「昭和20年」を含むwiki一覧 - 3ページ

ミマツダイヤグラム - Gravity Wiki

ミマツダイヤグラム (Mimatsu Diagram) は、昭和18年(1943年)12月28日の活動開始から昭和20年(1945年)9月まで600日余りの日時で、406.9mの昭和新山が誕生していく過程を記録した多数の定点観測スケッチ画をもとに隆起の全過程を、今で言うハンドトレ

柴又駅 - 男はつらいよ Wiki

。開業当時は終点であった。1913年(大正2年)10月21日 - 京成電気軌道の金町(後の京成金町駅)延伸により、中間駅となる。1945年(昭和20年) - 社名変更により京成電鉄の駅となる。1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「ご存知寅さんの『男はつら

UTOPIA_最後の世界大戦 - 藤子不二雄 Wiki

の漫画家生活25年を祝う席で藤子・F・不二雄から「今まで指摘されるまで全く気がつきませんでしたよ」と言われたという。小野は、本作が発表された昭和20年代当時の少年漫画家たちにとって、女性というものは、少なくとも作品の中でその存在を強調することはむしろ自然ではなかったようだと語って

市川崑 - 映画ペディア

、以後、短い新東宝時代、10年程度の日活・大映時代を除き、没後の「お別れの会」に至るまで終世のホームグラウンドとなった。戦後[]1945年(昭和20年)には人形劇アニメの『娘道成寺』を制作した。終戦を29歳で迎え、その時には助監督にまでなっていた。その後市川は実写映画に活動の場を

日本一の裏切り男 - 映画ペディア

り、日本一のゴマすり男と並んで同シリーズの最長作品。テンプレート:ネタバレ目次1 ストーリー2 スタッフ3 キャスト4 挿入歌ストーリー[]昭和20年8月15日、玉音放送を天皇の激励と勘違いした特攻隊隊長の大和武は、日の本太郎に出撃を命じる。しかし、幸か不幸か特攻は失敗し、太郎は

松本英一 - 映画ペディア

929年(昭和4年)5月に帝キネに戻った。18本の映画を撮って、1931年(昭和6年)4月に退社した。この時点で35歳であった。1945年(昭和20年)8月13日、第二次世界大戦終結のわずか2日前に死去。満50歳没。サイレント映画のみを残した。関連事項[]根岸興行部帝国キネマ -

日本のいちばん長い日 - 映画ペディア

役4 注釈5 関連項目6 著書概要[]タイトルの「日本のいちばん長い日」とは、閣僚等が御前会議において太平洋戦争(大東亜戦争)終結を決定した昭和20年(1945年)8月14日の正午(12:00)から、国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じポツダム宣言受諾を知らせる8月

白痴_(1951年の映画) - 映画ペディア

1951年5月23日上映時間166分製作国日本言語日本語『白痴』(はくち)はドストエフスキーの小説『白痴』を原作とした日本映画である。舞台は昭和20年代の札幌に置き換えられている。当初4時間だった作品であるが、予算の都合で大幅にカットされた。ストーリー[]テンプレート:節stub

悪霊島 - 映画ペディア

まさ彦(妹尾勇)、沼田爆(山崎巡査)、宮沢りえ(巴(回想))、市川染五郎(竜平(回想))ほか。スタッフ…演出:福本義人、脚本:岸田理生舞台を昭和20年代に移しての映像化作品。簡略化されているが原作に比較的忠実な内容。しかし本作の重要なポイントであるシャム双生児「太郎丸・次郎丸」の

涙そうそうプロジェクト - 映画ペディア

れた。その後、福澤に代わって監督に土井裕泰が起用され、制作を再開。2006年9月30日に公開された。ドラマ放映作品リスト[]第一弾 「広島 昭和20年8月6日」(2005年8月29日 21:00~23:39放映)太平洋戦争末期の広島を舞台にしたある家族の物語。出演:松たか子、長澤

飼育_(映画) - 映画ペディア

日本映画。パレスフィルム製作、大宝配給。105分の白黒、ワイド作品。目次1 概要1.1 あらすじ2 スタッフ3 出演者4 外部リンク概要[]昭和20年(1945年)の初夏、ある山村に墜落した米軍機の生き残りである黒人兵士と村人との異様な関わりと顛末を描いた作品。タイトルの『飼育』

大牟田駅 - ウルトラマン Wiki

)の大牟田駅が開業。1942年(昭和17年)9月22日 - 九州鉄道(2代目)が合同合併し西日本鉄道成立により同社大牟田線となる1945年(昭和20年)7月26日 - 大牟田大空襲被災により駅本屋を含め大牟田駅構内が焼失。1956年(昭和31年)3月 - 現4代目駅本屋完成[3]

ふくろい遠州の花火 - 花火ウィキ

であったが、その風のおかげで煙がこもること無く花火が綺麗に観られた。2013 ふくろいの花火 すべて ( 2013.08.10.土)歴史[]昭和20年代にはじまった「袋井の花火」は、袋井町商工会の主催で長年続けられてきました。1993年に袋井商工会議所として格上げ改組され、会頭の

広島水上警察署跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

れました。当初の組織名は広島水上警察署宇品分署でした。その後、昭和12年に水上警察署は廃止され宇品警察署(現在の広島県警)へ統合されました。昭和20年8月の原子爆弾投下では、この建物も屋根が吹き飛んで梁が一部折れるなど被害を受けましたが、爆心地から4.6kmと遠かったため倒壊は免

長澤まさみ - ドラマウィキ

5年1月13日 - 3月24日、フジテレビ) - 皆川梓 役ドラゴン桜(2005年7月8日 - 9月16日、TBS) - 水野直美 役広島 昭和20年8月6日(2005年8月29日、TBS) - 矢島真希 役功名が辻(2006年1月8日 - 12月10日、NHK、大河ドラマ) -

わが家の歴史 - ドラマウィキ

るお見舞いメッセージも放送された。しかし、再放送の視聴率は、本放送時が20%を超える高視聴率だったのに対し、6%~7%台と低迷した。あらすじ昭和20年、終戦を迎えた日本の博多で暮らす八女家では、甲斐性がなく次々と事業を失敗させてしまう父の時次郎に代わって長女の政子が弟妹を支えてい

五月荘 - 呉市周辺の遺構まとめ

年に天応に海水浴場や宿泊施設を開業します。このころの料亭は宿泊もできるものが多かったのでその延長で事業拡大をしたものと思われます。残念ながら昭和20年の呉軍港空襲で全焼し当時の建物は残っていません。しかし、太平洋戦争終戦後わずか2年後に営業を再開し昭和48年に現在の建物に建て替わ

二葉山砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

まで見ることができます。兵舎跡平和塔から西に降りると兵舎跡の遺構が残っています。兵舎の入口もしくは階段と思われますが詳細不明です。この兵舎は昭和20年8月の原爆投下で全壊しました。兵舎跡周辺の遺構窪地にレンガ造りの仕切りがあるものが1つ。窪地に石をモルタルで固めて枠組みしているも

日当山温泉 - Gravity Wiki

島市中心街に隣接する住宅地にあり駐車場付きの家族湯が多い。国分温泉霧島市国分地区(旧国分市)の市街地周辺に散在する温泉群。1950年代前半(昭和20年代後半)から国分駅の近くに「塩湯」と呼ばれる湧出温度36-38℃の食塩泉があり加温して利用されていたが1967年(昭和42年)に閉

安浦港防波堤(武智丸) - 呉市周辺の遺構まとめ

を迎えましたが、うち1隻は戦没し終戦時は2隻が残存していました。太平洋戦争終戦後、ここ安浦港には防波堤がなく台風の度に被害を受けており、特に昭和20年9月の枕崎台風では甚大な被害が被ったため、残存している武智丸2隻を払い下げて防波堤代わりに据え付けて沈設しました。船内は完全に水没

重極湾(巡洋艦北上終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

泊していました。重極湾は倉橋島の南西にある北向きの湾で、両側に突き出した半島と目前に能美島があるため艦艇を隠すのに適した地形でした。しかし、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲では重極湾に隠れていた巡洋艦北上は空襲を受け大破しました。また、重極集落や隣接する江の浦集落でも米軍機の爆撃

安浦海兵団跡之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

、訓練は非常に厳しくなされました。当時を知る人によると「当たり前のように毎日殴られた」「殴られた思い出しかない」と言います。太平洋戦争末期の昭和20年8月、広島市に原子爆弾が投下された際には救護に出動したとの記録が残っています。なお、海兵団誘致に成功した大竹市には昭和15年に大竹

大浦突撃隊大迫支隊(Q基地跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

だけでは手狭になりこのQ基地が訓練生の宿舎として転用されました。全盛期にはここからP基地まで毎日船で通った訓練生もいました。太平洋戦争末期の昭和20年3月には、本土決戦に備え『大浦突撃隊大迫支隊』と改称しここでも訓練が行われていました。写真2枚目がQ基地からP基地を見たもので、訓

情島(戦艦日向終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

洋戦争中に後部を空母に改造した世界でもめずらしい航空戦艦です。戦争末期に南方での戦闘を終え呉に帰投しました。当初は呉湾内に停泊していましたが昭和20年3月の第一次呉軍港空襲で攻撃を受けてここ情島に移動し、燃料不足から浮き砲台となりましたが7月の第二次呉軍港空襲で大破着底し終戦を迎

大浦崎公園(P基地跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

た訓練生もいました。太平洋戦争末期になると甲標的だけではなく甲標的丁型『蛟龍』や人間魚雷『回天』も研究開発され、搭乗員の訓練も行われました。昭和20年5月には本土決戦に備え蛟龍500隻を生産し瀬戸内海への配備が決まります。しかし、連日の空襲や物資不足により配備は進まずそのまま終戦

米空軍勇士之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

米空軍勇士之碑倉橋島中部の丸子山にあります。倉橋島・江田島に隠れている日本海軍残存艦艇を狙った昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の際に、機体に損傷を受け藤の脇の民家に墜落しに亡くなった米兵の墓です。正確には空母艦載機のパイロットであるため米『海軍』勇士の碑とするが正しいのですが、当

三木谷医院(旧広海軍共済組合病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

と同時に建てられました。その後、太平洋戦争直前の昭和15年にとなりの地区である大新開(現在の広警察署の辺り)へ移転しました。太平洋戦争末期の昭和20年3月と5月に広海軍工廠と広の街は大空襲を受けますが、この建物に被害はなく終戦を迎えました。太平洋戦争終戦後は国鉄に払い下げられ宿舎

海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校) - 呉市周辺の遺構まとめ

れる中、「海軍士官にとって英語は必須教育」という理念から英語教育を継続したという逸話も残っています。太平洋戦争終戦と共に海軍兵学校は閉校し、昭和20年12月から進駐軍の教育施設等として使用されました。その後、昭和31年に横須賀にあった海上自衛隊術科学校が移転開校して今日に至ります

甲山防空監視哨跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

開拓碑龍華寺の境内にあります。満州への開拓・移民は世界恐慌で深刻な不況受けた昭和11年から国策として進められました。世羅からは昭和15年から昭和20年にかけて約750人が入植し『第一世羅村』と名付けられましたが、敗戦によるソ連軍の侵攻と元々の土地を奪われた中国人の暴徒に襲われる等

海上挺進戦隊戦没者慰霊碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

が伺えます。さらに訓練中に死者が出たという記録も残っています。似島にも同じく船舶練習部第十教育隊の分隊があり兵舎や桟橋が作られました。また、昭和20年8月に広島市に原子爆弾が投下された際はこの第十教育隊が広島市と似島に救助に出動したと記録が残っています。ちなみに、海軍も太平洋戦争

江田島公園 - 呉市周辺の遺構まとめ

の歴史は殉国の人々の尊き生命の集積がその根幹になっていることを忘れてはならない」にもその想いが紡がれています。小用港沖で空襲を受ける戦艦榛名昭和20年7月28日に小用港沖で空襲を受ける戦艦榛名と大破着底した戦艦榛名の写真慰霊碑に展示されています。砲弾(?)慰霊碑を囲む砲弾のモニュ

飛渡瀬(巡洋艦大淀終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

名な艦艇です。また、潜水艦を支援するための水上機の格納庫や大型カタパルトを装備しためずらしい艦艇でもありました。巡洋艦大淀は太平洋戦争末期の昭和20年2月、南方での激戦に生き残り呉港に帰投しました。しかし、他の艦艇同様に燃料不足で航行できない状態のまま3月の第一次呉軍港空襲で攻撃

灰ヶ峰展望台(灰ヶ峰防空砲台跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

自体は戦前からありましたが、昭和17年に防空砲台として竣工し『四〇口径三年式8cm高角砲』2門が高烏台砲台から移設配備されました。戦争末期の昭和20年になると8cm高角砲2門から戦艦大和に搭載された高角砲と同じ『四〇口径八九式12.7cm連装高角砲』2門に換装されました。現在は東

螺山砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

径三年式8cm高角砲が2門から4門に増強されます。しかし、半年後の9月に新宮防空砲台にすべて移設され武装がない防空監視所となってしまいます。昭和20年1月に秋月型駆逐艦の主砲に使われた『六五口径九八式10cm連装高角砲』という最新の大型高射砲2門が配備され、再び防空砲台として稼働

大竹潜水学校跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

大竹病院)太平洋戦争が終戦すると海外に残された約660万人の軍人・軍属・在留邦人の引き揚げ・復員が始まりました。大竹港は引き揚げ港に指定され昭和20年12月に大竹海兵団跡地に引揚援護局が設置されました。引き揚げ事業の一環として、ここ大竹潜水学校跡に呉市から呉海軍病院が移転してきま

雑魚場疎開地跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

とです。当時の一般的な家屋は木造住宅が主で火災に弱いことも理由の一つでした。建物疎開作業には地元の義勇隊や勤労学生・動員学徒が参加しました。昭和20年8月6日の原子爆弾投下当日も、約2,500人の学生が作業に従事しており、多くが犠牲者となりましたが、ほとんどが動員された女学生でし

ダイクレ興産第2工場(旧呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場) - 呉市周辺の遺構まとめ

の標識を見ることができます。なお、海軍工廠時代からこの方角を示す用語が使われていたかは不明です。米軍機による機銃掃射の弾痕(北側)北側に残る昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の米軍機の機銃掃射の弾痕南から襲来した米軍機は一度上空を通過し、反転して攻撃したきたため北側に弾痕が集中して

海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団) - 呉市周辺の遺構まとめ

も大正・昭和と太平洋戦争終戦まで新兵教育の場となりました。太平洋戦争末期にはとなりの海兵団練兵場に応急防空砲台を作って防空戦に参加しますが、昭和20年の呉軍港空襲で被害を受けます。太平洋戦争終戦後は、進駐してきた英連邦軍に接収され昭和31年まで英連邦軍の施設として使用されました。

警固屋(巡洋艦青葉終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

に加えて損傷が大きすぎるため修理の見込みが立たず、海軍工廠では他の艦艇の修理を優先させたため巡洋艦青葉はここ警固屋に係留されました。その後、昭和20年3月の第一次呉軍港空襲では移動できない浮き砲台となりつつも対空戦闘を行いました。しかし、7月の第二次呉軍港空襲で2回の攻撃を受け大

歴史の見える丘 - 呉市周辺の遺構まとめ

おり、実物大の戦艦大和と戦艦長門の徹甲弾が展示されています。戦艦大和は昭和16年12月16日(真珠湾攻撃の8日後)に就役し、太平洋戦争末期の昭和20年4月7日(日本海軍最後の組織的戦闘といわれる坊ノ岬沖海戦)に戦没したため「戦艦大和の艦暦は太平洋戦争の歴史そのもの」といわれていま

串山公園(旧串山防空機銃砲台) - 呉市周辺の遺構まとめ

ふもと(南側)の海軍工廠員工員養成所跡にあります。東側は海軍工廠員工員養成所と接しているため防空壕の数もそれなりに必要だったと考えられます。昭和20年の呉海軍工廠への空襲の際は入口に鉄製の防爆壁を備えていましたが、至近弾で吹き飛んで中の人が死傷したという記録が残っています。レンガ

魚見山隧道 - 呉市周辺の遺構まとめ

トンネルとして長年使われています。元々は太平洋戦争開戦の昭和16年に、軍都広島市と軍港呉を結ぶ道路の一部として着工しました。太平洋戦争末期の昭和20年1月に戦局悪化を受けて工事は中断され、終戦まで海軍の地下航空機工場に転用されました。太平洋戦争終戦後、復興のため広島市-呉市間の道

黄幡山九郎山機銃砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

。さらに、同年11月に25mm単装機銃6基も配備され合計9基の防空機銃砲台となりました。また兵舎や弾薬庫等も建設されました。太平洋戦争末期の昭和20年5月、第11海軍航空廠への空襲で米軍機の攻撃を受け12名の兵士が亡くなりました。太平洋戦争終戦後昭和25年、空襲で亡くなった兵士を

狩留賀浜(巡洋艦磐手終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

さから太平洋戦争までは海軍兵学校の練習艦として使用されました。太平洋戦争中の昭和17年に戦局悪化と艦艇不足を補うため再び巡洋艦となりますが、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲でここ狩留賀浜沖で空襲を受け大破着底し終戦を迎えました。また、姉妹艦の巡洋艦出雲も小用港で空襲を受けて沈没し

明磯神社の鳥居 - 呉市周辺の遺構まとめ

明磯神社の鳥居明磯(めいそ)神社は津久茂町にある神社ここには太平洋戦争末期の昭和20年5月の旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠への空襲で折れてしまった鳥居があります。爆風か衝撃により鳥居の3か所に亀裂が入っておりカスガイや金具で補強された跡があります。呉市街地の亀山神社にも焼夷弾で

海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部) - 呉市周辺の遺構まとめ

んあります。位置的に潜水艦桟橋と海軍吉浦貯油所の間に位置する火薬工場であったため、防空壕跡も多く作られたのではないかと思われます。戦争末期の昭和20年には防空壕の中で召集された女学生が砲弾を作っていました。戦艦陸奥の燃料校内の海上保安資料館にあります。柱島泊地で謎の爆発を起こして

大麗女島 - 呉市周辺の遺構まとめ

後、5人乗りの小型潜航艇で2本の魚雷を搭載し攻撃を行う本土決戦用の特攻兵器として改良され、戦争後期の昭和19年9月に大量生産が決定しました。昭和20年5月よりここ大麗女島工場で燃料庫トンネルを拡張し工員100名体制で生産がはじまりました。戦争末期の空襲激化と物質不足により他の工場

大竹海兵団跡之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

りました。太平洋戦争が終戦すると海外に残された約660万人の軍人・軍属・在留邦人の引き揚げ・復員が始まりました。大竹港は引き揚げ港に指定され昭和20年12月に大竹海兵団跡地に引揚援護局が設置されました。大竹港には遠くフィリピン・ニューギニアを始め南方から引き揚げが始まり、昭和21

九十九橋 - 呉市周辺の遺構まとめ

九十九橋九十九橋は海田市駅の近くにある瀬野川に架かるトラス橋昭和20年9月の枕崎台風で流失してしまった元の橋の代わりに山口県光市の光海軍工廠の廃鉄材を利用して造られた橋です。広島市の本川橋や呉の旧呉市交通局築地中央工場のように、終戦直後は鉄が貴重だったため海軍施設の鉄を再利用して

陸軍江波射撃場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

範囲で縦長の敷地でした。また、射線は2つあり路面電車の線路から斜めに皿山に撃ち込む射線と江波電停と平行方向に皿山に撃ち込む射線がありました。昭和20年8月の原爆投下の際は、爆心地から遠かったため江波地区に火災被害はありませんでしたが、多数の原爆犠牲者が射撃場跡で火葬され後年遺骨が