたことが原因だった。



メジャー入り4年目でようやくこのことに気づいた首脳陣は、モラレスにまとまった出場機会を与えることを決断。
2009年は最初からレギュラーに固定して使ったところ、期待通り使っているうちにどんどん良くなり、
8月には打率3割8分5厘・10本塁打・33打点と固め打ちし、8月の月間打点の球団記録を更新。月間最優秀選手に選出された。
シーズン終了時には3割6分・34本塁打・108打点と好成績を記録し、打撃に限らず一塁手の併殺アシスト数でリーグトップを記録するなど守備でも貢献。
チームのプレーオフ進出に多大な貢献をする大活躍を果たした。



2010年はヤンキースから移籍してきた松井秀喜とロッカーが隣同士。
共に強力なクリーンアップを組むことが期待されていたが、モラレスの身に振りかかる不幸はこれで終わりではなかった…。



メジャーのキャンプインから1週間、グリーンカード(アメリカ永住権)の申請手続きで謎の遅延が起きていたため、
モラレスは未だにキャンプに合流することができないでいた。
チームには毎日のように「明日は大丈夫だ」と連絡するものの、手続きが完了しないため練習に合流できないでいた。



さらにモラレスの銀行口座から何者かによって30万ドルが引き落とされているのが発覚。
なんとモラレスの元代理人が本人の了承を得ずに引き落とした疑いがあり、警察当局が捜査を始め詐欺事件に発展した。



松井秀喜がエンゼルスに移籍したことにより、日本でもモラレスの姿を試合中継で見ることも増えることが予想され、
本塁打数リーグ7位と好調を維持していた5月29日には、延長の末にサヨナラ満塁ホームランを放ちヒーローとなる。


しかし、モラレスはホームインの瞬間にチームメイトの手荒い祝福を受けて左足首を負傷。
地元記者のヒーローインタビューを受けることなく担架で運ばれてしまう。



検査の結果、左下腿部の骨折と判明し、今季絶望に…。



2011年シーズンの復帰を目指していたが、2011年5月に再手術で再び今季絶望となった。


それでも諦めず現役生活を続け、マリナーズ→ツインズ→マリナーズ→ロイヤルズ→ブルージェイズ→アスレチックス→ヤンキースと転々としたが、2020年2月ついに引退を表明。



彼のこれからに幸あれ。




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  • 一体彼がなにしたっていうんだ -- 名無しさん (2016-07-16 11:49:39)
  • 不幸人やな -- 名無しさん (2016-12-28 20:20:04)

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