劉巴_(尚書令)

ページ名:劉巴_(尚書令)
曖昧さ回避この項目では、蜀漢の尚書令の劉巴について記述しています。同じく蜀漢の征南将軍については「劉巴」をご覧ください。

劉巴像

劉巴(りゅうは、179年? - 222年?)は、蜀漢)の政治家。字は子初。

後漢の楚戻王[1]劉英の7世の孫[2]、六侯[3]の劉种の6世の孫[2]劉度の玄孫、劉拘の曾孫、蒼梧郡太守の劉曜の孫、江夏郡太守・盪寇将軍の劉祥の子、劉某の父、劉先[4]の族子、劉敏[5]の族兄にあたる。

概要[]

零陵郡烝陽県[6]の人。父の劉祥は、荊州刺史の王叡と南陽郡太守の張咨を葬った袁術配下である長沙郡太守の孫堅と親交があった。

王叡の後任の荊州牧・劉表は、遠縁筋の劉祥とその子の劉巴のことを快く思わず、これを誅殺しようと目論んだ。劉表は南陽郡の民を扇動して、劉祥らを殺害した。しかし、その子の劉巴はまだ年少だったため、亡き劉祥の腹心が劉表に謁見して、懸命に弁護したため、ついに劉表は劉巴を葬ることを諦め、劉巴を茂才(孝廉)に推挙したが、彼は応じなかった。劉巴が19歳のときに零陵郡の戸曹史主記に任命された。一族の劉先が外甥[7]の周不疑を派遣して、劉巴の門下生として学ばせようとした。しかし、劉巴は自分は指導者の資格がないと述べて、周不疑を劉先のもとに送り帰させた[8]

208年に、亡父の仇である劉表が没すると、亡き劉表の部将たちはほとんどが劉備に従った。しかし、劉巴は南下した曹操に帰順した。曹操は彼を掾に任命して、劉巴の郷里である零陵郡をはじめ長沙郡・武陵郡・桂陽郡に帰順を働きかけた。そのとき、曹操ははじめは桓階に命じたが、桓階は自分は劉巴に及ばないとして、辞退してかわって劉巴が引き受けたのである。そのとき劉巴は曹操に「荊州南部は劉備が支配しており、無駄でしょう」と述べた。曹操は「劉備が荊州南部に向かえば、わし自らが討伐に向かうから安心せよ」と返答した[8]。しかし、まもなく曹操が劉備と孫権連合軍に『烏林の戦い』[9](『赤壁の戦い』)で敗れた後に、北方に撤退したため劉巴は孤立してしまった。

まもなく、劉備が荊州南部を平定すると、劉巴はその配下になることを拒んで、曹操がいる都に向かった。だが、これを聞いた劉備は長沙郡臨蒸県[10]にいた諸葛亮に命じて、劉巴宛の書簡を認(したた)め、劉巴に帰順を促した。しかし、劉巴はこれを断って交州[11]に向かった。諸葛亮の報告を聞いた劉備は人材を逸したと、非常に残念がった[8]

交州にいた劉巴は一時的に「張」と改姓した。しかし、交趾郡太守の士燮(士爕)と意見が合わずに、劉巴は劉姓に復して交州を立ち去り、西北にあるおなじく遠縁筋である益州牧の劉璋を頼った。その途中の牂柯郡太守に捕らわれて、処刑されかけたがその主簿が「これは常人ではありません。斬り捨てるべきではありません」と諌めたために、主簿の手引きによって劉璋に謁見させた。劉璋は劉巴が同じ後漢の宗族同士ということもあり、さらに劉璋の亡父の劉焉は、劉巴の父の劉祥の推挙で、孝廉になった過去があったので、劉璋は喜んで劉巴を顧問官に任命した[8][12]

211年に、劉備が劉璋の要請で蜀に向かったときに、劉巴は劉璋に対して「わたくしは、以前から劉備を存じております。あれは梟雄です。絶対に入れてはなりません」と諫言した。やがて劉備が入蜀すると、黄権とともに「わが君は劉備に張魯を討伐させることになれば、虎を野に放つようなものです」と、懸命に諌めた。しかし、劉璋は聴きいれなかった。このために劉巴は邸宅に門を閉じて誰とも面会を拒んだ。214年夏5月に劉備が蜀地方を平定すると、「わしは、以前から劉巴を評価しておる。けつして劉巴をはじめ、その一族の誅滅することはまかりならんぞ。そのようなことをする者はわし自らが誅滅するぞ!」と厳命した。かくして、劉備は念願の劉巴を得る機会を摑んだことを喜んだ。劉巴も門を開いて、劉備のもとに赴いて、謝罪して諸葛亮のとりなしもあって、左将軍・西曹掾になった[8]

以前に劉備が成都にいる劉璋を包囲したときに、将兵たちに「成都を陥落した際に、その財宝はその方たちに委ねる。わしは一切関知しない」と述べた。しかし、蜀を平定するとその将兵たちによって財宝が空庫となってしまい、劉備は財産をもらえなかった将兵の不平不満を心配した。劉巴が進言して「大丈夫です。ただちに百銭の貨幣を鋳造して、各物価を安定させて官吏に命じて、わが君が管理する市場を成立させれば充分です」と述べた。劉備がその通りにすると、数か月間で国が管理する財宝は充満した[8]

後に、涿郡の屠殺業上がりの叩き上げの軍人出身である張飛が、名士・劉巴の邸宅に泊まったことがあるが、劉巴は張飛と目を合わせずに、会話さえも拒んだ。この行為に激怒した張飛は、諸葛亮に事情を話した。そこで諸葛亮が仲介して劉巴に「張飛は武人でありますが、貴公を敬慕しております。また、わが君(劉備)は、目下のところ文武の人材を求めて、大業を成そうとしております。貴公は士大夫の身分でありますが、ここはご堪忍いただきとうございます」と述べた。しかし、劉巴は「士大夫たる身分の者は、貴種筋の英雄と語り合うのが当然と存じます。どうして、氏素性さえもわからない軍人と語り合う必要があるのですか?」と反論した。これを聞いた劉備は立腹して、「わしは漢王朝を復興させる大業を背負っておる。なぜ、同族の劉巴はそれを理解しないのか?いずれは、曹操のもとに再帰順しようと目論んでおるのか?どうして、わしの大業を補佐しないのか?」さらに「劉巴の才能は桁外れだ。わしでなかったら彼を使いこなせないであろう」とも述べた。諸葛亮も「劉巴どのは、わたしよりも軍事官としての能力がある。もし、軍勢を率いて戦う場面になったらわたしも人に意見が述べられる」といった[8]

220年に法正が46歳で逝去すると、その後任として尚書令となった[13]。彼は質朴な生活を送り、田畑を営んで財産を貯蓄しようとしなかった。同時に数奇な運命に弄ばれた結果として、劉備に仕えたのであり、劉備の猜疑心に触れないように慎ましやかに、寡黙に業務に励んだ。公務が終わると他人と交際を拒んだほどである。

221年に、劉巴は主簿の雍茂[14]とともに、劉備の皇帝の即位を諌めたが、雍茂は以前から劉備の行為を誹謗する咎めで、処刑された。劉巴は今までの功績で咎めはなく、かえって劉備の命を受けて、彼が帝位に即いたとき神に捧げた文を手掛けた。しかし、劉巴は失意のうちに病に伏せて、翌年に邸宅で没したという。子の劉某が後を継いだ。

の孫権は、輔呉将軍の張昭から「劉巴は張飛とも会話をしませんでした。あのような見識が狭い人物はおりません」と述べられた。しかし、孫権は亡父の孫堅と親交があった劉祥の子である劉巴に関して「もし、劉巴が世の中全体を見極めて、態度を豹変して、劉備に媚び諂うような行為をして、どんな人物とも交際するのならば、どうして高尚な性格を持つに値するのか?」と反論して、かえって劉巴を評価したという[8]

さらにの部将で、かつて劉備の配下だった陳羣が諸葛亮に劉巴の消息を手紙でたずねたところ、諸葛亮は劉巴に対して敬意を示したという[15]

脚注[]

  1. 「楚厲王」とも。
  2. 2.02.1世祖光武帝劉秀)の3男(あるいは次男)、生母は許夫人。楚王に封じられて、彭城郡(現在の江蘇省徐州市)を拠点とした。70年冬11月に異母弟の顕宗明帝(劉荘/劉陽)に対して、反乱を起こす計画を立てるも露見されたために、国を廃立されて家族とともに丹陽郡涇県(現在の安徽省宣城市)に移された。翌年夏4月、劉英は絶望して自決して果てた。その後、劉英の子である六侯・劉种の末裔をはじめ、その一族は零陵郡に移ったと思われ、同時に零陵郡太守の劉度も劉英の後裔で、劉巴と同族ではないかと推測される(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
  3. 盧江郡六県(現在の安徽省合肥市廬江県)に辺りにある。
  4. 字は始宗。
  5. 蒋琬の異父弟。
  6. 現在の湖南省邵陽市邵東県
  7. 『後漢書』劉表伝
  8. 8.08.18.28.38.48.58.68.7 『零陵先賢伝』
  9. 『江表伝』
  10. 現在の湖南省長沙市/岳陽市臨湘県
  11. 現在の広西壮族自治区西部/ベトナム北部あたり。
  12. 裴松之は「劉祥は、すでに要職を歴任した劉焉よりも年少の可能性がある。実際に劉焉を推挙したのはおそらく劉巴の祖父の劉曜の間違いではないか?」と述べている。
  13. 蜀書』楊戯伝
  14. 梓潼郡(現在の四川省綿陽市梓潼県)の人で、前漢の什仿(什邡)粛侯の雍歯の後裔で、雍闓の族兄弟にあたる(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
  15. 魏書』陳羣伝

関連項目[]



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