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注1)「婦系図」(おんなけいず)
泉鏡花が明治40年(1907)1~4月、「やまと新聞」に連載し、おそらく、自身の作品中、一番読まれることになった作品。翌年舞台上演されて新派の代表作になり、公演母体が変わってもその後も上演され続けている。
名セリフ、(主税)「月は晴れても心は暗闇(やみ)だ。」…(お蔦)「切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。…私にゃ死ねと云って下さい。」というくだりは最初の原作にはなく、明治41年(1908)に新富座で初演された舞台の脚色者柳川春葉とお蔦を演じた喜多村緑郎が付け加えたもの。
原作者鏡花はこの後、大正3年(1914)に「湯島の境内」としてこのセリフを生かして新たに別れのシーンを書き起こしました。
昭和9年(1934)に松竹が田中絹代出演で映画化。昭和30年(1955)に大映が映画化した際、「婦系図湯島の白梅」とタイトルされて「湯島の白梅」がタイトルに登場。
「婦系図」を知らなくても、「湯島の白梅」は知っているというくらい、ポピュラーな呼び名として現在も独り歩きしています。稀代の名タイトルですよね?原作は新潮文庫などで読むことができます。
注2)「豊嶋(島)郡」
関東南部が武蔵国と云われていた平安中期承平年間に成立した倭名類聚鈔(抄)によると、武蔵国には21の郡が記載され(19との記録もある)、そのうちの一つが豊嶋郡。
豊嶋郡は繁華街池袋がある現代の豊島区よりずっと範囲が広く、平安時代後期に勢力を持っていた関東武士団の一つ、豊島氏がおおむね支配していた地域を云い、東京府の時代まで郡名として存続しました。
明治11年(1878)、東京府が発足してから7年後に、北豊島郡と南豊島郡とに分割されましたが、旧豊嶋郡を現在の東京23区に照らし合わせると、千代田と港区*、中央、台東、文京、新宿、渋谷、豊島、荒川、北、板橋、練馬(一部)とほぼ重なります。
※注:港区と千代田区の麹町は、古代まで荏原郡に帰属、墨田区牛島と江東区永代(島)などは近世になって豊嶋郡から葛飾郡に帰属が変わったとされています。
湯嶋(島)はこの豊嶋郡(としま・ぐん、または、ごおり)を構成するより小さい地域単位=郷(ごお)の一つ。現在の地名「本郷」は湯嶋郷の中心集落だったため本郷と呼ばれるようになり、元は湯嶋の方が“郷”と呼ばれるより大きい範囲の地方名だったと思われます。
湯嶋のほかに、多磨、都築、久良、橘樹、荏原、足立、入間、高麗、埼玉、那珂、秩父など、武蔵国の郡や郷の古称は現代に残っているものが多くあります。
なお、豊島氏は桓武平氏の平良文(たいらのよしぶみ)を祖とする秩父氏の一族=坂東八平氏の一つ=で、平安時代から源氏の家臣(御家人)となり、前九年の役(1051~)や保元の乱(1156)にも参戦。鎌倉幕府から大きい所領を与えられていました。
ところが、上杉氏家臣の反乱(1476~77)についたため、豊島宗家の泰経(やすつね)と弟泰明(やすあき)は、勢力を伸ばしていた上杉側家臣太田道灌と戦うことになり、豊島家の石神井城、練馬城、平塚城で戦うこととなりますが敗戦。
最後の決戦となる江古田原(現東京都中野区江古田と沼袋周辺)でも敗れ、その栄華が終わります。戦いの場となった古戦場跡の案内板が江古田公園(東京都中野区松が丘2-35)に立てられています。
ちなみに、江戸という地名を姓(呼称)とするようになった江戸氏は、秩父系平氏のうち、秩父から本拠地を移した秩父重綱の末裔で、川越氏、高山氏などと同じ係累に属し、秩父重綱から江戸太郎名を受けた重長を祖として「太郎」名を重盛が継承します(現在の皇居東御苑付近に江戸宗家があったとされています)。
重盛を太郎とする支族の“姓”は、それぞれの本拠地の地名を当てられたものと思われますが、現在も地名として受け継がれているところが多く、豊島氏と同様に、江戸氏とその支族が現在の東京とその周辺に大きい勢力をふるっていたことがうかがえます。13世紀なかばの1250年頃(鎌倉幕府の実権を北条氏が把握したころ)から今に残る地名には次の例があげられます。
太郎名を受けた長子は前記の通り江戸姓を継ぎ現在の皇居の一部に本拠地を置きます。なお、次郎名は木田見(きたみ)姓で現在の東京都世田谷区喜多見として、三郎名は丸子姓で同じく大田区と川崎市にまたがる現在の丸子、四郎名は六郷姓でこれも現在の大田区六郷、五郎名は芝(柴)崎姓で、鎌倉時代に現在の千代田区大手町付近にあった芝(柴)崎村、六郎名は飯倉姓で港区飯倉、七郎名は渋谷姓で渋谷区渋谷としてその名が残っています。(“姓”は便宜的に、名と区別するための呼称として使用しています。)
江戸氏は源頼朝が躊躇するほどの勢力を維持していましたが、頼朝はこれを抑え込み、太田道灌の政策によって衰退し、江戸城も失うことになります。江戸太郎重長に対して頼朝への服従を説得したのは江戸氏の支族である葛西清重や豊島清光という人々で、和議調停成立後、恩賞を受けるくらいでしたが、肝心の江戸氏は一事務員のような地位しか与えられなかったそうです。
注3)「湯島天神の記念碑類」
主だったものだけご紹介しましょう。
・「筆塚」。「婦系図」の作者、泉鏡花を覚えて里見惇、久保田万太郎といったゆかりの文人が建立しました。
・「奇縁氷人石」。昔の迷子探しは人が集まるところに柱などを立て、その右側と左側に、探し人の特徴や連絡先の書付と、見つけられた人の特徴と連絡先を貼りつけて、それぞれ連絡を待っていたそうです。
そんな歴史を語る「奇縁氷人石」は江戸時代そのまま。湯島天神が昔から大勢の人々が集まる場所だったことがよく分かります。江戸三大富くじ(突富)の一つも湯島天神でした。
(宝くじの神頼みも湯島天神がお薦めかも?!ちなみにあとの二つは谷中感応寺と目黒不動。湯島天神の突富が幕府公認となったのは文化九年(1812)と伝えられています。)
・「文具至宝碑」も見逃せません。中国から渡来した紙・筆・硯(すずり=墨を溶く石製の台)・墨(すみ=注3)の四品は「文房四宝」と呼ばれていました。(文房とはもともと役所で文書管理を司る場所を指し、唐の時代頃から文人の書斎も指すようになったと云われています)
“読み・書き・そろばん(算盤)”の寺子屋から現代の学校まで、日本の文芸・学問・教育全般の発展に文房四宝が寄与した功績の大きさは測り知れません。これをたたえて文具資料館が寄進元となって平成元年(1989)に建立された碑が「文具至宝碑」です。
碑銘は、“四宝”が“至宝”とされています。そこには、OAやITのハードとソフト、アプリにまで文具の範疇と貢献が広がっている現代を映しているようで、まさに文の神様として菅原道真公をお祀りした湯島天神にふさわしい碑ではありませんか。(亀戸天満宮にも姉妹碑があります。)
・「講談高座発祥の地碑」も意義深い碑です。講談師たちは、もともと、街角や小屋などで聞き手と同じ座面で講談を語っていましたが、湯島天神内で語っていた伊東燕晋(えんしん)という講談師が徳川家康を題材にした話しを語る際、一般人と同じ高さで語っては失礼にあたる、として三尺の高さで高座を設営したそうです。
この出来事は講談が高座で語られるきっかけとなったとされ、人間国宝の講談師、一龍齋貞水さんがその記念碑を湯島天神に建立されたということです。
高さ2.1 m、中ごろで幅73 cmくらい、台座部分で1 mと大きい碑ですが、「男坂」の急な石段を上がったところにあるため、息をつく方に気を取られて、この碑を見落としがちです。男坂・女坂を上り切ったら、一息つきがてら、ゆっくりご覧になってはいかがでしょうか。
・「新派の碑」にも多くの人々が詣でます。新派創立90年を迎えた昭和52年(1977)1月に新派創立以来の先人の苦労を偲び、今後の精進を誓おうと、水谷八重子さんと松竹株式会社が新橋演舞場脇に建立し、演舞場の建て替えの時に湯島天神に移設されたものだそうです。
碑の左にある梅の木は新派の名優、故花柳章太郎さんが昭和31年(1956)に献木されたものと湯島天満宮のHPにあります。
・「努力の碑」は王貞治さんが756号本塁打を放ったことをたたえ、青少年に努力する心を忘れぬよう願って建立されました。「努力」は王さんの座右の銘で、王さんが献木した梅の木が植えられています。
・手水舎の脇に横になっている牛の石像が置かれています。「撫で牛」と云われていますが、鼻の悪い人は鼻を撫で、角を撫でて願いをかける参拝客など、さまざまです。天神様と牛のつながりはいくつも言い伝えがあるそうですが、道真公は生前、牛を慈しみ、自分の遺骸は牛にひかせて牛が行くところにとどめるようにと遺言を残したそうです。
このほか料理人の願いを託す「包丁塚」など境内には見どころがたくさんあります。梅が可憐な花を咲かせて良い香りが漂い始める正月過ぎ=春先の境内は、梅花を楽しむ人たちでにぎわうことは言うまでもありません。
注4)「墨」(すみ)
松や菜種などの油煙から煤を採り、香料と膠を加え、練り固めて作る。これを硯(すずり)という石製の台の中央部、少し高くなっているところ(硯堂または墨堂と呼ぶ)に水を少しずつ垂らして前後に何度も軽く摺りつけて黒い液を作り、徐々に周囲の池(硯池或は墨池)と呼ばれる低くなった部分に貯め、適量になったら筆に含ませて文字などを書く。筆、墨、硯の三つは、ペンとインクのような関係にあり、現代でも小学校で習字として教えられている「書」の世界を開く道具。ちなみに硯の石として端渓石が古来高く評価されています。
注5)「倭名類聚鈔(抄)」
平安時代中期承平年間(931~8)に編纂された現在知られている日本最古の百科事典(国語辞典の機能も)。勤子内親王の求めで源順(みなもと・の・したごう)(911~983)が編纂。朝廷の冠位から身体、草木などの身近なものまで項目別に説明されている資料です。現在も復刻版が市販されています。
注6)「東京35区時代」
現在の東京都内23区になる前、東京府だった時代、東京の区部は35区で構成されていました。遡って東京の区分史を見てみると、明治二年(1869)に旧江戸市中朱引内を50区制とし、その2年後の明治四年(1871)の廃藩置県施行で全国は3府72県となり、それぞれが「大区」「小区」に分けられることが定められました。江戸から東京府になった東京はこれに伴い、6大区に区分され、各大区はそれぞれ16小区になりました。東京府は郊外へと拡大され、7年後の明治11年(1878)には11大区、103小区になっていました(例外として、東京第1大区だけは築地の外国人居留地域を独立小区としたため、17小区)。
この大区小区制では、大区は江戸城(皇居)を起点に時計回りの順に番号が振られていて、第一大区の中の小区は、旧江戸城西丸下、丸の内、大手町、日本橋・京橋・浜町・箱崎・八丁堀・築地などの小区に分けられました。湯島は第4大区、駿河台の外側の本郷小区に入りました。
この17大区制を、より庶民の暮らしの実情に近い区分に改める目的で、明治十一年(1878)に旧江戸市中を15区(周辺部に6郡)と編成。その後、外郭5郡の八十二町村を20区に改編・編入して昭和七年(1932)に35区制が誕生しました。その十五年後、昭和二十二年(1947)に現在の23区制になりましたが、地域性を加味して生活や文化感を理解しようとすると、旧35区が参考になることが多いと思います。たとえば湯島がある文京区は、旧35区時代、本郷区と小石川区、現在の台東区は、浅草区と下谷区、中央区は京橋区と日本橋区、千代田区は神田区と麹町区といった感じでした。いま街を語ることが流行っていますが、この35区時代の区分を知っていると、地域と生活文化の関わりが、より身近に感じられるようになるのではないでしょうか?
注7)「本郷追分=本郷弥生交差点」
この分岐点はもと本郷追分と呼ばれ、江戸から最初の一里塚が置かれました。ここで現在の本郷通りから道幅が狭くなって分岐してゆくのが旧白山通り、と云うより、国道17号中山道で、焼き鳥の「八巻」さん前から白山上交差点を過ぎ、JR東「巣鴨駅」脇を通って最初の宿場町「板橋宿」に向かい、その先、岩槻に至ります。
岩槻(太田道灌が江戸の防御を考えてここに築城したころは“岩付”)この岩槻街道が後に中山道となり、現在に近い“東海道”が全通した後も都(みやこ)から東国に向かう道として重用されていたのです。
東海道の53宿に対して67と宿場数が14(2週間分)も多く、山中を行くにもかかわらず、日程的には重用されていた主な理由は、東海道には川止めという旅程を不確かにする点があったためと云われています。
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