劉氏

ページ名:劉氏

劉氏(りゅうし)とは、中国の五大姓の一つに数えられ、北朝鮮・韓国にも中国系の劉氏が存在する。特にの皇室の姓として、後世まで大いに影響を与えている。

目次

概要[]

現代中国において、最も数の多い五大姓(李・王・張・趙・劉)の一つに数えられる。歴史的には漢(前漢(初漢/西漢)・後漢(仲漢/東漢)・蜀漢(季漢/))・宋漢(劉宋)・夏漢・趙漢・後漢(北漢が分岐する)・南漢・燕漢(遼)などの姓である[1]

劉氏の起源[]

劉氏の起源[]

  • の帝堯の末裔である姚姓劉氏。帝堯の嫡流[2]の末裔が劉邑に封じられ、以来その地名の劉氏と称したという。
    • 姚姓劉氏からは、夏(娰姓)の王である孔甲の治世に一人の龍を御する名手が現れている。その名は劉累という。一頭の龍が病死するということがあったあとは、劉累は家族を伴って魯陽[3]に逃れた。これが河南劉氏の起源とされる[4]
    • 劉累の末裔からは周の龍氏[5]・唐氏[6]・杜氏[7]・士氏[8]・范氏[9]の諸氏が出た。
  • 周王室の一門である姬姓劉氏。前592年に周の第19代王の頃王(姫壬臣)の庶子である姫季子が異母兄の定王(姫瑜)から、劉[10]を封じられて、「康公」と謚された。定公(姫夏)・献公(姫摯)・文公(姫狄/姫巻/姫伯蚠)・桓公(姫做)と続いたが、前488年に桓公に嗣子がなく、周王室の藩屏国である「劉」の嫡流は断絶した[11]。ただし、傍系は劉氏と称して、ひそかに在続した。はるか後世にトルコ系匈奴屠各(屠客)部攣鞮(虚連題)氏族の王朝の趙漢の左光禄・大司徒である劉殷は、その後裔であるという。

漢の劉氏[]

前漢の劉氏[]

前漢の劉氏は、発祥地である泗水郡(四川郡)沛県豊邑中陽里[12]の豪農出身である劉邦[13]が、の始皇帝死後の混乱に乗じて台頭して、宿敵の項羽を討って(前漢)を建てたことに始まる。以来、劉氏は漢の皇室として存続した。だが、外戚であった新の王莽が前漢最後の皇帝の劉嬰(孺子嬰)より禅譲を受けると、劉氏の漢王室はいったん滅亡した。

後漢の劉氏[]

前漢に代わって建てられた新の王莽は民心をつかめず崩壊し、前漢の宗族であった劉秀世祖光武帝として即位し、後漢を再建した。この家系は前漢の皇室の一門である長沙劉氏の後裔であるが、前漢の皇族を冷遇したといわれる。

蜀漢の劉氏[]

後漢の滅亡後、(曹魏)・(孫呉)・蜀漢()の三国が覇権を争う三国時代となった。このうち蜀漢を建国したのは、後漢初期の斉武王の劉縯(前漢の成祖景帝(劉啓)の第7子である長沙定王の劉発の庶子の舂陵節侯の劉買の系統で上記の光武帝の同母長兄)の末裔[14]の庶家出身である劉備烈祖[15]穆帝[16](繆帝)と称したことによる。

その他の劉氏[]

漢王朝の滅亡後も、南北朝時代の宋漢(劉宋)の劉裕が楚の元王の劉交(劉邦の従弟、荊湣王の劉賈の異母弟)の末裔と自称したほか、趙漢を建てたトルコ系匈奴屠各(屠客)部攣鞮(虚連題)氏族の大単于である劉淵を始め、その分家である鉄弗(赫連)氏族の劉勃(赫連勃々/赫連佛々)[17]が建てた夏漢、五代十国時代に同じくトルコ系突厥沙陀部の出身で後漢を建てた劉知遠が劉氏の末裔と自称している。同時に南漢を建国した劉龑(アラブ系とされる)もその末裔と自称し。さらにモンゴル系とツングース系の混合民族である契丹迭刺部の遼の耶律氏(移刺氏)も漢風の姓として、劉氏と称し、別の国号を燕漢と称していた。そのほかに、明中期の劉通の農民蜂起政権の漢も存在した。そのほかに隋末に野盗出身である漢東王の劉黒闥の政権も漢と称した。

脚注[]

  1. 2006年11月の人口で、劉姓は6528万人である。
  2. 一説には帝堯の嫡長孫の式、一説には帝堯の第9子の源明、一説には帝堯の長子の丹朱を祖とする。
  3. 現在の河南省平頂山市魯山県
  4. 一説には、劉累の故地は河南偃師であったともいう。
  5. 職業を氏とした。
  6. 周の初期の「興滅継絶」の時期に堯の故地の唐を氏とした。
  7. 周の成王が劉累の末裔を杜に移した。
  8. 杜氏の杜伯の子の隰叔がに移り、士師に任じられたことから、官職を氏とした。
  9. 晋の士会(范武子)が范に封じられ、范氏と称した。
  10. 現在の河南省偃師市
  11. 『春秋左氏伝』より。
  12. 現在の江蘇省徐州市豊県中陽鎮
  13. 劉邦については多くの伝承があり、家系については様々な議論があったが、唐の司馬貞は「晋の士会の子孫」としているが、これに対して清の銭大昕の『二十二史考異』では「劉大公(劉煜/劉煓、字は執嘉/大帝、劉邦の父)以前は姓を考えるような身分ではなかった。どうして祖先の姓がわかるだろうか」と述べている。また、『漢書』と『新唐書』が劉邦の出自に言及している。贊曰:《春秋》晉史蔡墨有言:陶唐氏既衰,其後有劉累,學擾龍,事孔甲,范氏其後也。而大夫范宣子亦曰:「祖自虞以上為陶唐氏,在夏為禦龍氏,在商為豕韋氏,在周為唐杜氏,晉主夏盟為范氏」范氏為晉士師,魯文公世奔秦。後歸於晉,其處者為劉氏。劉向云戰國時劉氏自秦獲于魏。秦滅魏,遷大樑,都于豐,故周市說雍齒曰:「豐,故梁徙也」是以頌高祖云:「漢帝本系,出自唐帝。降及于周,在秦作劉。涉魏而東,遂為豐公」豐公,蓋太上皇父。其遷日淺,墳墓在豐鮮焉。及高祖即位,置祠祀官,則有秦,晉,梁,荊之巫,世祠天地,綴之以祀,豈不信哉! 由是推之,漢承堯運,德祚已盛,斷蛇著符,旗幟上赤,協於火德,自然之應,得天統矣(『漢書』高帝紀第一より)。劉氏出自祁姓。帝堯陶唐氏子孫生子有文在手曰:「劉累」,因以為名。能擾龍,事夏為御龍氏,在商為豕韋氏,在周封為杜伯,亦稱唐杜氏。至宣王,滅其國。其子隰叔奔晉為士師,生士蒍。蒍生成伯缺,缺生士會。會適秦,歸晉,有子留於秦,自為劉氏。生明,明生遠,遠生陽,十世孫,戰國時獲於魏,遂為魏大夫。秦滅魏,徙大梁,生清,徙居沛。生仁,號豐公。生煓,字執嘉。生四子:伯、仲、邦、交。邦,漢高祖也(『新唐書』表第十一より)。
  14. 三国志』の『蜀書』先主伝が引く『典略』より。
  15. 『晋書』王彌伝より。
  16. 元本』(『元大徳九路本十七史』、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書)より。
  17. 南匈奴の右賢王・去卑の末裔。

関連項目[]

関連リンク[]

  • 『前漢・劉氏』
  • 『後漢・劉氏』


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