八王の乱

ページ名:八王の乱

登録日:2023/07/26 Wed 20:29:01
更新日:2024/07/11 Thu 13:43:03NEW!
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三国志ファン涙目 世界史 中国史 中国 内ゲバの嵐 東晋 西晋 虐殺 身内に権力を持たせた結果がこれだよ! カオス 大体合ってる 魏晋南北朝時代 各個撃破 泥仕合 三国志の末路 八王の乱 八王だけじゃない 司馬だらけ 芝も生えない 八王司馬き合い対決






古代中国において長く続いた三国志を制し中華を統一した晋。この晋で行われた無差別級タイトルマッチこそ、後の世に八王の乱と言われた戦いである。
タイトル獲得者は8人以上いるが、地方のチャンピオン8名が王者を倒してタイトルを獲得したことからこのように呼ばれる。
皇帝の意向により王者は親戚や付き人を重要ポストにつけられるなど政治的に様々な権利を得られるため、国中を巻き込み大きな盛り上がりを見せた。
しかし出場資格がない被差別級の選手が暫定王者となり晋を解体、タイトルも必然的に廃止とされてしまった。


主なルール

スポンサーを害さず、誰の挑戦も受けること。ただし挑戦状を出していない者が現役チャンプを倒してもチャンプにはなれない。
これさえ守っていればどのようなことを行っても構わないし誰を巻き込んでも構わないという、ルール無用にもほどがあるバーリトゥードである。


主な関係者

スポンサー

  • 司馬しばえん

盟友の賈充に対して「あんたがチャンプ」とか冗談で言っちゃったのが始まりとされる。
賈充の死後には義父に当たる楊駿に暫定王者の座を与えた。


  • 司馬ちゅう

妻である賈南風に洗脳され八王の乱の熱烈なスポンサーとなった、無頼の格闘技ファン。
特に血が繋がっている身内同士で戦わせて王者を決めることを好んでおり、しかもそのためには当事者も含めどんな犠牲も厭わないというすさまじい迷惑かつ悪趣味な人物。
しかしそうした楽しみは得てして長く続かず、最期はショックで食中毒になり死んでしまう。


  • 司馬

現実を目の当たりにして八王の乱を中止とした司馬衷の後継者。
まあ手遅れだったけど。


歴代王者

  • 賈充かじゅう

ルールの基礎固めを行ったが、スポンサーを害しておきながら犯人を殺して謝ったのでセーフというルール破りまで行っている。
賈南風を使い、当時スポンサーの御曹司のうちの一人でしかない司馬衷を見事に後継者へと導いた。


  • 楊駿ようじゅん

娘が司馬炎に嫁いだことで暫定王者に指名された。
更に自分がチャンプになっている競技のファンにさせたことによって、八王の乱のルールが制定され正式な競技として開幕に至った。
一方でルールに不満があったため賈南風と対立、その結果として挑戦者を送られ敗れることとなった。


  • 司馬りょう

本来なら司馬瑋がチャンプになるはずだったが、周囲が新たなチャンプには司馬亮がいいというので暫定王者に選ばれてしまった悲劇の老人。
衛瓘と共に戦うも、年の差には勝てずあっけなく瞬殺された。


  • 司馬

賈南風のラジコン。楊駿を倒し司馬亮も退け新たなチャンプになる。
だが勝利後の記者会見を終えてリラックスしていたところを賈南風に突如として刺殺され、死んでいるにもかかわらず無理矢理リングに上げられたことによりチャンプの座を明け渡すことになってしまった。
このことは賈南風の恐ろしさと八王の乱がどれほどルール無用かということを世に知らしめることになった。


  • 南風なんぷう

スポンサーである司馬衷は身内同士で戦わせることを望んでおり、その対象には妻も含まれている。
正当なチャンプを不意打ちで殺したという恐怖により、目立った挑戦者が現れなかったため長らくチャンプの座を欲しいままにしていたが、その間の不満を一身に背負った司馬倫の前に敗れた。


  • 司馬りん

長い沈黙を破って現れたニューカマー。人気のアイドルソロキャンパーに似た名前も人気の秘訣。
だが実際はセコンド兼トレーナー兼マネージャーの孫秀のラジコン同然だった。
挑戦者を一度破った際、自分がスポンサーになれば挑戦者が来なくなると思い司馬衷に手を出した。
しかしそうは問屋が卸さず、リングに担ぎ出されて1対4という圧倒的不利な状況で戦うことを余儀なくされ、当然のようにボコられてあっけなくKOされた。


  • 司馬けい

最終的に司馬倫を冏Oしたので暫定チャンピオンに選ばれたが、慢心しすぎたため司馬穎司馬顒によりリングに上げられそうになる。
だが司馬穎司馬顒司馬乂にも協力を仰いだところ、控室でボコボコにされ意識不明のまま司馬乂に担がれながらリングに上げられ司馬乂が勝者となった。


  • 司馬がい

この結果に納得いかない司馬穎司馬顒はその場で挑戦場を叩きつけ、即座に試合が始まった。
1対2という卑劣な挑戦者に対しよく粘っていたものの、粘りすぎていたのが面白くなかったのか観客席から飛び出してきた司馬越司馬乂を殴り倒してしまった。
司馬乂を倒したのは司馬越だが正式な手順を踏んでいなかったため、司馬穎司馬顒は二人でようやくチャンピオンの座を手にした。


  • 司馬えい司馬ぎょう

二人がかりでありながら苦戦しつつも司馬乂を破り念願のチャンピオンとなった二人は仲良く正式な手順を踏んで挑んできた司馬越を下したものの、突如として司馬穎のジムが異民族に乗っ取られてしまった。
ジムを失った司馬穎は相方に見限られ、結局は司馬顒が真のチャンプとなった。
だが司馬乂戦から続く度重なる連戦の疲労に加え司馬越側に王浚司馬騰が加わったことで1対3の戦いを強いられ、敢闘空しく敗れ去った。


  • 司馬えつ

最後の勝者を待っていたのは、くだらないケンカなんかやってる場合じゃないほどの惨状だった。
スポンサーそのものの力が大きく落ちており、現実を直視してしまった司馬衷は上述のように死亡する。
後継者である司馬熾のために戦うことを余儀なくされたが、度重なる戦いでの疲労に加えて司馬熾や弟子の苟晞と不仲になったストレスにより真っ白な灰になって死亡、ついでにジムも壊滅させられた。
上述のようにスポンサー自体の体力が残っていないため次を開催することはできず、それどころかスポンサーそのものが乗っ取られるという事態に陥り八王の乱は幕を閉じた。


挑戦者たち


  • 司馬いん

孫秀が付き人をそそのかしたため、控室で死亡が確認された。


  • 司馬よう

頑張ってはいたけどなんかいつの間にか死んでた。


  • 王浚おうしゅん

特技はちからためで、怒らせると怖い。


  • 司馬とう

仕方なくリングに上がったやれやれ系。


  • 公師藩こうしはん

司馬顒のシンパ。その無念を背負って挑戦状を叩きつけたもののあえなく敗れた。
弱らせた司馬越司馬顒が戦って倒す算段だったが、当の本人が会場にすら間に合わなかった。


付き人たち

  • よう
  • さい

楊駿の弟たち。
楊珧はマネージャーだったが楊駿の有り様を見て辞しており、楊済はセコンド兼トレーナーとして諫め続けた。


  • えいかん

司馬亮のセコンド。
いてもいなくても良かった。


  • 郭槐かくかい

賈南風の母親でありマネージャー。
賈南風に的確なアドバイスを送り続けた。


  • 張華
  • 裴頠はいき
  • 賈模かも

賈南風のトレーナーやセコンドたち。
いずれも優秀ではあったがマネージャーとしての力量不足により司馬倫の挑戦と賈南風の敗北を止めることはできなかった。


  • 孫秀

司馬倫の操縦者。
挑戦者を事前に退けるなどなかなかのやり手だったが、さすがに1対4でリングに上げられてはどうしようもなかった。


  • 陸機りくき
  • 孟超もうちょう

対立関係にあった司馬顒のセコンド。
試合中に孟超が陸機のせいで負けたと告げ口したため、司馬顒は腹いせに陸機と観戦に来ていたその兄弟家族を全員殴り殺した。
だが司馬乂を倒すに当たっては陸一族の死は特に関係なかった。むごい。


  • 張方

司馬顒のセコンド兼トレーナー。
司馬顒のことをよく支えていたが、逐一うるさかったので司馬越との対戦中で疲れた司馬顒により退場させられた。


  • 苟晞こうき

司馬越の弟子だが、ぞんざいな扱いを受けていたのでスポンサーに告げ口したところなんか司馬越が勝手に死んだ。
そこで暫定王者になるはずであったが、チャンピオンベルトを手にする前に路上でボコボコにされて死んでいるところを発見された。


歴代タイトルマッチと結果


王者勝敗フィニッシュ勝敗挑戦者
楊駿×クーデター司馬瑋
司馬亮×クーデター司馬瑋
司馬瑋×↑の勅命は偽造ということで
(その後9年ほどの空白)
賈南風
賈南風×クーデター司馬倫司馬冏司馬肜
司馬倫クーデター×司馬允
司馬倫×クーデター司馬冏司馬穎司馬顒司馬乂
司馬冏×クーデター司馬乂
司馬乂×軍事衝突中に司馬越がクーデター司馬穎司馬顒
司馬穎司馬顒軍事衝突×司馬越
司馬穎×軍事衝突司馬越王浚司馬騰
司馬越武装蜂起したが鎮圧×公師藩
司馬越軍事衝突の後和平を持ちかけると思わせ暗殺×司馬顒



追記・修正はリングに上がってからお願いします。



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…さて、ここまで見た諸氏にはもうお分かりだろう。
 *      *
  * 割と本当です  + 
      n ∧_∧ n
 + (ヨ(* ´∀`)E)
      Y     Y    *





実際のところ、この八王の乱は三国志を制し中華を統一した晋で起きた一連の内乱で、その成功で権力を握ったのが八人の王であったことを由来としている。
皇族の司馬氏による頭痛が痛い司馬だらけ大運動会は華北全土を巻き込む大騒乱となった。
これにより朝廷の影響力はボロカスになり、更に異民族の乱入も招いたため終結後まもなく晋による統一は崩れ王朝も斃される羽目になってしまった。





真面目な概要

端的に言えば皇后や、封建され力を持つ皇族である王を中心とした、晋の権力を巡り入れ替わり立ち替わりで行われた派閥争いである。
三国統一を成した司馬炎は統一後に堕落し政務を放り出しており、後を継いだ司馬衷も暗愚なお飾りなので上り詰めれば思うがままの権勢を握ることができた。
また家柄が良く中正官に近しい者たちしか出世できない九品官人法は根腐れしてしまい、中央での出世が望めない家柄の者たちは各地の王の下へと集まった。
このため大体はクーデターがくぅ!出たぁ!(激寒)で収まっていたのだが、やがてそうして力を付けた王たちが部下に煽られての武力衝突へとエスカレートしていくこととなった。


???「血縁関係があるからといってやみくもに封建するのは危険です! もっと中央集権を考えないと!」


なお、ソースが文章量だけで洗練されていないと呼ばれる晋書なので、記述には矛盾が生じることがある。


主な登場人物


皇族

司馬八達および皇帝の縁戚に連なる一族。
皇族の権力の弱さにより何もできずに倒れたの前例を踏まえ、みな権力を強化されている。
しかし強力すぎるが故に、国家が四分五裂してしまった。


八王

  • 汝南王・司馬亮

司馬懿の三男で司馬師司馬昭の異母弟。当時の一族の長老格。
厚遇されてはいるし、清廉で悪辣陰険な策を弄するようなタイプではないが、さりとて兄たちほど優れてはいない。
獣戦機に乗ったりもしないが分離はする。処刑される時はみんなするけどね。


  • 楚王・司馬瑋

司馬炎の六男。切れたナイフ。
頭が回り勇猛で民衆人気も高かったのだが、短慮かつ粗暴なひねくれ者。
結局その性格が命取りとなった。


  • 趙王・司馬倫

司馬懿の九男。帝位を簒奪した僭称者。そのため八王の中でも評価の低さはぶっちぎり。
孫秀のような身分の低い人物を重用するなど器量はあるが、その言いなりになって欲望のままに行動した挙句責任転嫁するクソ上司。
しかも文盲で頭も弱い全くの無能なのだが自尊心だけは山より高く、陰険で執念深い上に逆恨みしまくるのだからどうしようもない。
それで何度失態を犯しても叔父というだけで処刑されないどころか出世できてしまうのだから、晋という国の歪みが如実に表れている。


  • 斉王・司馬冏

司馬昭の三男司馬攸の子。親に似て聡明な勇士と思われていた。
だが非常に大きな功績と権力に溺れ、自分を見失う。


  • 長沙王・司馬乂

司馬炎の十七男で司馬瑋の同母弟。当て馬にされるはずだった烈士。
任地こそ荊州南部の長沙と非常に遠いが、史書で基本クソゴミ扱いの八王の中で司馬乂だけは知勇兼備で皇帝への忠誠を尽くしたと評価が高い。
その忠誠心の高さは司馬衷さえも動かすほどで、誰からも信頼されていたのだが……


  • 成都王・司馬穎

司馬炎の十九男。恵帝の後釜候補でもあった人気の若手。八王は大体若いけど
その源は文盲ながら自分を知る謙虚な性格であったが、権力を握ると自制心を保てなかった模様。
とはいえその人気は失脚・死後にさえ復権や復讐を掲げて挙兵する勢力がかなり現れた程の政治資産だった。
任地が蜀の成都と非常に遠く、これが後に彼の死命を決することに…


ただし文盲のはずの司馬倫司馬穎も明らかに文字が読めているような逸話がある。晋書の至らぬ部分故である。


  • 河間王・司馬顒

司馬懿の弟で曹叡が「二人目の司馬懿」と評した実力者、司馬を祖父に持つ傍流の皇族。
血統的にはあまりいい位置にいないが人柄で信望を集めて高官となっていた。
しかし乱での行動はただの日和見主義者でありクズムーブを連発する。


  • 東海王・司馬越

司馬懿の弟司馬の孫で、最後の勝者にして最初の敗者。
血統的には司馬顒以上のハズレであり、それで若くして朝廷の第一人者となるひとかどの人物。
しかし、肝が据わっていないのか利己的でセコい部分が散見される。
そんな人物が勝者になれたことこそが八王の乱を象徴していると言えるが、彼がほぼ詰んだ局面を残していなくなったことで、晋は滅んでしまった。


皇帝

  • 武帝・司馬炎

暗君となった晋の初代皇帝。
中華統一後の国家長久の地盤作りを怠った上に、司馬衷を後継に指名するなど混乱の下地を築いた。


  • 恵帝・司馬衷

八王の乱のほぼ全体で在位した暗愚な晋の二代皇帝。「米がない?肉粥を食えばいい」とフランス王妃が言い放ったとされる名台詞を彷彿とさせる台詞を言い放ったという伝説を持つ。*1
司馬炎も廃位しようかと思っていたほどだが、賈南風の策略で皇太子となりそのまま皇帝となった。
しかし実際は他人の手にあると正当性が上がるが自分が手に入れると元の数値以上に下がるという、呪いのアイテムみたいなもんであった。
ただ、ちょいちょいと皇帝ムーヴを見せるシーンもあり、無能で実権はなくてもただ暗愚なだけではなかったのでは?と言う擁護意見も。


  • 懐帝・司馬熾

晋の三代皇帝で実質的なラストエンペラー。武帝の末子。
兄の死後に司馬越によって擁立されたが、乱後に司馬越と権力争いになったことがトドメになってしまった。


  • 愍帝・司馬鄴

名ばかりの四代皇帝。武帝の孫(司馬晏の子)。懐帝死亡後、長安で皇帝に祭り上げられる。
しかしもう晋は脆弱な地方政権と化し、情勢を覆す見込みなど残っていなかった。


皇后・外戚

弘農楊氏

四世大尉というばりの名門。
楊修が鶏肋などとトチったことで五世大尉とはならなかったが、勢力は衰えておらず皇后楊艶楊芷を輩出し、楊駿ら三兄弟が賈充亡き後に権力を握った。


  • えん(四世の初代楊震の玄孫。司馬炎の前妻)
  • (同じく玄孫で、楊艶の従姉妹。楊艶に後妻として指名された)
  • 楊駿(楊芷の父。人望も実力も伴っている弟たちと違って無能で処刑嫌い)
  • 楊珧(楊駿の弟。政治家)
  • 楊済(楊駿の三弟。軍人)

賈氏

魏の政治家・賈逵の子孫と縁者たち。
元々は名族だったようだが、賈逵の代には没落していた。
賈逵の子の賈充魏では皇帝弑逆すらやらかした晋建国の最大の功臣で司馬炎の深い寵愛を受けて朝廷を専断。
賈充の死後も賈南風を後ろ盾にして権勢を振るう。


  • 賈南風(賈充の娘で、司馬衷が皇帝となったことで皇后となる)
  • 郭槐(魏・晋の名将郭淮の姪で、賈充の妻)
  • 賈南風の末妹で、イケメンの韓壽とデキ婚した。つまり自分の政治的価値を考えずヤっちゃったバカ女
  • ひつ(元の名は韓謐で、賈午の子。賈充の男児が全て夭逝していたので、特例で義孫として立てられ賈一族の名跡を継いだ)
  • 郭彰(郭淮の弟。彼と賈謐がやりたい放題していたことから賈郭という蔑称がついている)
  • 賈模(賈充の族子)
  • 裴頠(賈充の娘の子で、父は魏・晋の政治家である裴秀)

羊氏

晋の名将羊祜ようこの従兄弟の子孫。
司馬衷がフェードアウトしたせいで皇后の影が非常に薄い。


  • 羊献容(司馬衷の後妻。毎年皇后に立てられては廃位されるせいで男児がいない。後に前趙の皇后になる)
  • 羊玄氏(羊献容の父。討伐対象に挙げられたことで死んだスペランカー)
  • 孫秀(母方の一族の遠縁。司馬倫の筆役。呉の孫皓の又従兄弟の孫秀とは同姓同名の別人。)


その他の皇族

  • 皇太子・司馬いつ司馬衷の嫡子で皇太子だが、生母は賈南風でなく側室)
  • 淮南王・司馬允(司馬炎の十男。司馬倫に反旗を翻すも敗れる)
  • 梁王・司馬肜(司馬懿の八男。実弟司馬倫と同じく無能)
  • 平原王・司馬かん司馬懿の七男で正室張春華の三男。とんでもない趣味をお持ちであったこと以外まともで同母兄らに劣るものの見る目もあったが、それ故に途中で呆れ果ててしまった)
  • 清河王・司馬たん司馬炎の十三男の子。どうあがいても廃太子)
  • 新野郡王・司馬きん司馬懿の六男の子。司馬穎司馬乂の対立の最中に異民族の反乱で敗死)
  • 新蔡王・司馬騰(司馬越の次弟。兄がセコいのに対してこちらはケチ。名前だけは馬超の親父っぽく見える)
  • 南陽王・司馬模(司馬越の三弟。上の二人と違って骨がある)
  • 南陽王・司馬保(司馬模の息子。文才はあるが百貫デブ&性的不能)
  • 呉王・司馬あん司馬炎の二十三男。恵帝を上回るド無能だが生きてはいられた)

群臣

  • 文俶(三国末期の猛将。「文鴦」と言う名前の方が有名。三国志演義でもちょっと登場して趙雲の生まれ変わりかと言うほど暴れている。司馬炎に嫌われたので何もしてない)

  • 衛瓘(鄧艾と鍾会の死に関わった軍監。法にも明るかったので中央でも出世したが、高齢を理由に引退した)

  • 張華(家柄は低いが、声望高く国の安定に尽力した名宰相)

  • 陸機(呉の陸遜の孫で陸抗の四男。先祖譲りの剛直な性格で文学者として歴史的意義は祖父や父を越える。張華に見出され司馬倫の下で抜擢され、司馬倫の死後は司馬穎に付く)

  • 張方(低い身分だが司馬顒軍の総大将にまで抜擢される。こけし状の性具ではない)
  • 公師藩(司馬穎の部下)

  • 苟晞(低い身分だが司馬越の部下の中で並ぶもののない軍功を挙げ、白起や韓信の再来だと言われる。一方で滅茶苦茶法律に厳格で死刑を連発して「屠伯」…つまり殺人公なる異名もあることから陰口も多分に含まれている*2

次代の英傑

  • 王浚(幽州都督。じっくりと軍備を増強していた。特に異民族の騎兵は反則級兵器であり、敵をボコボコにしている)
  • 劉淵(匈奴。司馬穎の傘下に入っていたが…)
  • 李雄(氐族。父李特と共に多数の流民を束ね益州入りした)
  • ろく(匈奴の亜流の羯族。司馬騰の人狩りに遭い奴隷となるが、公師藩や汲桑の乱に参加するなどして頭角を現す)


経過


賈充の死と楊氏の台頭(282年4月~)

統一王朝となった晋だが、天下統一を成して燃え尽きてしまったのか武帝は政権運営を放り投げ、盟友の賈充が専断するようになった。
権勢を振るう賈充に誰も楯突くことはできずへつらうばかりであったが、統一後僅か2年で賈充は死去。
武帝は相変わらずの有様だったので、浮いた権力は正妻の一族である外戚の楊氏が握った。


更に、後継者を息子の司馬衷にしたのだが、こいつはド暗愚であった。
聡明な武帝の弟である司馬攸を推す声が多かったのだが、武帝は体調不良の司馬攸を任地の斉に行けと命じて死なせ、支持者にも粛清をかけてしまった。


さて、楊氏の中でも、後妻楊芷の父というだけの長兄楊駿の権力は非常に強く、意に沿わぬ者を次々と左遷していく。
政治で大きな影響力を持つ次弟楊珧、軍事で功のある三弟楊済と合わせて「天下三楊」と揶揄されるほどであった。
これで全員無能ならカオスなのだが、弟二人は実力も名声も高いからまためんどくさい
どれ程楊駿が毛嫌いした相手であろうと左遷しかされなかったので後の連中に比べればかなり温情があると言えたが、人々がそれに気付くのはずっと後のことになる。



二王の政変~再び賈氏へ(291年3月~6月~)

290年5月に放蕩三昧の武帝が死去し、無能の恵帝が即位する。
楊駿は後事を託されたが、無学で政治的能力がないため失策を繰り返す。
それでも権力の椅子にふんぞり返っている楊駿に対し、楊珧は引退を口実に見放し、楊済は幾度となく諫言したものの聞く耳を持たなかった。


楊駿らの専横を普段から快く思っていなかった皇后の賈南風はこの機を逃すまいとする。
楊駿政権で冷遇されている者たちと密談し、司馬瑋を呼び寄せてクーデターを実行。
そうして三楊とそれに阿る者、それらと全く関係ない文鴦*3などが捕らえられて三族皆殺しとなり、皇太后の楊芷も幽閉され後に殺された。


変わって皇族の長老司馬亮と政界の長老衛瓘が立てられて政権を握り、二人は司馬瑋の排除を画策する。
しかし司馬亮に兄二人ほどの実力はなく、衛瓘も復帰したばかりで政権を掌握し切れていなかったことから計画が漏れてしまう。
そしてこのことが賈南風の耳に入ると、夫の恵帝に詔勅を発させ司馬瑋の手の者らに二人を誅殺させた。
しかし事が済んだあと賈南風司馬瑋が邪魔になったと思い、詔を偽造したとして司馬瑋も誅殺された。賈充の娘だなあ。
一応司馬亮は冤罪だったことになって復権した。


これにより皇后賈南風の敵はいなくなり、再び賈氏とその一族縁者による独裁が始まった。
しかし賈模裴頠と二人が敬愛する張華という三人の良識派の政治家の尽力により、国政は安定し事態は一応の収拾を見たのであった。



司馬倫決起・安寧の終わりと簒奪(300年3月~)

権力を握る賈氏の奢侈は酷いものだった。
賈南風は皇后でありながらこっそり市井に出て男漁り*4賈謐郭彰は多くの取り巻きを引き連れており、その有様は「賈郭」とまで揶揄され「後塵を拝する」という故事成語が生まれるほどであった。
当然現状に不満を持つ者たちもおり、打破したいというのは社稷を支える三人の政治家も、それらと逆の思惑を持つ賈南風ですらも考えていた。
しかし賈南風の暴発は三人の政治家の言を受けた郭槐が抑えており、また三人の政治家が国政を司っていられるのもバックに賈南風がいるからこそであり手出しなどしようがない。
こうして朝廷内ではこの3すくみによる膠着状態が続いた。


……とはいえ、この時期の国政そのものは割と安定しており、なんだかんだ9年もの時が過ぎる。


しかし時が流れれば人は老い、やがて死ぬ。
役に立たない郭彰のみならず貴重なストッパー役である郭槐も亡くなり、代わりにストッパーになろうとした賈模は失敗し憂憤のあまり死去。誰も賈南風を止められなくなった。
こびへつらってきた司馬倫に対し強大な兵権を与え、郭槐が使えないと言っていた賈午ら末妹夫婦を重用する。
更にかねてより皇太子の司馬遹を廃したいと策略を巡らせていた賈南風は、遂にそれを実行に移し司馬遹を幽閉してその生母と妻を殺害した。


この仕打ちに司馬遹の部下たちは大いに憤り、強大な兵権を有していた司馬倫を頼って賈南風ら賈氏一派を粛正しようと孫秀に持ちかける。
孫秀司馬倫賈南風司馬遹を殺させて仇を取るという形で正当性を得てクーデターを実行するというド畜生な提案をし、計画は実行に移され司馬遹も殺害された。
遠回しに救出を持ち掛けたはずが逆にトドメを刺される憂き目に遭った司馬遹の部下たちは、保身も兼ねてクーデターをドタキャン。
しかし司馬倫はその後に司馬肜司馬冏の協力を取り付けて兵力を確保し、無事久方ぶりのクーデターを決行した。
賈南風ら一派と自身に正当な評価を下して出世を妨害していた張華・裴頠ら良識派を誅殺。
皇帝は相変わらずな上に皇后という権力者も空席になったことで、それらは司馬倫の手中へと収まった。


しかし、一応の安定政権だった時期はこの後晋の滅亡まで二度とやってこなかった。
史書でボロクソに書かれているとは言え賈南風が策謀を使って一応の平和を築いていた…とする肯定的評価も一部にあるほどだ。


というのも、司馬倫はやっぱり全くの無能で誰にでも官職を与え、孫秀は私心で粛清を繰り返した。
曲がりなりにも安定した政権運営をしていた賈南風ら一派を粛清した上でこうなので、文武百官はもう滅茶苦茶になった。
当然またもクーデターが起きたが、孫秀の謀略によって首謀者の司馬允が殺され防がれる。
こうなると二人を止められる者は誰もいなくなり、司馬倫孫秀は禁じ手である帝位の簒奪を実行に移す。
成す術なく禅譲させられた恵帝は殺されこそしなかったが、権力の無い太上皇とされて幽閉生活を送ることになる。まあ元々権力なんかないんだけど



野心のままに動く王たち・司馬乂の奮闘と首都洛陽壊滅(304年1月~)

司馬倫孫秀が政権を握ってから邪魔な皇族は地方へ厄介払いさせられていたが、司馬倫が帝位を名乗ったという事実が伝われば再び挙兵される理由としては十分だった。
打倒司馬倫を掲げた司馬冏は各地に協力を呼びかけ、司馬乂司馬穎司馬歆が即座に応じる。
また司馬倫側に付くことを考えていた司馬顒司馬冏の方が有利と見ると味方に付き司馬倫討伐軍は大きく膨れ上がった。


こうして八王の乱で初となる大規模な軍事衝突が起きた。
司馬倫軍孫秀の入れ知恵もあってそこまで弱くはなかったのだが、なんせトップが無能なので軍に混乱を招きついに大敗。
見切りをつけた群臣たちはクーデターを起こして司馬倫孫秀を捕縛、司馬冏らにより処刑された上に王の称号さえ剥奪され死後には名前を言ってはいけないあの人*5扱いとなった。
こうして恵帝は再び皇帝に戻り、司馬冏の功績を高く評価した。
司馬穎はこの時点ではおとなしく自分の軍鎮である鄴に引っ込んで人心を得ることに努めた。


だが司馬冏は思い上がって奢侈に走り、宮廷に参内せず政務を執るようになる。
なんせ功績に並ぶ者はない上に、司馬倫改め趙庶人が任命した文武百官を全員クビにしたおかげで選び直せるし、しかも皇太子が孫まで全滅したので皇太弟まで自由に選べるのだ。政権が麻痺してるけど
当時の一族の長老格である司馬榦司馬冏推しだったので「趙庶人のマネをしてはいけないよ」とたしなめようとしたが、効果はなかった。
そこで司馬冏の障壁となるのは共闘した有力者たちであり、彼らを論功するどころか排斥に動くようになる。
司馬穎が皇太弟として挙げられそうになるとより幼い司馬覃を挙げ、勝ち馬に乗りにきた司馬顒は殺害したいとまで考えていた。


そうなると司馬冏に全部持っていかれた両者が結びつくのは必然であり、司馬穎司馬顒はまたも動き出した。
司馬顒の部下が司馬乂を当て馬にすることで正当性を得ようという提案をしてきたので、その策に従い司馬乂にクーデターを起こさせる。
司馬乂の封地である長沙は遠く、洛陽に動員できる兵は少ない上に司馬冏は洛陽にほど近い許昌の数万の兵を動かせるため、司馬乂は確実に負けると見られていた。


が、司馬乂は予想に反して強かった。隠れた英傑といっていいほどであり、兵数の不利などものともしなかった。
まず洛陽にいる手勢わずか100人ほどで素早く恵帝の身柄を確保し、宮中にいた司馬冏と戦闘に入る。
この電撃作戦に対して司馬冏は3日ほど粘ったものの、結局許昌の兵が到着する前に司馬冏は処刑され、司馬穎司馬顒は大義名分を得られず振り上げた拳を下ろすより他なく、推しを失った司馬榦も慟哭した後に引き篭もりとなった。
あと司馬冏の協力者は三族皆殺しにされ死者は2000を超えた。
こんなはずじゃなかったというムードが漂う中、今度は司馬乂が朝廷の第一人者となった。


しかし司馬乂他の王と違い驕らず、恵帝を皇帝として忠節を尽くし、鄴の司馬穎の指示を仰ぎながら国政を行っていた。元々2人は割と関係が近く仲も良かったのだった。
ところがあてがはずれてフラストレーションたまりまくりの司馬穎司馬顒司馬乂の暗殺を試みる。
これは失敗して実行犯が殺されたが、これが司馬顒の家臣だったため司馬穎司馬顒はこれを口実に司馬乂羊玄之らの討伐も掲げてまたまた挙兵。
人気取りに専念していた司馬穎の下に集まった兵は、魏ですら動員したことのない大軍だったという。


だが、散々政争でもてあそばれてきた中で司馬乂という忠臣を得てやる気を出したのか、これまで飾りだった恵帝が口出し。
司馬乂に撃退を命じた上に「洛陽侵略を目論む逆臣司馬顒めは、朕自ら軍を率いて誅殺してくれるわ!」と宣言した。
逆賊となった司馬穎司馬顒軍だが、圧倒的な数の差を活かして首都洛陽を包囲した。
司馬乂司馬穎に「今なら穏便に済ませられるから和解して、国家を安寧にさせましょう」と書状を送ったが、司馬穎の返事は「お前のやっていることは王朝を惑わせ悪人のボスとなることだ」と反論の書状を返し、溝は埋まらなかった。字が読めないんじゃなかったんかい


が、司馬乂の軍は予想に反してやたらと強かった。少数の兵で司馬穎司馬顒の兵力を圧倒してしまった。
それどころか、あの恵帝まで宣言通り出陣し、皇帝の威光にビビらせて本当に敵の部隊を撃退する活躍をみせた。
司馬穎司馬顒軍は大敗を喫し、総大将を投げつけた陸機に敗戦の責も投げつけて三族皆殺し*6にしたり、張方が略奪や兵糧攻めを行ったりしてもどうしても勝てないまま被害が増していった。
包囲されている洛陽城内も市民や朝廷の者たちは悲惨な生活を強いられていたが、司馬乂が奮戦するので軍の士気だけはやたら高い状態が続いていた。


この籠城戦にケリをつけたのは、朝廷にいた司馬越だった。
城内の惨状に耐えかねクーデターを起こして司馬乂を捕縛し、城外の包囲軍に突き出そうと門を開く。
…しかしそこに広がっていたのは、もう撤退しようかと考えるほどに厭戦ムード漂う士気の低い司馬穎司馬顒軍の姿だった。
これを目にした籠城軍は司馬乂おったらいけるやん?という雰囲気になってきたので、やらかした司馬越はやばいと思ってとっとと司馬乂を引き渡して火あぶりにさせた。酷い。処刑される時は分離すると言ったな、あれは嘘だ
なんとも締まらない結末で終わったが、この大激戦で洛陽は壊滅し司馬穎司馬顒の軍も大打撃を被りその勢力は大きく削がれた。
一瞬だけ光る活躍を見せた恵帝も、司馬乂がいなくなれば完全に何の権力もなくなった。


国家分裂(304年7月~)

こうして司馬穎は念願の皇太弟となった上に丞相まで付けられ政治を専断し、司馬顒を大都督に任命する。
だが司馬穎は壊滅した洛陽を諦め参内しないどころか任地の鄴から政務を執るようになり、司馬顒も先の戦で戦力を回復するため長安へと帰った。
だが恵帝が洛陽にいる中でこんなことやってたら当然反感も高まったので、司馬越恵帝を担ぎ上げ司馬穎討伐の兵を挙げた。
しかし司馬越は早々に司馬穎との決戦に敗れた上に恵帝を持っていかれ、領地の東海まで長躯敗走。*7
司馬顒張方に兵を与えて司馬穎を救援させようとしたが、合流前に事が済んでしまったのでもののついでで洛陽を占拠させた。


だが脅威は去っておらず、司馬穎の命を狙っていた王浚の暗殺に失敗し、司馬越の弟司馬騰と共に挙兵されてしまう。
王浚率いる鮮卑・烏丸といった異民族の騎兵は滅茶苦茶に強く、司馬穎の軍は次々と敗れ、司馬穎は鄴を捨て恵帝を連れ這う這うの体で洛陽へと逃走し、張方と合流する。
しかし司馬穎の兵は離散してしまったため、戦力不足と見た張方は洛陽内で略奪したあと恵帝司馬穎と共に長安へ向かい司馬顒の元へ戻った。
長安であれば司馬穎の領地である成都からの救援も期待できそうだったが、成都は氐族の李特・李雄の親子が征圧して独立し、劉淵もまた匈奴を束ねて独立したため司馬穎は全てを失った。晋の中華統一もこの時崩れた。


司馬穎に利用価値がなくなったと見た司馬顒司馬穎は廃位して幽閉し、司馬越を取り込もうと交渉材料として使った。ほんまこいつ…
更に長安への遷都を宣言し、司馬炎の息子の生き残りである司馬熾を皇太弟として立てた。
ちなみにこの時点で、25人いた司馬炎の息子で生き残っていたのは恵帝司馬穎司馬熾含めて4人だけだった。


だが司馬越はこの交渉を拒否し、長安への遷都も認めなかった。
そして軍を再編すると司馬顒張方の討伐を掲げて再度決起し、王浚などがこれに応じる。
司馬越が洛陽まで侵攻すると、洛陽にも長安への遷都を認めない群臣たちが残って朝廷を動かしており、司馬越は政権も手に入れることができた。
ここで朝廷が分裂し、事実上国家機能も二つに別たれてしまった。


この状況で司馬顒は、場当たり的な対処しかできなかった。
司馬穎の旧臣の公師藩が鄴で挙兵したと聞くと幽閉していた司馬穎を大将軍にして合流させようとしたが、結局これは失敗。公師藩苟晞に討たれ、司馬穎も囚えられ殺された。
司馬越から東西分割統治しようと持ちかけられて張方の反対で取りやめた。だが、不利になってきたので洛陽で受けの悪い張方の首を送りつけて和解しようとしたが、結果的に自軍最強の将軍を消した上にそれをわざわざ相手に教えてあげる形になった。
もちろん司馬越としてみれば弱りまくってる上にコロコロ立場を変えるような敵にわざわざ対等な和睦等してやる理由はないのは言うまでもない。


そうこうやってるうちに長安が落とされ、恵帝を奪還されてしまう。全て持っていかれた後の長安こそかろうじて奪還できたものの、司馬顒の軍には最早抵抗を続ける能力はなかった。
そこに司馬越に役職あげるからとかいうあからさまに怪しい誘いをかけられた司馬顒
全く警戒しなかったのか、勝機がないので開き直ったか定かではないが長安から出てきたところを司馬越の弟司馬模が放った刺客に暗殺されて不毛な内乱はようやく終結した。*8
あとなんか恵帝もパンケーキを喉に詰まらせたかして死んだ。*9



永嘉の乱

八王の乱が終結するまで15年。まあそのうち9年くらいは静かだったが
こうして司馬越が生き残り司馬熾懐帝として即位したが、既に晋の威光などないも同然になっていた。
しかも、


  • 匈奴の劉淵が建国した漢(并州)
  • 氐の李雄が建国した大成(蜀)
  • 独立の動きを見せる王浚(幽州)
  • 司馬穎の仇を討つと称して挙兵した汲桑(鄴)
  • 司馬騰が組織したが野放しになっている流民軍団乞活(冀州)

といった独立勢力が割拠する末期状態に陥る。
司馬越やその弟たち、苟晞ら晋の武将たちが各地で奮戦を続け、なんやかんやで国内の反乱は叩き潰しているものの、異民族の反乱はそうもいかず、八王の乱で活躍した司馬騰などが殺されてしまう。
多方面に及ぶ上にあちらに勢いがあることもあって領土を守るだけで手一杯であった。
それどころか、要地である許昌を失陥し、洛陽まで攻め込まれて包囲され、敵が油断したのを夜襲してやっとのことで撃退…なんてことすら複数回発生していた。


その上、暗愚だった分臣下の足を引っ張ったりはしなかった恵帝と異なり、懐帝は自分で政治を執りたがっていた。これに対して司馬越は国難に対処すべく独裁したがったため、両者の間に深刻な亀裂が発生。
軍事権を握る司馬越懐帝の側近を粛正したり亀裂が入った苟晞を暗殺しようとしたりしたが、皇帝を敵に回す行動で全く支持は得られず内憂も深刻になっていった。


司馬越はなんとか勢力を逆転させようと、ありったけの兵をかき集め、有力者に呼びかけて石勒討伐の挙兵を試みるが、司馬越の檄に応じる有力者はいなくなっていた。
それでも手持ちの兵だけで挙兵するが、これで洛陽の兵力は払底、統制力を失った洛陽は殺人すら横行する無法地帯と化す。
こうした状況に苟晞懐帝もついにキレて、司馬越を逆賊認定し苟晞に討伐するよう命じた。
激怒した司馬越苟晞を討伐する軍を送るが、こともあろうに大敗。司馬越はこれを気に病んで憂憤のあまり軍中で急死した。
あまりに急な事態で諸将は困惑、司馬越の指名した後釜は指揮官となることを拒否。
もう多くの人が存在すら忘れていると思われる楚王・司馬瑋の子である司馬範を指揮官として司馬越の遺体と共に東海へ行くことにした。
ところが、城に入ろうかというところで石勒の襲撃を受ける。
統制の無い軍も、司馬越の取り巻き同然の群臣や司馬越についていった何十人もの司馬一族も、司馬越の本拠地であった東海も、全てが死体と瓦礫の山に変えられた。*10
あとついでに司馬越の遺体は焼き捨てられた。殺した後も分離すると言ったな?あれは嘘だ


主力軍が文字通り全滅した晋にもはや異民族を防ぐ力はなく、洛陽は劉聡*11率いる漢(前趙)に攻められて為す術なく陥落、懐帝は捕えられ辱められた挙げ句に殺された。
懐帝と共に司馬炎の息子の最後の生き残りであった司馬晏も殺され、司馬炎の子はこれで全滅した。
ちなみに引きこもっていた司馬榦は洛陽陥落の数ヶ月前に死去、司馬懿の子もこの時に全滅している。
さらに長安も奪われて守っていた司馬越の弟司馬模も殺され、晋はほぼ滅亡に近い状態となる。


それでも生き残りが漢から長安を奪い返し、司馬晏の子司馬鄴愍帝として擁立したが、その長安自体戦乱で荒れ果てて戸数は100戸以下。
必死に生き残っていた一族や有力者に官位をばらまいて救援を要請するが、そうこうしている間にも、かつて八王の乱で活躍した王浚苟晞と言った味方になり得る勢力は潰されていた。
涼州方面で粘っていた司馬模の息子司馬保や、建業にいた司馬昭の弟である司馬伷の孫司馬えいなども、救援には来なかった。
長安政権も一度は漢軍を撃退するクソ粘りを見せるが、所詮は悪あがきでしかなく、窮乏に耐えかねて降伏、四代目の愍帝懐帝と同じ末路を辿った。
司馬保も晋王を名乗ったりしたが、こちらもその後2年ほどで部下の内輪もめで殺された。


劉淵「むかつくのだよ、偉くないのに偉そうな奴が」
李雄「死ぬの生きるのなんて言ってたら人生損しちゃうよ」
石勒「てめえら司馬一族に今日を生きる資格はねえ!」



司馬一族は司馬懿の段階で8人兄弟、司馬懿の子が9人兄弟、司馬炎の子が25人兄弟というお盛んな一族だったが、これらの戦乱を経て司馬一族はほぼ殺し尽くされてしまった。*12
前記した陸機の陸一族をはじめ、劉禅など三国志を彩った登場人物の子孫もこの戦乱に巻き込まれて相当数が死に絶えた。



だが、司馬一族はまだ死に絶えてはいなかった。
かの武帝・司馬炎が国家長久の礎を築かなかったおかげで割と手付かずだったかつての呉の首都、建業。
こちらに逃げていた司馬えいは晋を引き継いでこちらはそれなりに存続させたのだが、これは晋とは別王朝「東晋」として扱われる。元凶のおかげで防波堤ができてたってなんだかなあ…
とにかくなんとか司馬一族は絶滅の危機を免れていたのである。ただし皇帝の権力は相変わらず存在しない
そして時代は新たな乱世へと突入していく……



追記・修正は王に封じられてからお願いします。



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  • 無能恵帝が司馬乂がピンチになると「賊は河間王だろうが!!朕自ら兵を率いて潰してくれる!」と吼えて本当に兵を率いて敵を撃退するの普通に熱い。 -- 名無しさん (2023-07-26 20:42:48)
  • 大乱闘司馬家ブラザーズすぎる… -- 名無しさん (2023-07-26 21:20:59)
  • ところどころ、黄色とか水色とか明るすぎる色が使われてて見づらいかな -- 名無しさん (2023-07-26 21:47:26)
  • ↑ じゃあ直してくれ、項目を書き切っただけで目が司馬司馬してつらい -- 名無しさん (2023-07-26 21:55:50)
  • 劉備「戦争で若人が命を賭して守った未来がこれか・・・」 -- 名無しさん (2023-07-26 21:56:15)
  • とりあえず司馬家は三国志の英雄たちに謝れやと言いたくなる末路 -- 名無しさん (2023-07-26 22:00:14)
  • 分離はできるけど再合体はできないからむしろパージなんだよなあ・・・司馬亮はリ・ガズィだった・・・? -- 名無しさん (2023-07-26 22:06:41)
  • 三国志の全登場人物が草葉の陰で嘆いてる -- 名無しさん (2023-07-26 23:08:15)
  • 司馬越の黄色と司馬乂のシアンをちょっと変えてみた。 -- 名無しさん (2023-07-26 23:23:52)
  • 「鍾馗」で「しょうき」だから、司馬馗は「しばき」だと思う。 -- 名無しさん (2023-07-26 23:26:54)
  • この項目を読むと応仁の乱を引き起こした足利義政がまだしもマシな政治家に思える -- 名無しさん (2023-07-26 23:32:42)
  • ↑3 ↑2 ありがとう -- 名無しさん (2023-07-26 23:53:46)
  • この後も凄惨だがホント三国志の晋統一以降の歴史はその時代に築いた一切合切をぶち壊すな… -- 名無しさん (2023-07-26 23:59:13)
  • 無能なくせに強欲な連中が多すぎて早い滅亡もさもありなん。馬鹿めが!と叫ぶ司馬懿が浮かぶわ -- 名無しさん (2023-07-27 00:08:32)
  • ↑ 司馬懿自体も九品官人法の改悪してるけどな -- 名無しさん (2023-07-27 00:21:12)
  • 司馬家は…代を重ねるたびに無能になっていったのだ… -- 名無しさん (2023-07-27 01:49:49)
  • しかし劉家・曹家・孫家・諸葛家もみんなそうなので、どこが統一したとしても結局数十年後に子孫達が滅亡させただろうという悲しい予想しかできない……。 -- 名無しさん (2023-07-27 05:40:10)
  • 8人+賈南風と権力がそれぞれ移り変わる中でまともに政治を執り行うとしたのが司馬乂だけなのが酷い、しかも司馬乂だけはここで内乱を食い止めないと晋は滅ぶとちゃんと自覚してて、司馬頴達に身内同士で争い合うことの無意味さを呼び掛けていたのにも関わらず、普通に裏切られた点もまた不憫… -- 名無しさん (2023-07-27 12:05:52)
  • 八王の乱の前日譚である、司馬炎が弟の司馬攸を実質誅殺したと言っても良い、斉王攸帰藩事件も中々の胸糞エピソード -- 名無しさん (2023-07-27 12:09:16)
  • なぜ、こんなことになってしまったんだ(AA略  ギリギリSSR枠いけそうなのが司馬乂一人だけとかこの時代の一族の排出率どうなっとんねん -- 名無しさん (2023-07-27 15:23:40)
  • 司馬炎はなんだかスーパーファミコンの半熟英雄の主人公みたい -- 名無しさん (2023-07-27 19:06:02)
  • せめて司馬乂に、相手と同数か、せめて8割くらいの兵力があればなぁ -- 名無しさん (2023-07-27 20:07:38)
  • カラフル&カオスな項目で読んでて面白い。カオスなのは完全に史実なのがまた。 -- 名無しさん (2023-07-27 20:26:46)
  • ついにできたか、司馬家の壮大な内ゲバ合戦「八王の乱」の項目が -- 名無しさん (2023-07-27 23:30:55)
  • これだけの面子がいて一人を除き私利私欲剥き出しか考え無しの無能かで英雄的要素を持つ人物がまったくいないのが酷い。 -- 名無しさん (2023-07-28 01:34:07)
  • 司馬乂だけ他と違いすぎる。司馬越が戦犯すぎる… -- 名無しさん (2023-07-28 03:43:21)
  • ↑10乱世乱世乱世乱世ばかりで子供の教育まともにできてないんじゃあ…と思ってしまう -- 名無しさん (2023-07-28 06:43:39)
  • 決定的に人望がなかったのと、肝心なところでくたばったので裏目に出たが、なんとか異民族の撃退に成功していれば司馬越がヒーローとして祭り上げられた可能性もあったと思う。懐帝即位時点で、皇帝を盛立てていれば晋は存続できる!ってほど生やさしい状況じゃなかったし、懐帝なら解決できたとも思えない。そんな訳で個人的には司馬越にはむしろ同情してるんだけどな。 -- 名無しさん (2023-07-28 10:08:15)
  • ↑1 司馬穎と司馬顒の二人が、各地で起きてた反乱を完全に放置して司馬乂を倒すことに固執したり、異民族に権威を与えたりと、独立勢力が大量発生する土台を作ったのは事実だけど、司馬越も大概保身が第一のコウモリ野郎だから… 保身第一で立ち回って色々な問題後回しにして他人に責任を押し付け続けたムーブがそのまま晋が詰む状況を作り上げて、最終的に逃げれなくなっただけ -- 名無しさん (2023-07-28 10:34:35)
  • 記事で色々言われてる司馬炎も前半生は名君なんだがな、有能だった人がやる気失って堕落するという最悪のパターンだっただけで -- 名無しさん (2023-07-28 11:30:50)
  • 超国難状態で、マルチタスクで問題解決なんて多分誰にもできない。家系的にも傍流だったから元々の権力自体がほぼ軍事力頼りだっただろうし、朝廷から足引っ張る奴も当然出てくるし、それにだまらっしゃいするのは保身と言えば保身だが、責められるべきかと言えば怪しい。司馬乂売ったのは流石にアレだが、売らなければどうにかなったのかと言えばな…. -- 名無しさん (2023-07-28 11:47:26)
  • この辺の中国史はカオスっぷりが凄くて訳分かめ。 -- 名無しさん (2023-07-28 12:47:07)
  • 応仁の乱見て八王の乱もヤベえんだよなって思ってたら出来て有難い -- 名無しさん (2023-07-28 15:24:54)
  • ↑3 朝廷内の王の部下が包囲を抜けて援軍呼びに行けば普通に勝つ見込みはあったけどな -- 名無しさん (2023-07-28 17:14:38)
  • なんだこれは…なんだこれは…もっとこう、ワクワクするようなかっこいい人物はいないのか…司馬乂だけやたら強いけど流れのせいでギャグみたいになってるし… -- 名無しさん (2023-07-29 15:42:49)
  • + -- 名無しさん (2023-07-29 17:09:34)
  • 石勒ってこのエピだと敵キャラだけど超スゲェ人物なんだぞ? -- 名無しさん (2023-07-29 17:32:00)
  • 味方キャラga誰? -- 名無しさん (2023-07-29 18:47:00)
  • 見るたびに笑い飯の漫才思い出す -- 名無しさん (2023-07-30 03:41:36)
  • これのせいで司馬家が嫌いなんだよな… -- 名無しさん (2023-07-30 12:50:28)
  • 三国志という歴史ロマンの後に待ち受けてるのがこのぐだぐだ大動乱という冷や水っぷりよ… -- 名無しさん (2023-07-31 19:07:08)
  • 司馬乂……なんという報われない英雄……悲しみ -- 名無しさん (2023-08-13 14:42:20)
  • 英雄だけが歴史を作るわけではないという好例 -- 名無しさん (2023-08-13 21:22:45)
  • 劉禅「こんなバカな孫と弟いて良く朕をバカに出来たな?」司馬昭「」 -- 名無しさん (2023-08-21 22:15:12)
  • 世界史に数多ある戦争の中でも「泥仕合」という言葉がここまでよく似合う戦争もあるまい -- 名無しさん (2023-09-12 23:24:34)

#comment(striction)

*1 お菓子と違って肉は街中に転がっているのであながち見当外れでもない。何の肉かって?そりゃあ…
*2 どんなに強くても白起や韓信みたいな最期を遂げるだろう、ということである
*3 クーデターに参加した司馬繇は文鴦の父・文欽を殺した諸葛誕の孫であり、「文鴦が自身に復讐するのでは……」と恐れた結果こうなってしまった
*4 気に入った男は取り立て、気に入らなかったら殺すという形で口封じしていた
*5 汚らわしい簒奪者に称号を、誰が与えるというのか?
*6 普通ならあり得ないことだが、陸機は司馬倫から逃げてきた外様の客将。しかも敗戦国である呉の出身なので明らかに身の丈に合わない大抜擢である。そんなのをいきなり総大将にしたとして以前から仕えている連中はどう思うか……
*7 この時恵帝は矢を受けて負傷し、拉致同然に捕まり、自分を守った侍中が目の前で死んで返り血を浴びた。捕まった後周囲が服を洗おうとしたが「洗うんじゃない!!」と拒否したという。
*8 司馬越が殺す気だったかは不明。司馬顒は人気はそれなりにあり、また国情からして争っている場合ではないため、飼い殺しにするにせよ殺す気はなかったのではないかという見方もある。
*9 タイミングがタイミングのため司馬越が毒殺したという見方が強い。
*10 司馬範は堂々とした態度で石勒も感心するほどだったが、司馬なんで結局殺された
*11 劉淵の四男
*12 石勒がTOKAI LANDを潰した時で50人以上死んだと言われている。youはshock!

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