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甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する劉封像
劉封(りゅうほう/りゅうふう、190年 - 220年/191年 - 221年)は、『三国志』の蜀漢(蜀)の皇族部将。字は不詳(後述)。臣下の諸葛亮の讒言で、非業の死を遂げた人物である。干支は未年。
烈祖穆帝(繆帝)の劉備の養子、劉公仲[1]・後主(懐帝)の劉禅・劉永らの養兄、長沙郡羅県[2]の劉氏の外甥、羅侯の寇氏の子で父母の名は未詳[3](後述)。子は劉琳(劉林)、母方の叔父は樊城県の令・劉泌(寇泌、後述)[4][5]。
上記に述べた劉封の出自は陳寿が簡潔に記述したもので、正史・野史を問わない他の史書[6]にも詳しく記述されていない(後述)。そのため、劉封の出自は矛盾が多く曖昧かつ謎のままである(後述)。
ちなみに、前漢の長沙定王の劉発[7]の系統[8]と見られるふたりの「長沙劉氏」の事項が記述されている[9]。まず、そのひとりは長沙郡臨湘県[10]の人で、長沙王の劉舜の子の劉興が一族の世祖光武帝(劉秀)によって、臨湘亭侯に封じられ、その直系が劉寿(劉壽)[11]である。彼は敬宗順帝(劉保)の治世の138年(永和3年)~142年(漢安元年)の期間に司空の要職にあった。もうひとりは劉寿の後裔である劉囂[12][5]で、彼も169年(建寧2年)~170年(建寧3年)の期間に司空の要職にあった。彼は霊帝(劉宏)の治世の人物で、その子が樊城県の令の劉泌[13]である。そのため、劉封も臨湘亭侯と血縁的に近い人物とする見方もされる[14]。
202年~207年にかけての南陽郡新野県[15]にいたころの劉備が男子がいないため、その養子となった。これを聞いた関羽は「わが君には懐妊なされた甘夫人(劉禅の母)がおられるでしょう?袁紹と劉表父子のお家騒動の例をお忘れですか?!」と不満を持ち、激しく反対した[16]。以降から関羽と犬猿の仲になったというが、真偽の程は不詳である[17]。
歳月は流れ、212年から213年にかけて劉備の益州討伐に従い、魏延とともに功績を残した。このときの劉封は20余歳の男盛りの勇猛な劉一門の部将だった。そのため副軍中郎将に任じられた。
217年、法正の進言で、劉備は漢中郡に討伐した。そこで、劉封は劉備の命で、漢中郡から沔水に添えながら、南下して江陵郡に駐屯している孟達の軍勢を統轄した。劉備は内心、孟達を警戒したのである。
218年、漢中郡から魏延の援軍もあり、劉封は副将の孟達とともに軍勢は姊帰県から北上し、荊州西北部の房陵郡太守・蒯祺[18]を討伐した。孟達は蒯祺に降伏勧告の使者を出したが、蒯祺が拒んだため、激怒した総大将の劉封は房陵城を猛攻撃した。孟達は劉封を諌めたが、怒りが収まらない劉封は孟達の諌言を聞き容れず、孟達に厳命してこれを陥落させ、魏延に命じて蒯祺をはじめその一族を皆殺しにした[19]。この蒯祺は諸葛亮の姉婿で、諸葛亮が慕う蒯越の族子(おい)だったため、そのため劉封は諸葛亮の恨みを買った。219年夏のことだった。さらに上庸郡太守の申耽・申儀兄弟を討伐した。申兄弟が全面降伏し、妻子を人質に差し出したので、こうして荊州西北部全域は平定されたのである[20]。その一方、魏の曹操も、荊州刺史の胡脩(胡修)・南郷郡太守の傅方を援軍として、劉封を討伐させたが、劉封が荊州西北部の三郡を占領したために、胡脩・傅方は止むを得ずに引き揚げた。
間もなく劉封は父の劉備から上庸・房陵・西城の三郡[21]の統轄を任され、副軍将軍に累進した。さらに劉備は諸葛亮のすすめで、帰順した申兄弟を西郡城太守に任命して、劉封を補佐させた。
同年秋7月、南郡の襄陽や樊城で魏の曹仁[22]を包囲した関羽は勢いに乗じて、主簿・廖化[23]を援軍要請の使者として何度も派遣した。しかし、関羽が生来から持つ不寛容さを懸念して気が進まない劉封は、孟達と建議した結果として「服属させた房陵郡の山中にいる土豪の動揺を与えないことや、まだ軍勢の編成が整っていない」という理由で援軍を拒んだ。廖化は執拗に援軍を嘆願したが、孟達によって強引に追い返された。この対応に激怒した廖化はいったん関羽のもとに戻ってこのことを報告した。以降から関羽は劉封と孟達を恨むようになった。
結果的に関羽は曹操が派遣した歴戦の部将の徐晃と趙儼の10万の軍勢により、援軍が来て勢いづいた曹仁が副将の満寵・牛金を率いて突撃し、関羽は挟撃されて大敗した。その後、関羽は呉の呂蒙によって当陽県麦城に包囲され、ついに臨沮県の漳郷で呉の司馬・馬忠によって関羽とともに捕らわれた、哀れな関羽は長子の関平とともに斬首された。しかし、廖化は降伏を示したため助命された。しばらくして「自分はすでに死んだ!」と称して、姿を消して襄陽郡[24]に帰郷した。数年後の221年に、廖化は老母を伴って呉の親征中の劉備に姊帰県で謁見し、そのまま部隊長として『夷陵の戦い』に従軍した[25]。
また、劉封は孟達と仲違いした。220年のあるときに孟達の軍楽隊[26]を奪った。激怒した孟達は盟友の諸葛亮にこのことを告訴し、劉備に対して訣別の書簡を渡して[27]、そのまま離反し魏の曹丕[28]のもとに奔った。曹丕は孟達の才能を認めて厚遇した[29]。間もなく曹丕は孟達に対して、自分の族兄弟である夏侯尚[30]と徐晃とともに劉封討伐を命じた。
激怒した劉備は劉封に命じて、これを迎え撃たせた。
孟達は使者に降伏勧告の書簡[31]を持参させて、劉封のもとに派遣した。だが、この書簡を見た劉封は怒り狂ったため、その使者を斬り捨てて、猛攻撃した。
しかし、先年に帰順した西郡城太守の申兄弟が裏切ったため挟撃に遭い惨敗して、劉備がいる蜀郡成都県[32]に逃げ戻った。そのときに、劉備は「(関羽が)襄陽・樊城包囲した際に、なぜ援軍要請に応じなかったのか!」と、激しく詰問した[33]。
このときの諸葛亮は姉婿の蒯祺の仇を討たんために「封公子はわが君が蒯祺を生かして捕虜にする君命に背きました」そして、引き続き「封公子は生来剛毅のため、次世代(劉禅)では制御できないでしょう。ここは死を賜るべきです」と劉備に進言したため、劉封は自決を命じられた。劉封は自決して果てる直前に「孟達の使者を斬るべきではなかった。彼の言葉を採り上げれば、わしは晋の太子申生のような運命にならなかったであろう。それが至極残念だ」と最期の言葉を遺した、30余歳だった。間もなく劉備は可愛い倅の劉封の死を聞いて、後悔の情念が生じて激しく嘆き悲しんだという。220年末から221年春正月~春3月頃のことだった。
子の劉琳は、263年に蜀漢が滅亡すると、河東郡にうつり、叔父・劉禅一行とは同伴しなかった[34]。
陳寿は「封は(父である)先主(劉備)に疑われているのに、身の備えさえ全くしなかったため、悲惨な末路を迎えたのは当然である」と酷評している(後述)。
父・劉備似?で勇猛果敢だった劉封にとって致命的だったのが、文治派の諸葛亮らと対決し、武断派の魏延らの支持を受けたため、諸葛亮らの讒訴による冤罪で自決したのは後世の徳川信康[35]のおよび、「養子」という立場での松平秀康(結城秀朝)[36]などの事項と共通していると思われる。
苦悩する貴公子の劉封
『通俗三国志』第19回で、196年夏または198年秋9月ごろに、劉備が呂布の部将の高順と張遼らに小沛[37]を陥落されて、親族・外戚の簡雍、麋竺・麋芳兄弟、腹心の孫乾らと脱出して、無事に逃亡した。
ある夜に劉備一行らは小沛付近のある家の主人の猟師・劉安[38]の邸宅にかくまわれた。あいにく劉安はもてなす食料がなかったため、妻を犠牲にしてその人肉を差し出した。それを知らなかった劉備一行は感激したが、しばらくして劉安が事実を説明して、その顛末を知った劉備らはひどく落胆して、同情したという[39]。
その代償として、劉備は後に曹操を頼って、このことを話すと曹操も同情し、孫乾を使者として劉安に3斤の金を賜り、さらに官職も与えられたが、劉安は丁重に辞退した。その代償として、劉安の子・劉封を劉備の養子にした逸話が残っている[40]。
この逸話を小説家の吉川英治は日本人の民族性を考慮して、採用するかどうか悩んだという。さらに『吉川三国志』を原作として、コミカライズ[41]した横山光輝の『横山三国志』はこの部分を添削して採り入れていない。しかし、中国では「人肉」の風習があるためにポピュラー娯楽として、上記の逸話は親しまれている。
『東観漢記』・『元本』[42]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。
結論
劉封は劉備の実子で、しかも嫡長子である可能性が濃厚である。彼は政敵[66]の讒言によって非業の死を遂げた後漢の侍中・寇栄の外曾孫に当たるため、諸葛亮の陰謀で「養子」として改竄された可能性が高い。
同時に劉封は「長沙郡」の出身ではなく、実父とする劉備と同じ「涿郡涿県楼桑里」[67]の出身で、出生地は母方の寇氏(鴻氏)生家がある「上谷郡昌平県」[68]、あるいは長沙郡臨湘県出身の可能性が高い。
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