四式中戦車

ページ名:四式中戦車

登録日 : 2021/01/23(土)16:51:08
更新日 : 2024/05/24 Fri 13:29:53NEW!
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戦車 第二次世界大戦 日本陸軍 三式中戦車 大日本帝国 97式中戦車



四式中戦車とは、かつて日本が開発していた戦車のひとつである。


開発中は情報漏洩を防ぐため、チトまたはチト車と呼ばれていた。この『チト』というのは中戦車(ちゅうせんしゃ)の『ち』といろは歌のい・ろ・は・に・ほ・へ・との『と』を組み合わせたもの。


イ号:八九式中戦車
チハ:九七式中戦車
チニ:チハのライバルだった短57mm砲搭載の中戦車
チホ:チハの後継として試作された47mm砲搭載の中戦車
チヘ:一式中戦車
チト:四式中戦車
チリ:五式中戦車
チヌ:三式中戦車
チセ:計画のみ存在した105mm砲搭載の中戦車


解説


開発初期

四式中戦車(以下チト車)は九七式中戦車の後継後継、そのまた後継機として開発され、当初は新中戦車(甲)と呼ばれていたが、
その開発が始まったのは太平洋戦争が始まって間もない1942年(昭和17年)であるとも、1941年(昭和16年)であるとも言われるけどもはっきりしない。


少なくとも当時は似たような性能の戦車が複数存在あるいは構想されており、他機種との混同も考えられる。


チト車は開発が開始された1942年(昭和17年)の段階では、対戦車戦闘を重視して長砲身の47~57mm砲を搭載、防御面は50mmの装甲を備える、20t級戦車として計画されていた。


1942年と言えば、地球の裏側のヨーロッパでは75mm級長砲身を搭載した戦車同士の打ち合いが起きていた頃である。
この要求性能は、九七式よりマシとはいえ、あまりにもショボいと感じられる人も多いだろう。


『当時の日本はT-34KV-1といった外国の戦車の情報を知らなかったのか?』というとそうではなく、実は当時同盟国であったドイツ経由の情報からヨーロッパでの戦いの様相は太平洋戦争が始まる直前には大方つかんでいた。


にもかかわらず、なぜ要求性能が低かったかと言えば、先ず1つ目に「ドイツ優勢の情報を信じていた」という点があげられる。実際のドイツは補給不足やソ連側の奮戦により、戦況が膠着しており、日に日に状況が悪化しつつあるというような状況にあった*1が、
「ソ連はこちら側に新鋭戦車を寄越す余力がなく、ヨーロッパの様相がこちらに波及すること当分ないだろう」と考えられていた。
ちなみに、ソ連による1945年の満州侵攻時には、旧式のBT快速戦車も増加装甲付きで投入されている。


二つ目の理由としては、砲や戦車の規模や装甲の厚さを一気に増すと、ノウハウのない日本では需要に対し生産が追い付かなくなるという懸念が存在しており*2、段階を踏むことで経験を積み重ねることでそれを補うことを想定していたようである。
そもそもチホの代わりにチハの後継となる筈だったチヘの開発に難航していて、油圧サーボの導入を断念した末の1944年にようやく完了する有様だったのである*3


三つ目に搭載する砲の規模が大きくなるとその砲を搭載する戦車の管轄が変わる、あるいは搭載を断念せざるを得ない可能性が出てくるというものがある。実際、日本陸軍内では「九七式中戦車」の後継機は長砲身の75mm砲にするべきから、非砲塔式でもいいから長砲身の75mm砲を搭載した簡易戦車を配備するべきという構想へ進んでいったが、管轄同士の争いをおそれ断念した例もある。


補足

日本では輸送船が装備するクレーン(デリック)の吊り上げ能力が15tまでであるため、それ以上の重さの戦車は戦場に運べず、鉄道による輸送制限もあった…というのは半分デマである。
15tというのは無改造の民間船の話といわれ、鉄道輸送に関しては誇張である。…そもそもチハの段階で重量は15tをオーバーしており、試作段階では13.5tだったのが最終的には採用直後に当たる1939年の段階で15.3~15.6tまで太っている*4し、自重26tの九五式重戦車を冬季満州で機能試験を行うため、外地に輸送した例もある。


実際には日本陸軍が使用した輸送船の多くは吊り上げ能力が20~30tとなっており、大陸方面限定ではあるが鉄道連絡船や軍港に置いてある大型クレーンを利用すれば数十tの重量物の海上輸送は問題なかった*5


そもそも、戦車の重量制限自体、無計画に本来想定していなかった範囲や地域まで戦線を拡大してしまったことで、組織の規模も大きくなり、兵器の需要が増大し、その需要を満たすべく、質より量を重視せざるを得なかったことが原因の1つである。


重い戦車は、運べる運べない以上に、生産コストが上がるため、数が揃えにくい。数が揃えにくいとなると部隊が作れず、訓練も難しくなってしまう。さらに新しい戦車に対応した支援器材を新調する必要性も出てくるが、大規模な戦争の中ではそれもままならなくなる*6



開発開始から一年後

1943年(昭和18年)6月、チト車の要求性能は25t級戦車に変更され、その武装も47mm砲搭載(一部57mm砲)から新型の57mm砲搭載となり、装甲も75mmに修正された。砲以外の性能は1942~43年の戦車としてはギリギリである。


この頃になると、チト車の立ち位置は変化し、前年度ではチト車の補助として開発が計画されていた新中戦車(乙)ことチリ車が75mm砲搭載戦車として本命視され、チト車はその保険という立場になっていた。


だが計画変更直後に当たる7月、戦局の悪化による兵器生産計画が大幅に変更され、航空機・対空兵器・海運資材、船舶に資源や予算を集中させるため、それら以外のあらゆる兵器の量産を緊縮あるいは凍結するという流れとなり、試作に着手していたチト車や本命視されていたチリ車もろとも、「試作研究用に1両ずつの製造のみを許可するも、量産化の計画は凍結…」という状況に追い込まれる。


余談

1943年(昭和18年)の末、アメリカ軍はタラワの戦いでM4中戦車を投入する。この兵器はドイツからすでに伝わっていたT-34と同程度の性能をもち、各戦場における脅威の1つとして猛威を振るうこととなるわけだが、
意外にも、この頃まで日本陸軍はソ連軍を想定した訓練しか行っていなかったりする。


というか、日本陸軍の兵器のほとんどは南方の気候やジャングル、山岳地といった風土はもちろんだが、
陸軍そのものが、島嶼戦というものをあまり想定しておらず、太平洋戦争がわりと無計画に行き当たりばったりで突入してしまった面が否めない。*7
戦争もここまで泥沼化するなんて考えてもみなかったし、 ぶっちゃけアメリカという国を舐めてた。


また、1944年(昭和19年)に入るか入らないか頃には、本土決戦を視野に作戦方針を定めていくことになる。
以降、訓練内容も今さらではあるが、アメリカ軍を想定したモノへと変化していく。


試作完成から量産化まで

試作第一号が完成したのは1944年(昭和19年)5月頃だが、この段階でチト車の搭載砲はチリ車に搭載予定だった75mm砲を簡略版の搭載が決定されていた。簡略化したしたといっても自動装填装置を省略しただけで、砲性能は同じである。
一方で、新型の57mm砲のテストを本車に搭載しての試験を行っているがやはり力不足であり、その他不具合も酷かったこともあり、この新型57mm砲の搭載はボツとなっている。(本来であれば75mm砲搭載が決まった段階で、試験を行うまでもなく、中止になっているはずだが、あくまで試作研究用であるため試してみたかったのかもしれない。)


同年10月ごろになると75mm砲を搭載する2号車が完成する。2号車はその大きな特徴として日本初の鋳造を用いた大型砲塔を搭載した。この鋳造砲塔は量産の効率化を目的としたものであったといわれるが、大型砲塔の鋳造のノウハウがない日本では、諸外国では一体成形で鋳造するところを、複数の部材に分けて鋳造し、あとから溶接するというものがある手間のかかる手法をとっていた。


(鋳造であるため歪みが大きく、修正が困難だったという。まさに下手な考え休むに似たりだが、あくまでも試作研究用という位置付けだったのでこれでよかったのかもしれない。)


1945年3月末になると生産兵器の計画が変更により、本車の量産化が復活。翌年迄に200両整備される予定だったらしいが、本邦には既にそんなことをする余力はなかった。最終的には終戦を迎えたことで開発は中止となり、試作された2両のうち1両が浜名湖に沈められたという。


性能

実際の戦闘こそ行っていないものの、砲の発射試験、実走による試験の結果が残っており、
それを総合するとM4中戦車にも一切劣っていないと評価していい中戦車になっている。
砲は56口径75mm砲を装備しており、通常徹甲弾使用時1000mで105~112mmの垂直装甲*8を貫通出来る能力がある。
これは、IV号戦車の48口径75mm砲、M4中戦車の52口径76.2mm砲、T-34中戦車の55口径85mm砲*9に匹敵する貫徹力で互角と考えていい。
装甲も前面75mm、側面後面25~50mmと列強中戦車と比較してもやや薄めではあるが十分な防御力を持っており*10
その分M4戦車より時速で7km/h上回る45km/hの最高速を持ち航続距離も50km長い。
また、実走試験は残暑が残る中箱根越えを経路に組み入れた相応に難易度が高いコースであったが一切問題が発生する事なく成功させ、
操縦性の評価も「戦車砲の引き金を引く感覚で自由自在に取り回せる」と非常に好評であった。


ただし計画完了予定だった1945年3月の段階では、同格以上の性能を有するパンター(独)・T-44(ソ)・A34コメット(英)はとうに量産体制へ進んでいて、
M26パーシング(米)やA41センチュリオン(英)の実用化が済んでいたため、周回遅れだったことは否めない。


(日本はパーシングのことは知っていたものの、連合軍主力戦車であるM4中戦車への対応が手一杯で、戦車による新型重戦車への対処は半分諦めていたフシがある。)。



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  • テスト -- 名無しさん (2021-01-23 19:07:21)
  • 佐藤御代も言ってるけど、棺桶同然のチハから曲がりなりにもM4と同程度の四式を開発するまでの期間ってかなり短くて、当時の日本の技術力の高さを物語ってるんだよな -- 名無しさん (2021-01-24 09:40:58)
  • 周回遅れって言うけどスペインなんか50年代までベルデハの試作続けて結局諦めてるからな。自力で戦車の開発、生産ができるだけ日本は超恵まれてる -- 名無しさん (2021-01-24 12:59:29)
  • 考え無しと言うか慢心し過ぎと言うか・・・当時の日本頭悪すぎない? -- 名無しさん (2021-01-24 14:52:18)
  • その…対戦前はともかく対戦に入ってからの陸軍はだいぶマシなんすよ 慢心というか…もともと貧乏だから浸透戦術やってたような感じで、そもそも戦車戦用の戦車なんてろくに用意できないから後回しでいいかみたいな… -- 名無しさん (2021-01-24 18:58:51)

#comment

*1 ドイツは苦境に立たされていることをばか正直に日本へ伝えてしまうと、ソ連に知られてしまうのでホントのことは言えなかった
*2 書類上は中戦車の部隊ということになっているが、実際には軽戦車で構成されていた…なんてことが太平洋戦争中に頻発している。
*3 応急改造ながらチヌへ発展したため、決して無駄にはならなかった。
*4 チハの重量と言えば15tたとする書籍も多いがこれはこれらの数値を丸めたものであると考えられる
*5 戦前の段階でも、実質的な日本軍の軍港であった大連港に、重さが数十tに及ぶ、七年式三十糎榴弾砲(長)の砲身や試製四十一糎榴弾砲の各部品を陸揚げを行い、満州の虎頭要塞へ輸送している
*6 なお、日本陸軍は戦車の大型化を考慮して、20t戦車の通過を考慮した新耐重橋と呼ばれる分解式の橋を太平洋戦争前には制式化しており、40t以内の戦車を搭載可能な超重門橋といった渡河器材の開発生産を進めていた。これらは太平洋戦争の戦況の悪化で破綻している
*7 日本の豆戦車や軽戦車、大型発動挺(大発)といった、一見南方の風土に合わせたかに見える兵器もあるが、これらはもともと別の思惑で開発されたものであり、南方の環境にたまたま適合したのに過ぎない。例えば大発はソ連領であった沿海州の上陸作戦で使用することが目的であり、豆戦車や軽戦車も当時の世界的な流行りに乗っかっただけに過ぎず、ジャングルや山地での運用を考慮したとかというのはない。
*8 20~25%耐弾性が劣る国産の鋳造装甲板では140mm。
*9 砲性能に比して貫徹力は低いが、他国の徹甲榴弾よりも低質だっただけでなく米英独よりも厳しい貫徹条件を課していたせいもある。
*10 ただしT-34-85やM4(76.2mm砲型・ファイアフライ)やA34コメットの戦車砲に対しては不足している。
75mm装甲板は避弾経始の働かない角度だと、初速700m/s未満の野砲級戦車砲・対戦車砲に対して中距離まで耐える厚さである。

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