始皇帝

ページ名:始皇帝

登録日:2017/07/09 Sun 09:00:30
更新日:2024/02/06 Tue 13:53:23NEW!
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始皇帝とは、秦王国の三十一代目国王にして、秦帝国の初代皇帝のことである。
本名は「政」。本姓はえいであり、「嬴政えいせい」が本名となる。


「皇帝」という称号自体が彼から始まったものなので、皇帝即位前は一般に「秦王政」と呼ばれる。





【出自】


紀元前259年、秦国王「昭襄王」の孫・子楚と、その妻・趙氏の間に生まれる。
この時、父親の子楚(後の荘襄王)は趙国に人質に出されており、政が生まれたのもその首都邯鄲であった。


彼が生まれたときの王であった昭襄王は、なんとこの時代に七十歳以上生きており、在位年数も五十年以上に及ぶ
それだけ長いと、子供たちも自然に年を取ってしまう。
昭襄王が没したとき、次代の孝文王(政の祖父)は五十三歳となっていた。


そのせいで結局孝文王も、父の喪が明けてから三日で死去。
孝文王の子であり、長い趙国の人質生活からやっと帰国できた子楚=荘襄王が即位したが、彼もまた三年で死亡してしまう。


その荘襄王の息子・が、新たに秦王に即位した。


この秦王政こそが、後の始皇帝である。当時十三歳であった。




【天下統一】


この時、紀元前246年。
春秋戦国時代が始まってから五百年以上が経過しており、天下は斉・燕・韓・魏・趙・楚・秦の七大国、
世にいう「戦国七雄」が並立している状態だった。


といっても秦は、始皇帝から百年ほど前に商鞅という政治家が法治主義を基礎においた大改革を断行しており、それ以来秦国は他の東方六国に比べて圧倒的な国力と組織力を持っていた。
かつて昭襄王も既に名前だけの存在となっていた周王朝を完全に滅ぼしており、秦王政の頃には秦による天下統一は時間の問題とさえ言われていた。


そんなとき、秦王政の前に二人の人物が現われる。


まず現れたのは尉繚うつりょうという兵法家であった*1
そして、その尉繚子は友人である法家、韓非の書いた著書「韓非子」を渡す。
そこに書かれていたのは、老子の説く「タオ」の思想を根底に置いて、これまでの数々の情報・事件・思想を批判統合した、極限まで洗練された帝王学であった。
秦王政はその思想に驚愕、「この著者に会えるのならば死んでもいい!」と絶叫したという。


そこで韓に攻め込み、講和の使者に韓非を指名するという強引な手法で彼を招聘*2
彼から帝王学を教わり、天下統一の大事業に乗り出した*3



すでに秦国は圧倒的な国力を持っており、さらに韓非から「統一に足りないのは群臣の知恵と、なにより君主の覇気だ」といわれていた秦王政は、
その国力をフルに稼動させ、不退転の決意の下に各地に出兵。
幾度か苦戦しつつもその戦略は揺らがず、ものの数年で、数百年ぶりに天下を統一した


天下を統一した始皇帝は、これまでの王族や功臣に土地を与えてその地を治めさせる封建制を廃し、中央から派遣する役人を地方長官とする郡県制を採用。
あわせて、高度な官僚社会を作り上げ、周王朝以前とはまったく形態の違う中央集権国家を作り上げた。


また秦王政は「これから新しい時代が始まるんだ!新しい称号を使うぜ!」といい、皇帝という称号を作り自ら称した*4
以後、中国の最高支配者は1912年の清朝皇帝溥儀(あるいは1916年の袁世凱)の退位まで、皇帝と名乗ることになる。



しかし、始皇帝はそこから暴君として知られることとなる。




【暴君、始皇帝】



は、関中盆地という天険を抱えていた国である。
春秋戦国時代を通じて強国であったが、それは代々の秦の君主が聡明だったからこと以上に、天険のおかげで攻め込まれることがなかったからである。
六国(斉・燕・韓・魏・趙・楚)には名将・名軍師も大勢いたが、ついに函谷関を筆頭とした防衛線を破れなかった。
秦はもともと小国だった。しかしこうした天険に守られていたからこそ、順調に富国強兵を成し遂げることが出来、領土を広げられたのだ。


その天険は始皇帝の時でも変わりがない。
しかし始皇帝の死後に、陳勝が大軍とは言え訓練も受けていない農民を率いて反乱しただけで天下は崩れ、秦軍は天険の函谷関を守ることもできずに、最後の秦王・子嬰は殺されることになった*5
反乱軍だってそれぞれの利害関係はあったし、全員が名将と言うわけでもない。
だから、秦軍がちゃんと天険を守っていれば、東は失っても戦国時代からの領土は保全できたはずだし、その国力をもって優位な関係を築くこともできたはずである。


しかし、子嬰が死んで国が滅んだのは、そもそも始皇帝が暴虐の限りを尽くしたからである。



始皇帝は自分を完璧な存在だと思い上がり、人の意見を聞かず、残忍であった。


貪欲な心を持ち、自分の知恵だけに酔いしれ、功臣も人士も人民も信用せず、王道を廃して一族だけを大切にした。
学問を弾圧して刑罰を残虐にし、武力や謀略ばかりを考えて仁義を顧みない。


忠誠心を持った有能な人士が諫めても、始皇帝たちは逆に誅殺してしまう。
儒教を弾圧した焚書坑儒は典型例として知られている。
古来より続く聖王の道徳を破壊し、学者たちの研究を無造作に焼き捨て、人民を愚かにする。
力のある者は殺し、武器を奪って抵抗できなくする。


天下を取るまでならいいかも知れない。しかし天下を取ったからには求められるのは別の方策であったはずだ。
彼が、かつての尭舜禹の政策を儒者から学んでいれば、もっと違った結果になったかも知れない。


二世皇帝の胡亥もそれに習い、三世の子嬰は孤立して親しいものもおらず、補佐する人もいなかった。
始皇帝からの三代は、皆そろって混迷の暗君であり、しかも自覚していなかったのである。


だからこそ、天下の人士は口をつぐみ、謹慎恐懼の状態に陥っていた。
結果、忠臣は諫めず、謀臣は図らず、奸臣は実情を上奏しなかった。



もともと秦国は法律を厳しくして刑罰を残酷にし、全盛期には世界中を恐怖させ、衰えだすと人民も役人も恨みを起こした。
昔の聖王や、文王・武王の周王朝などは、君臣の心が通じないことが危険であると知っていた。
だからこそ、全盛期には王が諸侯を束ね、春秋戦国時代になり衰えても、「春秋五覇」が周王を補佐して、社稷を数百年の長きに渡って保つことができたのだ。
ここに秦帝国滅亡の原因も見えてくるだろう。



仁義を人々に施さず、君臣の心のつながりを顧みず、権力や武力のみに頼って民の恨みを買った秦帝国が、滅びるのは当然であった。
しかし自業自得とはいえ、その無常さには哀れみさえ覚えるものであった。




追記・修正は焚書坑儒に思いを馳せながらお願いします。



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……というのが、一般的な始皇帝のイメージであろう。
しかし、実は上の【暴君、始皇帝】の説明、『史記』のうち司馬遷が書いていない部分を編集したものである。
これはなにも、後世の書き足しだとか司馬遷の父親が担当した部分だとかいう意味ではない。


その正体は、『史記』秦始皇本紀の末尾に、司馬遷が引用した『過秦論』である。
つまり、前漢時代の学者である賈誼なる人物が書いた、「始皇帝はこんな暴君だったんだよ!! だから滅んだのは始皇帝の自業自得だったんだよ!!」論文を、司馬遷が始皇帝に関するまとめを書くときに丸々引用したものである。
「始皇帝について、賈誼が書いた”過秦論”にはこのような記述がある」ということであり、「司馬遷が研究した始皇帝の人物像ではない」のだ。


では、当の司馬遷は始皇帝をどう評価したのか。


これが実はほとんど書いていない
秦の歴史について少し書いた後に「始皇帝は自分の業績は三皇五帝よりも大きいと考えて、彼らと並べられたくないと思った」と書いただけである。
そしてその後に「賈誼がいいこと書いたからここで述べるよ」と書いたに留まる。



【秦始皇本紀から見える始皇帝像】


それでは、秦始皇本紀は始皇帝についてなにも書かれていないのか?


否である


むしろ、秦始皇本紀は始皇帝について、恐ろしく詳しく、詳細に描かれている。
わざわざ「秦本紀」と分けて書いたのだから、その密度もほかの本紀に比べて濃い。
司馬遷が生きた時代は始皇帝の死から百年ほどしか経っておらず資料が豊富であったことに加え、ほどよく年月を経て情報が整理されていたからであろう。



そして、その秦始皇本紀に描かれた始皇帝の姿は、賈誼がいう暴君とはとても思えないものであった




【1.始皇帝の統治】


天下を統一した始皇帝は、それ以前から秦国で行なわれていた「法治思想」を確立させ、それに基づく官僚システムを天下に広げた。


この法治思想、古くは周王朝建国の元勲・太公望が先鞭をつけたとされ、春秋戦国時代に入ると斉の管仲、鄭の子産、韓の申不害、斉の慎到、秦の商鞅……といった数々の思想家・政治家により洗練されていった。
その最後の大物である韓非は、これら法治思想を老子の説く「タオ」の思想*6を根底に置くことで、一気に整理。
さらに、古代から現代までのあらゆる人物、歴史事件、論文などを幅広く取り上げ、批判しながら洗練し、法治思想を完成させた


その韓非子の「弟子」が、始皇帝である。



さてその始皇帝だが、実はすさまじく勤勉な政治家だった


どれほどかというと、「天下の事務は大小となく自ら決裁する」「書類を天秤で量って昼と夜の分にわけ、すべて処理するまで休まなかった」とされるほど。
これは後述するが始皇帝を批判する手紙に書かれていた内容なので、その後に「全て自分で決めたがる!」と批判されるが、これはそのまま読めば「政務にまじめで、いささかも手を抜かなかった、勤勉な皇帝だった」といえるだろう。
むしろ、これを批判すると「皇帝たるもの政務に励むな!けしからん!」ということになってしまう。


まあ世の中を効率良く動かすためには分業が欠かせないので、仕事の集中させすぎでうまく分業できてなかったのならそれはそれで問題ではあるし、
秦が早期に滅んだ一因が始皇帝への職務の過剰な集中にあったことも間違いではないだろう。


だが、特に当時において「有能」かつ「忠実」な官僚は非常に貴重な存在である。
現代日本ならば、国民は皆義務教育を受ける。それだけの母集団がいれば有能かつ忠実で向上心もある人物もそれなりに現れるだろう。
だが当時は義務教育などと言うものはなく識字率と言う概念すらなく、官僚となれる人間の母集団が非常に少ない。
そんな中で国家運営に携わるほど有能な人物になるには才能のほかに現代とは比べ物にならない努力が必要だったはずである。
そんな努力をする理由は単に金や親孝行では済まされない。特に有能な人物は相応の野心があればこそ能力を身につけるのである。
それでも国を良くしたい、忠義を尽くしたい、という野心ならばよい。
だが、皇帝や国家に忠義を尽くすのはタダのステップで最後には皇帝や国家に牙をむくタイプの野心家も存在する。最初は野心がなくとも、周囲に持ち上げられればその気になる者も現れる。
そんな野心家を見極めるのは非常に難しいし、危険だからと言って登用を拒否できるほど人材は潤沢ではない。
そんな中で安易な人任せは危険な野心に力を持たせ、皇帝権力を転覆させる危険を伴う。


さらに、当時始皇帝の政策・目標を理解している人間が、絶望的に少なかったというのも一因である。
なにせ、丞相の王綰、御史大夫の馮劫という、行政と司法のツートップですらが、始皇帝の郡県制・法治主義・官僚システムを理解していなかった(後述の4.参照)。
もちろん始皇帝とて、自身の意に沿う思考の持ち主を使いたかったはずであるが、彼らに任せた理由は人材不足に他ならないだろう。
他の閣僚・官僚・地方長官たちもおそらくは同様であっただろう。


特に地方官にとっては、例えば「黄河に長距離の堤防を築く」と命令が下り、総督から末端まで任命されたとしても、
「昔は韓・魏・趙・斉がそれぞれの国内で勝手にやっていたが、この担当官の権限はどう見ても昔の四国を超えている」
「昔の王以上の領域を一官僚がやっていいのか、それともやってはいけないのか」
などと混乱していたはずだ。
後代の官僚なら、「黄河全体の治水を担当する役人」とポンといわれても「ああそういうものか」となるが、
国々が完全に独立していた時代に生きていた当時の役人たちは、「地方諸国の立場にこだわらない・天下国家の官僚システム」そのものが理解できなかったのだ。
しかも実際には上司も閣僚も丞相すらも分からない、となれば、最高責任者でかつすべてを理解している始皇帝に、すべての業務が集中するのは必然である。(もちろん、李斯や蒙恬、蒙毅など「少数の理解者」も激務をこなして始皇帝を補佐したのは言うまでもない)
始皇帝は宮中で忙しくする傍ら、頻繁に各地を巡業していたが、これも誰もが理解していない超国家・天下プロジェクトを自ら指導し、対処しなければいけなかったからだろう。
メールも電話もない以上、始皇帝が現地に行かなければ、いちいち現場から咸陽に早馬を飛ばして決裁を仰ぐことになり、いかに始皇帝が即断即決してもやりとりの間は様々なことが停滞してしまう。
始皇帝にとっては、こうした巡業は激務の息抜きという側面もあったかもしれないが、それ以上に政務そのものだったのである。


同じように昼も夜も政務に励んだ皇帝には清の康熙帝・雍正帝がいるが、天下国家の官僚システムが常識となっていた後代の皇帝や政府と違い、いわば「偉大な過渡期」にあった始皇帝。
勢力地図という視点からも、天下統一は果たされたばかり。不穏分子も生まれかねない状況でもあり、手抜きはせっかくの統一を瓦解させかねない。
始皇帝は、どうしたって粉骨砕身しなければならなかった。
それで国の運営が可能だったのは始皇帝の努力と能力のたまものである。


それでなくても、旧六国を併合したということは、単純計算で業務が七倍に増えることになるわけで。
まあ仕事を独占してしまったことで、官僚を育てる機会を奪ってしまったという見方もできなくはないが…



そして、その忙しい皇帝が、時には自ら監察業も行なった。
BC.216年のことだが、政務に励む傍ら、密かに側近四人を連れて夜の首都に微行している
そしてその先で盗賊を発見し、撃破している。
さらにその後、二十日間は厳戒体制を敷かせている。


考えてみればわかるが、普通首都で警察がちゃんと働いているなら、盗賊など現れないはずである。
逆に、警察が働いて尚盗賊が跳梁しているならそれが上層部に報告されていなければならない。
警察の人手不足なのか、貧困故の盗賊か、いずれにしても警察の手に余る事態であり、上層部に報告を上げるべき事態である。
しかし、そうした報告が上がっていない、あるいは上がってきたがどうも信用できない。
そうして始皇帝自ら微行に出たら盗賊が簡単に見つかったということは警察システムが機能不全に陥っていたことを示している。


つまり、役人が怠けていたということである。
そして、それを見抜いたからこそ「特殊な警戒体制を敷かせた」のである。リアル暴れん坊将軍



更には身の回りの情報漏洩についても気を配っていた。
あるとき、始皇帝が宮殿から窓を見たとき、丞相・王綰の車が見えた。それが、随行が多くて華美だった。
始皇帝は「贅沢をするものだ、けしからん」と考えて舌打ちをした。
ところが、別の日に見ると王綰一行がいきなり質素になった。


この瞬間、始皇帝は「側近の宦官たちが情報を漏らしたな!」と見抜いた。


韓非子にも書かれているのだが、情報を握られるというのは君主にとっては極めてまずい状況である。
例えば、誰かを昇進させようとしたときにその情報が盗まれると、奸臣はそれを相手に告げて「わしが推挙したからじゃよ」と匂わせる。
そうすると、その相手の忠誠心は国にも君主でもなく、奸臣に向いてしまう。
君主は、賞罰を取り引きして臣下を統御する。その賞罰の利益を、奸臣に横盗りされてしまうのである。
また主君の考えを悟られれば、それをもっておもねる人間も現れるだろう。
だから、情報漏洩には敏感でなければならない。
そして始皇帝は、周囲で情報漏洩が起きていることを、舌打ちと丞相の態度の変化で理解したのである


その後、始皇帝はその時あの場所にいた宦官たちをいっせいに調査させたが、だれもが口を割らなかったため全員を処刑している。
証拠もなく全員を連帯責任で処刑するのは残酷で現代の人権感覚からは到底容認し難いし、実際には全く関与しておらず、口を割らなかったのも知らないので答えられなかっただけ、という宦官もいた可能性は高い。
しかし、悪事を糾弾されながらも庇いあったということ自体が「犯罪の隠蔽・助長」「情報の操作」「真相究明の妨害」「不当な党派結成」を示す重大行為であり、厳しく処断しなければならないことなのだ*7
犯罪の隠蔽や弁護をするというのは、始皇帝や韓非子のみならず管仲なども厳しく禁じたところである。
加えて、王綰は丞相、つまり官吏最高位の存在であり、始皇帝も重用していた人物である。
その丞相さえ宦官のチクリに従ったということは、一度宦官が悪事を考え始めれば、丞相とそれ以下の官吏が軒並み始皇帝でなく宦官の言いなりとなる可能性が高い。
そうなってからでは始皇帝自身でも手の打ちようがなくなりかねず、この時点で強引で残酷であろうと綱紀粛正は待ったなしだったのである。


いついかなるときであろうと、始皇帝は気を抜いていなかった。だからこそ、彼は常に政務に励み、夜を徹して政務の実体を探り、わずかな兆候から情報漏洩を防ごうとしたのである。
確かに、彼は独裁者であり目ざとく非情でもあった。しかし、彼はとにかく真面目な皇帝であった。




【2.大土木工事】


始皇帝というと、万里の長城や阿房宮などの大土木工事で「人民を」使い、終わらない重労働で人々を苦しめたと言われている。
少なくとも、いくつかの巨大プロジェクトが行なわれて、“重労働が課された”のは事実である。



しかし、実は始皇帝はそれら土木工事に「良民」を使っていなかった


始皇帝が労役に使ったのは、囚人である



時期を追って見ると、秦始皇三十三年には「逃亡罪を犯した者、妻の家に寄食している者、正業(農業)に就かない小商人」を徴発して嶺南に入植させている。
そして、同年には別に犯罪者たちを南方に新設した郡に派遣し、やはり開墾にあたらせている。
三十四年には「適治獄吏不直者」…つまり汚職をした獄吏・役人を摘発し、万里の長城や南越の開発に投入した。
三十五年にはやはり宮廷の徒刑者(宦官含む)七十万人を逮捕し、阿房宮や驪山の建設をさせている。


そのいずれもが、罪を犯して逮捕された囚人か、そうでなければ定職に就かない無駄飯喰らいである。
罪を犯しておらず、定職に就いていた人民は、一切手を出されていないのだ
それどころか囚人が労働力に使われるので「囚人に牢屋の中でムダ飯を食わせる」ことにはならず、良民には労役を課す必要がなく、ちゃんと罰則(懲役)にもなる、という完璧な政策だった。
この政策には、上述した尉繚子の影響が強い。


なにより、目を引くのが役人からの逮捕者が多いことだろう。
二一世紀の現代でもそうだが、中国の役人というものは不正や悪事が非常に多い。清代には「三年清知府、十万雪花銀」――地方長官を三年「清廉に」務めても、十万両の銀貨が雪のように積もる――ましてや貪欲に搾取すれば――という言葉が生まれたように、こと中国において役人と汚職は不可分なのである。


つまり始皇帝は、秦帝国の権力と法律を悪用していた不正役人・悪徳獄吏たちを、容赦なく摘発していたのである。


さらにこれら開墾者は、開墾が成功すると、数年から十年に渡って賦税や労役が免除された
開墾したら重税を課すのではなく、開墾成功という「功績」に対して「報酬」を与えているのである。
もちろん、帰りたいと願っていた人もいたかも知れない。しかし、故郷に帰ってもその土地で税を課されるぐらいなら、十年間賦税のかからない土地に住んで、一から旗揚げしようと考える人も少なくなかったのではないだろうか。



余談だが、始皇帝の次の時代の主役の一人である劉邦は自身の夫役で咸陽に行ったことがあるが*8、夫役を科された理由はろくな定職も持たずに半ニート生活をしていたからという説がある。
この頃の逸話を見る限り妻の家に寄食していたと思われ、まんま上に書かれている項目に合致している。



【3.焚書と坑儒】


悪名高い政策として「焚書坑儒」もあるが、これも世間のイメージは正しくない。
焚書は特に儒家を狙ったものではなく、坑儒に至っては完全に間違えている。



「焚書」が行なわれたのは三十四年、始皇帝の死の三年前のこと。
この時、博士の淳于越が宴席の場で始皇帝の政策を公然と批判し、封建制に戻すべきだと訴えた。
それに対して始皇帝は、別段怒るでもなくこの意見を会議にかけさせた。
そこで、李斯が反論。「時代は変わるし、必要な考え方も変わる。昔ばかりを追い求めても、意味はない」と反論。同時に現在の思想に反する書物を焼き捨てる、「焚書」が建議され、始皇帝が可決した。
尚、この時に対象外とされたものには「秦国の史書と、博士官が所蔵する書物、それに医薬と占い、農業関係」がある。
さらに、あわせて「官吏を師として、法令を学ばせる」教育普及の建議も同時に行なわれ、可決された。


このことからわかるが、焚書とは「時代遅れになった思想を用いて、時宜に合わない政策を論じることを禁ずる」政策であって、儒家だけを狙ってはいない
それに始皇帝は、淳于越に正面から政策を批判されたのに、怒ることもせず一存で却下もせず、ちゃんと会議にかけていた
もちろん、議会尊重の意図があったわけではない。李斯は始皇帝の腹心である。
だが少なくとも、彼は「気に食わない人間を片っ端から排除する暴君」ではなかった。現に淳于越はおとがめなしである。


そもそも中国で「お上の政策批判」は常に重大事である。その意見に道理があれば用いられることもあるが、そうでなければ殺されることは普通だ。
太公望は「聖人の道」を説く「賢者」を「愚論を並べて人々を惑わせ、法刑を軽んじ国を乱す愚物」として処刑し、説明された周公旦も納得した。
反対する王綰・淳于越を殺さないだけ、始皇帝は寛容でさえあった。



そして「坑儒」は、完全な名前詐偽である。処刑されたのは儒家ですらない(正確には儒家を殺そうとして行ったことでない)。


皇帝業に真面目に取り組んだ結果、過労まっしぐらの生活を送る始皇帝。
しかも、彼の意志を理解していた人間はほとんどいなかった。後述するが丞相の王綰さえ理解していないのである。
考えてみれば、不老不死を望むのも無理はなかったかもしれない。


始皇帝「駄目だこいつ(ら)…早くなんとかしないと…」


そんな始皇帝は、方士(道士)たちに「不老不死の研究」を推進させていた。
ところが、いつになっても研究成果は上がらない。
「群臣が言を述べて、君主はそれに応じて事業を授ける。挙げた功績が最初の権限に合致していれば賞するが、合致しなければ罰する」を地で行く始皇帝に対して、「いつまでも結果が出ない」のは、十分処罰対象だった。
そうなると困るのは方士たちのリーダー格だった盧生と侯生である。始皇帝に対して不老不死を持ち出し取り入って多額の資金を得ていたのは他でもない彼らだったためである。
結局、この二人は処罰される前に逃亡した*9



当然、当初の背任罪に、予算の横領罪逃亡罪皇帝への不敬・侮辱罪までも加わる。ここまで来るとむしろ反逆に近い。さすがに始皇帝も怒る。
そして方士たちを調査したところ、密告が相次いで、芋蔓式に四百六十人分の余罪が発覚。一斉に処刑された。


これでわかると思うが、この「坑儒」のエピソードに「儒」の文字は一つもない
思想弾圧どころか、単なる汚職官僚と刑事犯罪者への処罰である。
ただこの事件の際、長男の扶蘇が「諸生皆誦法孔子」(学者たちは孔子の教えに従っている)と言って始皇帝に諫言していることから、殺された方士たちの中に儒者は一定数いたことは分かる。が、そうはいっても「儒教弾圧」が目的であるとは到底言えない。
というか二世皇帝の時に陳勝・呉広の乱が発生した際に、儒者を呼び出して意見を尋ねたとある。
ここでかの叔孫通が登場するのだが、もし儒者を皆殺し・排除していた(=儒教を弾圧していた)のならばそもそも儒者が宮廷で意見を尋ねられることがあるだろうか?
逆説的な話だが「坑儒」が「儒教弾圧」ではないことが分かるだろう。


またこのエピソードからは、始皇帝が不老不死を求めていたのと同時に、重用する方士であろうと法を犯せば容赦がなかったことも示している。
ちなみに韓非子には「不老不死は絶対にウソだ」という話がある*10
始皇帝自身、半分はわかっていたのだろうし、それでも研究は続けるが、彼が不老不死を求めることと、迷信深いことは必ずしも一致しないのである。


……ちなみに、このエピソードでは「仙薬を研究していた方士は薬を献上せずに逃亡した」とある。
つまり、始皇帝は仙薬を口にしていない
一般に「始皇帝は水銀を飲んで命を縮めた」とよく言われるが、始皇帝が水銀を飲んだと思わせるような記録は全く存在しない
始皇帝と水銀の関係としては、彼が葬られた驪山陵(始皇帝陵)について「水銀を流して川や海を再現した」という記述がある。
これは後年の驪山の調査で、山から強い水銀の反応が出たために確定した。
つまり副葬品の一つとして水銀の記録がある。しかしここにも「口にした」記録は無い。


また、唐代後期にはタチの悪い道術がはやり、14代・憲宗、15代・穆宗、18代・武宗、19代・宣宗など幾人かの皇帝が「仙丹」と称する水銀化合物を飲んで若死にした。
これらと混同が起きたのかもしれない。



それでも、死刑を乱発するという意味で過酷だったか…と言うとそうでもない。
キングダム』の主人公として最近知名度が上がっている李信は、自ら名乗り出て兵20万を預かり、楚を滅ぼすと大言壮語を吐いた。
始皇帝はこれを信じ兵20万を与えるが結果は奇襲に遭って惨敗。
自ら名乗り出て国軍の2割を失って帰ってくるというのは即座に国が傾いてもおかしくないレベルの大失態である。*11


だが李信が粛清された記録はない。後にも燕・斉を攻めて武功を挙げるなど、将軍として活躍している。
自ら名乗り出た任務に失敗しながら命を取られるどころか完全な軍権の剥奪すらされていないのである。
始皇帝が何をもって李信を許したのかは不明である。可能性を上げればキリがない。


しかし不老不死などどうでもよくなるレベルの失態を犯した李信がその後も将軍として活躍していたというのは、始皇帝が単純な厳罰主義者とはいえないということを示している。


【4.始皇帝と法治思想】


始皇帝は法治思想を完成させた韓非子の思想をベースに置いている。
かいつまんでいうと「法律とは、世界の真理(タオ)に則るものとして定める」「その法に適うことだけを為し、それに反することは一切を禁じる」というものになる。
だからこそ、皇帝も人民もそれぞれの業務に励み、法を犯した者は庶民も役人も摘発して処罰する。
そして役職についていなければ、たとえ皇族であろうが「無位無冠の匹夫として扱う」としていた。


ところが、余りにも先進的すぎたためか、始皇帝の理想を理解できる人は秦帝国の高官の中にさえほとんどいなかった。


例えば、丞相の王綰である。
彼は天下統一後まもなく、ほかの大臣らとともに「周と同じ封建制に戻しましょう」という建議を平気で行なっている。
当たり前だが、皇族を分封しても平和になるとは限らない。
むしろ、息子たちを封じても次代では兄弟、三代では従兄弟、四代では再従兄弟となり、血は薄くなっていく。むしろ「王の上=皇帝の座を目指すステップ」として利用されかねない*12
この時は李斯がそう反論したが、それから十年以上が経っても淳于越が封建制に戻せといっていた。


そして、側近の宦官たちは情報を流し、役人は仕事をせずに汚職をこなし(て逮捕され)、その穴を埋めるようにして始皇帝は忙しく働くこととなった。優秀な人材はいつの時代も不足するものである。
ていうか、ぶっちゃけ始皇帝その人が一番の社畜……



そして、始皇帝は自分の気に入らない人間を排除していたばかりなわけでもない。
例えば、馮劫という人物がいる。始皇帝が統一したときには御史大夫(監察長官)で、始皇帝死後には将軍に転ずる人である。
この馮劫はかつて丞相王綰とともに封建制に戻すよう訴えた人物であるが、それにもかかわらず彼は二世皇帝胡亥の時代まで、高官にあり続けていた。
同じく法治主義反対・封建制に戻せと訴えていた王綰や淳于越などがなんのお咎めもなかったのはすでに見た通りである。



また、始皇帝は気に入った人間を必ずしも重用しなかった。
功績を積んだ人間だけを引き上げることとしている。
その基準は徹底しており、たとえ皇族であろうと息子たちであろうとも、官職についていなければいっさいの特権を認めていなかった
後宮でも、権力を持った愛妾というものを存在さえさせていない。


一説には「阿房宮とは始皇帝の愛妾の名前である」というものもあるが、史記には「阿房とは単なる地名。完成したら改めて命名しようとしたが、完成しなかった」とはっきり記されている。



一時が万事、始皇帝は法治思想の理解者であり、それをいっさい妥協することなく、徹底的に遂行しようとしていた



【5.始皇帝の側近たち】


そんな始皇帝が重用した人物は、李斯蒙恬蒙毅兄弟である。


李斯は何度か登場しているが、始皇帝の手として、始皇帝の政策を実行していった人物である。
封建制に戻して法治主義に反対する大臣に反論したり、不直の治獄吏*13を摘発するのも彼の役割だった。


ちなみにこの李斯、かつて始皇帝の師であった韓非子を、自殺に追い込んだ「前科」がある。
しかし、なんだかんだで韓非子とは同門でもあり、彼の思想を一番良く理解できた人物でもあった。
そのため、統一後は韓非子の思想を受け継いだ始皇帝に仕え、韓非子の思想を実現すると言う、かなり皮肉な結果となっている。



蒙恬は将軍で、主に北方に赴き、強力な騎馬民族・匈奴を撃破。
さらに、囚人たちを監督して長城建設を行なっている。
さらっと書いているが、匈奴はのちの漢帝国の高祖劉邦直々に率いた遠征軍さえも返り討ちにするほどの強敵であり、
囚人を使った長城建設も政策上重要な業績である。
なお、彼の元にはのちに始皇帝の長男・扶蘇が預けられている。


その蒙恬の弟が蒙毅である。
彼は始皇帝の一番の側近で、常に同じ車に乗るほどだった。李斯が手足なら彼はブレーンであったといえる。
扶蘇は蒙恬に預けられたが、その蒙恬の弟が蒙毅なのだから、扶蘇は蒙毅と蒙恬を経由して、始皇帝の帝王学を教え込まれていた可能性が高い。


扶蘇は一般に、始皇帝の儒教弾圧を諫めたため「軍監」の名目で蒙恬のもとに追放された、といわれることが多い。
しかし(始皇帝が儒教弾圧をしていなかったことは別としても)、「軍監」という地位を与えることは扶蘇を他の公子とは別格の地位に引き上げることであり、さらに軍権を与えるということは扶蘇の権力を補強したということだ。前述のとおり始皇帝が皇族だろうと官職がなければ一切特権が認めていなかったことからもそれが窺える。
扶蘇に権威と権力を与え、別格の地位に押し上げたというのが実態であり、さらに言えば扶蘇を事実上「太子」と定めた、という見方もできよう。


太子を定めるというのは、実は危険なことである。早く定めれば、いつまで経っても即位できない太子は元気な父君が邪魔になり、殺してしまう*14
また逆に遅くなれば、諸公子は自分にもチャンスが巡ると思って権力を奪うべく策略を巡らし、兄や父を殺しにかかる。*15
そもそも太子を立てても諸公子が妬み、呼応した大臣が徒党を組めば、足を引っ張ったり讒言したりして国が乱れる。
後継争いというのは当たり前だが大変なことなのである*16


それに対して始皇帝は、長子と軍権を握る将軍、さらに中央にいる将軍の弟が結びついて反乱を起こすかもしれない、というリスクを承知のうえで、扶蘇蒙恬蒙毅三人を信じて、後事を託していたのだ



また、蒙恬のもとで長城建設に充てられた囚人兵は、摘発された不正役人である。
元役人ということは目端の利く人間ということである。自分も周囲の人間も不正・怠惰を働いたため罰せられた者ばかりと気付けば、逆に始皇帝が求めているのは厳正な法治であるということに気付けるはずだ。
そして、蒙恬がそうした目端が利き法治を理解した人間を抜擢していたとすれば、彼らはそのまま扶蘇の調停を支える官僚集団となっただろう。
そう思えるのは、始皇帝が没して扶蘇の即位が現実化した際に、蒙恬が次期宰相と見られていたからである。
長らく朝廷にいなかった蒙恬が次期宰相というのは奇妙であるが、秦朝の次期官僚団を束ねているのが蒙恬だったのなら、それはありうることである。




彼らとは別に、始皇帝が信頼した人物としては天下統一期に活躍した老将・王剪が挙げられるだろう。
王剪といえば「何度も恩賞を確認する」芝居を打ち、始皇帝は「人を疑う」と言ったことで知られている。
しかし始皇帝は事実として、秦全軍(百万)の過半数(六十万)を彼に預けている。
さらに、この時王剪の息子も十万の軍を率いて魏国を攻めていた。


もしも疑うだけの人間だったのなら、総勢七十万の軍を預けるだろうか。
逆に、なんの迷いも疑いもなく七十万の軍団を預けるのが、正しいことなのか。
大軍を率いた将軍が、凱旋とともに謀反を起こすことがないと言えるだろうか*17


疑いながらも、しかし最後には始皇帝は信じたのである。
王剪が演技をしたからといって、そして始皇帝が疑り深いからといって、すぐさま人間性に問題があるとは言えない。慎重とも言える。
そして現に、王剪親子はその後、粛清されていないのである。



【始皇帝の死と、その後の崩壊】


不老不死を探究しても、人はやはり死ぬ。
まして、始皇帝のように身を削る激務を続けていれば、寿命が縮まるのは当然だろう。
過労死は現代人だけのものではない。


そして始皇帝は巡業先でついに息を引き取った
享年、四十九歳。



この始皇帝が没するまでの間、満天下に秦の法治に対する不平不満が強くあったのは事実である。
秦国以外の人間からすれば、それまでは許されていた違法行為が急に許されなくなったのだから、相当な反発があったことは疑いが無い。


しかしあえていうが、始皇帝の在位中は大規模な反乱は一度も起きていない
統一後でいうなら、暗殺されかけたのは一度だけである。


そして、始皇帝は「寵愛していた」と言われる胡亥ではなく、長男の扶蘇に跡を継がせようとしていた。


扶蘇のバックには蒙恬がついており、強大な軍事権と官僚団を握っている。
さらに、その蒙恬の弟・蒙毅は始皇帝の政策を、もっとも身近で見てきたブレーンである。
政策実行力のある李斯もいる。
始皇帝の政策は、扶蘇を中心としたこの三人の手で引き続き運営されていく、と思われた。



しかし、ここで一人の宦官が暗躍した。いや、彼は始皇帝の死を見越してすでに動き回っていた。


それが、始皇帝の末子・胡亥つきの宦官、趙高である。
のちに「史上最悪の宦官」と呼ばれた男だ。


しかし、過去何度か始皇帝が側近や宦官を粛正しているのに、その網にかからなかったということは、始皇帝在位中はさほどの犯罪をしていなかったようだ。
とは言え一度死刑にされかかったことがある。このとき裁いたのが蒙毅だったが、始皇帝は能力がある見て減刑・赦免したという。
この時、趙高は蒙毅を恨んだ……といわれている*18
宦官皆殺しも辞さないほど厳格な始皇帝としてはぬるい処分だが、始皇帝の思想自体理解者が少なかったことや、趙高も頭が回る存在であったことは間違いない。
始皇帝としても代えがたい人材であったためにやむなく許したと見るのが素直であろうか*19


そして始皇帝が死んだとき、趙高はその遺勅を私有化
李斯をも抱き込んで遺勅を焼き捨て、胡亥を即位させるという偽造勅書を作り上げた。


一説には、李斯は当所本物の遺勅に従い扶蘇を即位させようとしていたという。
しかし、趙高は「もし扶蘇殿下が即位したとしたら、蒙恬か蒙毅あたりが丞相になって、いまの丞相である閣下は危ないんじゃありません?」と脅した上で、
「ここにおられる胡亥殿下は扶蘇殿下よりも聡明なお方です。ねえそうでしょう殿下?」と言って、反対すれば皇族に対する不敬罪、という状況に追い込んだという。



そして、李斯を味方に付けた趙高は胡亥を擁立し、さらに偽造詔勅を乱発して扶蘇・蒙恬・蒙毅を次々と罠に嵌めて殺していった


そうして即位した胡亥と趙高だったが、ここから彼らは大暴走


「うっとうしいからめぼしい皇族をどんどん殺しちゃいましょう。罪状無いですけど!」
「権威付けです、大臣たちの首を切っていきましょう。物理的に!」
「新しい軍隊を作りましょう。全世界から若くて使える男手を集めて!」
「射撃訓練の的には生きてる馬とか犬とかがいいよね。全国から集めましょう!」
「人口と動物が増えすぎて食料不足?そうかわかった、農民から絞り取れ!」
「先帝の土木工事が終わらないなあ。人員を増やせ。別に囚人でなくてもいいだろ。人間はいっぱいいるじゃないか!」


……と暴政の数え役満を次々実行。
挙げ句、首都近郊三百里の住民は、自分で作った農作物を自分で食べることを禁じられた
暴政はますます悪化し、「不直の獄吏を摘発する」どころか、
「人を多く殺した者が忠臣で、税を多く取った者が能吏」と呼ばれる始末。
当然、収奪・略奪の隙に地方官吏が横領に走ったことは言うまでもない。



しかも、それを現実に政策として処理する役目は李斯にすべて押しつけた。
李斯は李斯で、始皇帝時代に監察業務で活躍したぶん、逮捕された役人たちの恨みを買っていたから肩身が狭く、
封建制に反対したから大臣たちとも距離があり、しかもなまじ聡明だからその先が読めていたらしい。


その上趙高は自分が宰相になりたいからと、李斯を追い落とそうと企んでいた。
ていうか、趙高は自分が皇帝になりたいとずっと考えていた
宦官って皇帝になれるもんなのか!?



このような状況で、天下が治まるわけはない。前述のとおり始皇帝存命時でも不平不満が強くあったものの、大反乱までには至らなかったわけだが、上記の暴政などやられればいずれ暴発することは目に見えていた。
結果として二世元年(統治して二年目)の七月には陳勝項梁・項羽劉邦などが次々と反乱を起こし、中華大陸は戦乱の渦に呑み込まれた。
にもかかわらず、胡亥たちは反乱が起きている事実さえ認めず、「群盗騒ぎ」と呼称しなければ獄に下すという体たらくだった。


ついに我慢の限界に達した大臣たちが、胡亥と趙高を正面から諫めようとした。
この時出たのは、右丞相の馮去疾、大将軍の馮劫*20、そして、もはや打つ手を無くしていた李斯であった。


しかし、諫めて聞くだけの脳味噌があるなら最初から暴君にはならない。
胡亥は韓非子の理屈をもっともらしげに使いながら、しかしよく見ると明らかに間違っている理屈で、李斯らを投獄。
馮去疾と馮劫は抗議の自殺をしたが、李斯のみは抗弁し続けた。


しかし、もともと獄吏を逮捕していた李斯に対して、獄吏は容赦がなかった。
そして、助け船を出す人もいなかった。
中国では贈収賄の汚職が一般的で、李斯は獄吏の監察もしていたわけだから「相場」も知っていたはずである。資産がなかったとも考えられない。
にもかかわらず拷問を受けたということは……


結局、李斯は全身を千回も棍棒で打たれ、ついに謀反を企んだというウソの自白をさせられ、処刑された。
死ぬ間際に、同じく処刑される息子を振り返って「家の黄色い犬を連れて、また一緒に狩りをしたいと思っていたが、できなかったな……」と嘆いたという。
「狡兎死して走狗煮られる」と言いたくて、それでも言えなかった無念さがしみ出している。



そして、李斯を殺して宦官でありながら丞相となった趙高は、更なる野心を発揮。
有名な「馬鹿」のエピソードを交えて朝臣たちを脅迫し、反抗するものと鈍い奴らを消し去った上で、ついに胡亥を殺した


本当はそのまま趙高が皇帝に即位しようとした。
が、いくら「馬鹿」な朝臣たちもそれだけは賛同できない。
ついに彼も折れて、皇族の一人の子嬰を即位させることとした。


……が、趙高の絶頂期は、まさにこの一瞬だけであった。


趙高が子嬰を出迎えにいった瞬間、子嬰自らの手で、趙高は殺されたのである。



かくして、中国史上最悪の宦官は、得意の絶頂からものの数日であっけなく消えた。
胡亥と趙高が好き放題できたのも、実はたった三年ほどのこと。


しかし、何事も『作って維持するのは難しい、壊すのは容易い』のが世の常。
そのたった三年間で、始皇帝やそれ以前の歴代秦国王、数多の能臣たちが死ぬほどの努力を費やした秦帝国は修復不可能なほどに破壊されていた。
現に趙高が消滅したときには、すでに劉邦が武関を突破して秦の首都・咸陽に迫っていたのである。


結局、子嬰は即位から三十五日で降伏。一旦は助命されるもその後項羽に殺される。



【受け継がれし「始皇帝王朝」】


かくして、始皇帝が遺した秦朝は滅亡した。
しかし、始皇帝の遺産は残った。



子嬰の降伏直後、劉邦の幕僚の一人蕭何は反乱軍が略奪に走ろうとする中、一人だけ秦朝の文書・資料保管室に飛び込むと始皇帝時代に培われた莫大な行政資料をできるだけ運び出した
そして項羽と劉邦の決戦が決着して漢朝の時代になったのち、蕭何を首班とする漢朝首脳部は始皇帝の遺産を駆使して、効率的な法治システムを作り上げ、軌道に乗せた
当時は「西半分は郡県制、東半分は封建制」という「郡国制」を敷いたものの、この東半分の封建制もやがて解体され、中国全土は郡県制の時代となる。



前漢時代には「黄老の術」という言葉も出てくる。
「黄老」とは黄帝と老子のことで、要は道家思想のこと。その「術」とは、つまり「老子の思想を基礎に置いた統治方法」である。
それこそ、老子の説く「道(タオ)」の思想を根底に置いて編成された法家思想――韓非子の思想に他ならない*21


また蕭何の死後、後任の宰相となった曹参
「すでに蕭何が作り出した政治システムが定まり、機能しております。それが乱れない限り、陛下はなにもする必要はありませんし、宰相以下はそれぞれの事務を果たしておればよい。それだけで天下は治まるのです」
と述べた(これが「黄老の術」の典型と言われる)。


韓非子はその著書にて、
尭舜のような聖君も、桀紂のような極悪暴君も、実際には千年に一度現れるかどうかの珍しい存在だ。
 ほとんどの君主は、尭舜ほど賢くもなく、桀紂ほど暴虐でもない、「凡人」である。
 私が考えるのは、凡庸な君主と平凡な朝臣でも、そのシステムに従ってさえいればよく治められる、そういう政治システムだ」
と語ったことがある*22
そして現に漢朝初期は、政治にはあまり詳しくない高祖劉邦、優しいが柔弱な恵帝、幼児の少帝×2、そして権力亡者の呂后、と名君とは言えない君主が続いたが、
それでも官僚を中心とした政治システムは安定して機能し、司馬遷が「天下は安定し、人々は農業に励み、豊かになった」と讃える時代になった。
また、上の韓非子と曹参の言葉を読み比べると、説くところはほぼ同じということもわかるだろう。



秦朝は確かに始皇帝の死後、あっけなく滅んだ。
しかし、韓非子と始皇帝が作り出した遺産は、その後の中国史に確かに引き継がれていったのだ。



【始皇帝とは】


以上のことは、一般に流布している「暴虐な始皇帝」像とはまるで異なる。
日本でも、ほとんどの歴史小説では「始皇帝は暴虐で傲慢で、迷信深くて不老不死にこだわった暗愚な暴君だった」となっている。


しかし、史記に描かれた彼は、おそらく中国史上でも一二を争うほどの真面目で厳格な皇帝であり、確かに専制君主であったが名君でもあったと言える。


さらに、上の業績では「広く流布しているし、あえて触れるまでもない」と考えさらりと流したが、

  • それまで各地で異なっていた漢字の書き方を統一
  • 各地でばらばらだった度量衡*23を統一
  • 通貨も統一して経済改革
  • 道幅を整えた公用道路を全世界に展開し、交通インフラを整備
  • 使用する車の軌道の大きさなどを統一して、整備性を高めて物流にも貢献

と彼が手がけて一般にも知られている業績のいずれもが中国文化圏を構成する重要な要素ばかりである。
さらに、旧七雄が作っていた長城を繋ぎあわせて一つの「万里の長城」*24として、「国境」を定めたことも、一つの中国としての意識を生み出したと言える。



そして、始皇帝の後に天下を治めた漢帝国や、その後も連綿と続く中国の大帝国は、いずれも建て前では儒教の徳治主義を打ち出しながら、実際の統治面では法治思想に基づいた官僚システムを運用して世界を支配していった。


すなわち、始皇帝が作り上げた政治システムもまた、その後の中国史を運営していくモデルとなったのである。



確かに、始皇帝の歴史評判は悪い。
儒家にとっては、儒教をさほど重要視せず、その対極に位置する法治思想の体現者であった始皇帝は、確かに「暴君」だったに違いない。
趙高一派の暴政があったにせよ、被征服民である六国ではない法治思想の受益者だった咸陽の住民が、劉邦の簡素な法に喜んだという逸話からしても、民衆レベルではどれだけ自由な風土が求められていたか察せられる。
その上、儒教では周王朝を「理想の政治」とするが、始皇帝の郡県制はそれに真っ向から反するものであった。
さらに、始皇帝の師である韓非子は儒教に対する強烈な反対論者である。


のちに儒教徒が最大の学閥となった中国の歴史において、始皇帝を擁護する意見など、現れようがなかったのである。


また、始皇帝の統治システム・政策のほとんどが先進的過ぎたのも、ある意味「暴君」と要因であるだろう。
春秋戦国時代の秦以外の六国の一部でも、部分的に郡県制を実施してはいたが、それをいきなり「中国全土」に拡大させて施行させることは確かに大偉業ではある。
しかし、旧六国の大半の官僚や民衆は全く新しいシステムとして郡県制を迎えただろうし、春秋戦国時代の自由な気風よりは確かに厳しい秦の法制に少なからず不満を抱いたのは事実である。
だからこそ秦の後継である漢帝国は、前述の通り当初は、一元的な郡県制を敷かず、中央の郡県制と地方の封建制を合わせた「郡国制」を採った。これも事実である。
後の中華帝国の統治システムの基本になるとはいえ、春秋戦国時代を終えたばかりの当時にとってはまさに「革命」レベルの変革であり、あまりに先進的過ぎて時代が追いついていなかったのは確かで、その意味で当時の人々にとっては「暴君」と映っても無理はないといえる。



更に言えば、始皇帝死後、秦があっという間に瓦解したのも一因である。
国が滅亡した場合、後釜となった国家は「先代の国は不徳だったので滅亡し、有徳な我々が天下を取った」というストーリーで自国の正当性を強調する。
しかし、滅亡した国の初代を不徳な人物としてしまうと「なんでそんな奴が建国できたの?」という問題が出てきてしまう。
普通なら「初代は多少の問題はあっても名君だったので建国できた。しかし代を重ねて愚帝が立ったので滅びた」というストーリーが立つ。
だが、始皇帝亡き後の秦はあまりに短命であり、滅亡の責任がある者として宦官の趙高や傀儡の皇帝では説得力が弱すぎた。
結果、「始皇帝自身が最初は名君だったが天下統一後は不徳であった」というストーリーでつじつまが合わされたのである。


こうしたバイアスや当時の感覚を取り払えば、始皇帝の存在は、中国史において比肩しうるものがないほどに絶大な意義を残した存在であったことが見えてくるのである。




【余談】


【呂不韋の息子説】


冒頭で、始皇帝は人質時代の荘襄王(当時の名前は子楚)と趙氏の間に生まれたと書いた。
しかしその趙氏は、彼に嫁ぐ前は当時スポンサーだった呂不韋の愛人だった。


呂不韋というのは「奇貨置くべし」つまり「役に立たないように見えても、珍しい貨幣はなんでも手元に置いといたほうがいいんだよ!」という言葉で知られているが、その「奇貨」こそが当時の子楚だった。
そして彼は子楚のスポンサーとなり、即位させるために東奔西走し、ついに子楚=荘襄王即位を達成、その功績により宰相にまで上り詰めた。


さらに、元愛人だった趙妃も結婚してすぐに懐妊。王子政、後の始皇帝が生まれた……



……ん?



そう、「始皇帝の母親は、懐妊する直前まで呂不韋の愛人だった」のである。
このことから、
「ひょっとして趙妃って、嫁いだときには妊娠してたんじゃね……?」
「始皇帝って、本当に秦王室の子供なの?」
という噂が、当時から流れていた。


それこそ、司馬遷の史記にも記載されるほどである。


現在ではさまざまな観点から否定されてはいるものの、当時はそのような形でも成り上がりの呂不韋や厳格すぎる始皇帝への非難の声があったことは、想像に難くない。


なお、呂不韋は始皇帝が即位した後もしばらくは宰相を務め、権力を握り続けていた。
しかし、荘襄王が死んで焼け木杭に火が点いたのか、呂不韋は趙妃との不倫を再開。
さらに、バレそうになったので「代打」として嫪毐(ロウアイ)というニセ宦官を用意して後宮に送り込ませた。


ところが、その嫪毐が趙妃との間に子供を二人も作り、さらにその子を王にしようなどとあらぬ野心を起こして、始皇帝に対して謀反を起こしたからさあ大変。
当然のごとくに瞬殺され、嫪毐がニセ宦官と言うことも即バレした。


その嫪毐を推挙した呂不韋にも当然とばっちりが来てしまい*25、これまでの功績から死罪だけは免れたものの、宰相の座を追われ蟄居に追い込まれた。
とはいえ、家族や莫大な財産・土地邸宅はついていたので静かに暮らせば不便はなかったはずである。
現に、昭襄王の時代に権力を握りすぎて追放された穣侯魏冉*26や応侯范雎*27も、与えられた土地で天寿を全うすることが許されていた。


しかし呂不韋はなぜかその後も食客を養ったり外国の使者を招いたりして、反省の様子を見せず、
とうとう業を煮やした秦王政により蜀に流刑されてしまう*28


それでも別に死刑というわけでもなかったのだが、呂不韋はついに自殺してしまった。


呂不韋の噂を知ってはいたであろうが、始皇帝自身がそれについてどう思っていたかは定かではない*29
ただし、呂不韋は失脚させたが、母である趙妃に対してはさすがに幽閉はしたものの、それ以上の危害を加えることはしなかった。



【始皇帝時代の法律】


1975年、湖北省の墓から始皇帝時代の法律が書かれた竹簡が発見された*30
埋葬されていたのは、史記で始皇帝が「不直なるものを摘発した」と明記してある「治獄吏」で*31、その墓には一緒に副葬品として1150枚もの竹簡が納められていたのである。
地方役人への教本、もしくは個人的なメモのような物だったらしく*32、法をいかに執行するべきなのかといったことが事細かに書かれている。



秦時代の法律と言うと「なにからなにまで雁字搦め」という印象だが、実際に発見された竹簡の内容は

  • 官吏というものは、厳格であっても虐げず、角張っていても傷つけないものだ。同僚を出し抜こうと争うことなく、怒りに任せて事務を処理してはならない。
  • 十回聞くことは、一回見ることに匹敵する。安楽は戒めよ。安楽に耽って、後悔するようなことはするな。
  • 君子は病気にならない。なぜなら、君子は病を病として臨むからである(軽く見ない)。
  • 能力が同じでも、人は個人個人で違う。いたずらに嘆いたり、得意がったり、くよくよすることはない。

といった「役人の心構え」や、

  • 夫が銅銭一千を盗み、妻に三百銭を渡したとする。妻はどう処罰するのか? → 妻が盗品だと知っていた場合は妻が三百銭盗んだものとして処罰するが、知らなかった場合は無罪にする。*33
  • 刃物で人が傷つけられた場合は? → お互い刃物を持っての喧嘩だったなら、罰金刑。一方的な傷害だった場合は、入れ墨のうえ労役刑。
  • 罰金刑の者、罪を償うべき者、公の負債ある者は、期日中に支払うべし。支払い能力がない場合は労役で代償とする。一日の労役で八銭相当、ただし官費で食事が出た場合は六銭として計算する。*34

という刑罰規定、

  • 取り調べは口述を必ず文章に記録し、それをもとに尋問すること。拷問によらず真実を得るのが優れた方法である。
  • 報告するときは必ず文章ですること。口頭や代理人の報告は、絶対に受け付けない。

という公文書取り扱いの規定、

  • 身長を基準として、一定以下の身長のものには刑を科さない、もしくは減刑する。

という法的責任能力や少年法に近い規定。


などといったことが記されていた。
確かに細々と書かれているが、決して人々を雁字搦めにして自由を剥奪するようなものではなかった。
ぶっちゃけ、現代日本の役所の方がよほど規則や運用でがんじがらめと言えるかもしれない*35
また、下手に役人に裁量権を与えれば、賄賂が横行したり、不正があっても裁量のせいで見抜けなかったりする。
人々も役人がどんな裁量をするのか予想がつかなくなり、それに対応するコストや手間がかかってしまう。


少なくとも現代的な視点では始皇帝が圧制を敷いていたと言う証拠はないのである。
後述するように当時の自由な風土からすれば確かに不自由を感じただろうが、現代日本で不自由な圧制と感じるほど規則が多いと感じる市民はそこまで多くはなかろう。
規則がないばかりに役人もどう裁量していいか分からず右往左往する事態も避けられるのである。



【春秋戦国時代のフリーダムさ】


始皇帝が統一する以前の春秋戦国時代は、いい意味でも悪い意味でも自由だった。
有能な人間であれば、一足飛びに抜擢されて国政を担うこともできたし、農民は圧制を敷かれると、よりよい土地にさっさと逃げ出した。


「戦国四君」といわれたような有力者のもとには「三千人」といわれる食客が集まり、彼らのもとでそれぞれの人間は己の才能を存分に活かすことができた。


春秋戦国時代五百年を通じて、諸子百家と呼ばれる大量の思想家が踵を接して現れたのは、この自由な風潮が大いに影響している。
まさに「百家争鳴」。
中国の思想史上、最も栄えていた時代でもあった。



奴隷などの社会的な弱者でさえ、才覚さえあればある程度以上の自由を利かせることができた。


こんな話もある。
あるとき宴会があり、大臣が酔ってふらふら宮殿の外に出た。
そこに刑罰で足の筋を切られた門番(実質奴隷)がいて「お大臣さま、お酒の少しでもお恵みいただけませんか?」とねだった。
ところが大臣は「だれがやるかバーカ!身の程わきまえやがれクズ!( ゚д゚)、ペッ」と拒絶して立ち去った。


立ち去った後、無表情になった門番は宮殿の壁に近づくと、水を垂らしていかにも小便をしたような跡を残した。
翌日、日が昇ると当然バレる。


役人「ここで小便なんかしたのはだれだ! 宮殿に放尿は死罪だぞ!」
門番「はあ、しっかりと確認してはおりませんが、昨日大臣さまがその辺に立っておいででした」


ウソは言ってない、何一つウソは言っていない。
門番がその場所の担当であるのも、確かなことである。
結局、状況証拠で大臣は処刑。
足の筋を切られた奴隷同然の門番が、自分を馬鹿にした大臣を返り討ちにしたのである。



しかし、同時に春秋戦国時代とは汚職と悪事と詐術の全盛期でもあった。


有名なエピソードとして、孔子が逃亡兵を逃がした話がある。
孔子はその当時、魯国で大臣であった。
あるとき、一人の若い兵士が処刑されそうになっているのを孔子は見た。
その兵士は敵前逃亡を三回繰り返し、ついに軍法会議で処刑されることに決まったのである。
ところが、孔子は興味を持ってなぜその若い兵士に逃亡したのかを聞いた。


孔子「おい。そちはなんで三回も逃げたのじゃ?」
兵士「聞いてください先生! 私は独りっ子で、まだ子供もいないんです。私が死んだら老父を養う人もいなくなるし、私の家は絶えてしまうんです!」
孔子「おおっ、これは人倫の大義、儒教が最も尊ぶところじゃ!」


と、自分の立てた倫理を体現していたこの若者に、孔子は大興奮。
そして、八方に手を回してついにこの若者を無罪放免し、故郷に帰らせたと言う。


孔子「親孝行をして、家を栄えさせるのじゃよ」
若者「はいっ、孔子先生!」


後日、魯侯はこのいきさつを聞いて「さすがは孔子先生、国のしがらみよりも、人間として大事なことを取ったのですね!」と、孔子を誉めたたえてよりいっそう尊敬した……という。


………………お分かりいただけただろうか。


なるほど確かにそれは「人倫の大義」だったかも知れないし、その若者には邪気はなく、事情もあったかも知れない。
しかし、

  • 兵士の犯した逃亡罪を裁かなかった
  • 法律を犯した
  • そもそも部署も違うところに容喙した
  • 兵士に「逃げていい理屈」を与えた
  • 君主がそれらを公認した

と、よく考えてみると矛盾ばかり、禁じなければいけないことばかりである。


そして現に、この一件のあと魯国の軍隊では同じことを言って敵前逃亡する兵士が後を絶たなくなる。
その魯国の隣の斉国は昔から対立関係にあったが、そちらからは「粋なまねをするじゃないか。だから魯国は戦う度に負けるんだ」と嘲笑されている。


まとめると「人民が罪を犯し、それを大臣が弁護して自分の思想を宣伝し、君主がそれを認めて賞賛する」という、下から上までこぞって秩序をないがしろにしていたのが、春秋戦国時代の一面であった。



実はこうした事例は孔子だけに限らない。始皇帝が学んだ「韓非子」には、そうした逸話が数え切れないほど収録されている。


当然、それが単に法を乱すだけで終わるはずがない。悪事は君主や上司への反逆、端的に言うと殺しにまで発展するからだ。


だから、
「大臣は才能を振るいたいから君主から権力を奪う」
「妻は自分の息子を君主にしたいから夫を殺す」
かくして「君主となった者のうち、病気で死ねるのは半分以下。ほとんどは他殺!」という統計が出て、
故に「癩病患者でさえ、我ら以上に救いのない病人として、王を哀れな存在と思っている」
という事態になっていた。




「麻のように乱れていた」というのは、ある意味ではウソで、ある意味では真実であった。
暗黒時代ではなかった。上から下まで自由で開放的な時代だった。
しかし、同時に秩序は定まらず、悪事と詐術が好き放題横行していた時代でもあった。


始皇帝は、そんな春秋戦国時代を終わらせた。
自由さ開放性を終わらせるとともに、横行する悪事詐術にもまた、終止符を打ったのである。




【創作における始皇帝】


やはり始皇帝のイメージは悪いので、ほとんどでは権勢欲と不老不死に溺れる哀れな暗君扱いである。


しかしごく一部の作品で、開明的な君主として描かれる場合もある。


  • 小説『始皇帝 中華帝国の開祖』

漫画『封神演義』の事実上のベースとなる編訳を書いた安能務が1995年に出版(文庫版は1998年)した、
始皇帝 中華帝国の開祖』は、「不名誉な『暴君』の汚名を着せられた」「中国史上、最も偉大な皇帝である」として、始皇帝を絶賛している。
また本書には同氏の手による姉妹編『韓非子』があり、始皇帝の思想を理解するには面白い資料である。
同氏による『春秋戦国志』は前日譚、『中華帝国志』は後日譚としての趣がある。
ただし『始皇帝』はともかく『韓非子』は 無 茶 苦 茶 難 し い ので、少なくとも同氏の『春秋戦国志』を読んでおかないと「?????」となりかねない。つか、なる。
また、安能氏の作品群自体もとても万人向けとは言えないものであることを断っておく。


  • 映画『始皇帝暗殺』

1998年公開の映画。
冷徹な行為に手を染めながらも情を捨てきれない人間臭い野心家として始皇帝を描き話題となった。


  • 映画『HERO』

2003年公開の映画。
始皇帝を非常に聡明かつ器の大きい絶対的なカリスマでありながら、部下にも理解者がおらず思わぬ理解者の登場に涙する孤独な君主として魅力的に描いている。


2006年から登場し、現在も連載中。
本作では若き日の始皇帝=秦王嬴政がもう一人の主人公として描かれている。
天下統一前後の描写が気になるところである。
こちらの詳細は当該項目を参照。


  • スマホゲーム『萌王EX』

古今東西のあらゆる「王者」を女体化するという中国スマホゲーにも当然のように登場。
キャラクター名は「秦始皇」として登場しており、二つ名は「帝業祖竜」
金色の龍が刺繍された黒に近い紫の服と、服と同じく艶めく黒紫の長髪が特徴で、
頭には冕冠を戴き、左胸には金色の玉環を、右手に鋭い宝剣を持つ。
鬼灯のように紅い釣り目と不敵にほほ笑む唇は己への自信と覇気に満ち満ちている


何よりも目を引くのがやたら丈の短い服から顔を出す鎖骨と胸、そして飛び出す太もも!!


秦の始皇帝としての圧倒的な完成度を誇るキャラクターデザインである。仕えざるを得ない。


公式サイトではMMDモデルも紹介されている。つべとかにもちょくちょく出てるよ


第二部三章の大ボスなのだが、同作に登場する始皇帝は「不老不死に至ったIFの歴史」の出身。
戦国七雄どころか、地球統一を達成した不老不死の為政者というとんでもない存在と化していた。
詳細は始皇帝(Fate)を参照。


Civilization ⅣCivilization Ⅵで中国の指導者として登場。
「遺産」という特殊建築物の建設を早める指導者特性&ひたすら遺産(と固有建築物「万里の長城」)を建てたがるAI思考が合わさった通称「遺産厨」。
高難易度ともなればAI補正も相俟って爆速で遺産を乱立する一方で始皇帝を戦争でぶん殴って建てた遺産を丸ごと頂くことも可能なので攻める相手としては美味しかったりもする。
Civ6はDLCで別バージョン指導者の始皇帝(統一者)が登場。遺産に関する性能は無くなり代わりにユニットを消費して周囲の蛮族を自文明に恭順させるという特性を持つ。
6の蛮族はやたら強いので寝返らせるメリットが大きく、更に寝返らせた蛮族を消費して別の蛮族をまとめて寝返らせれることも可能なので上手くいけばわらしべ的に軍事力が上がるユニークな指導者となっている。


  • 死皇帝

一部作品では「皇帝」という名前に改変されて彼やその陵墓をモチーフとしたものが登場することも。
特にこちらは暗君としてのイメージに基づいたキャラクターである。



道教界隈では比較的早いうちから神に祀られている。
南北朝時代には神々の位階が細かく記された書物があり、第七階位・北陰大帝の配下に所属し、仙官を束ねるナンバーツーの座にある。
なお、始皇帝に続く幹部には曹操・周の文王・司馬懿劉邦・公孫度・郭嘉劉封といった有名どころもいる。






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*1 歴史に「尉繚子」は二人いる。一人はこの百年近く前に魏国に仕えた「初代」尉繚子。兵法書「尉繚子」は彼を扱ったものである。始皇帝に仕えた「二代目」はその子孫と思われる
*2 韓非は韓の公子であった
*3 しかし韓非は、かつて同門で嫉妬していた李斯の工作により投獄、自殺してしまう
*4 かつて周の時代には「王」は天下に唯一人の称号であったが、春秋戦国時代には諸国が独立し「王」と名乗っていた。統一を成し遂げたからには「王」に代わる尊称が求められたのだ
*5 実際に子嬰が殺されるのは陳勝の反乱の更に後だが、陳勝軍に函谷関を破られ大きく侵入されたのは事実である
*6 簡単に言うと「世界と万物の根本法則」
*7 三国時代末期の蜀漢の腐敗ぶりを示す話として、諸葛瞻ら高級閣僚が「互いの罪をかばいあった」というものもある。また、諸葛瞻ら朝臣が黄皓ら宦官となれ合った結果が末期の蜀漢である。北伐厨と化していたとはいえ姜維は首都の成都では身の危険を感じるほどであった
*8 始皇帝の行列を見て有名な一言を言った時
*9 ちなみに、上述した「始皇帝と天秤」を述べたのはこの時である。つまり「逃げるときの捨て台詞」だったのだ。端折ってしまえば「あの仕事バカめ!」くらいのノリだろうか。
*10 不老不死の方法を見つけたと言う奴らは古今東西たくさんいるが、そのどいつも死んでしまった。自分の体がいちばん大事なはずなのに自分自身を不老不死に出来ない奴らに、他人を不老不死にすることなどできるはずがない。という話
*11 李信の失敗後に王剪が3倍の兵力で楚を潰している。
*12 それが発生したのが呉楚七国の乱
*13 権力を悪用した人間のこと
*14 隋の煬帝がそうであった、と伝わる。唐のプロパガンダの可能性が高いが
*15 唐の李世民は兄と弟に命を狙われ、先手を討って殺し、父を半ば脅迫して即位した。
*16 清の雍正帝は自らも即位に苦労したことを鑑みて、あえて太子を立てず、後継者の名前を書いた勅書を玉座の後ろの扁額に隠し、崩御後に一定人数が立ち会った上で開くという「太子密建」方法を考案した。その目的は太子の地位をめぐる派閥の形成とそれによる党派争い、おべっか使いが集まることでの公子の堕落、などを予防することにあった
*17 春秋戦国の例では、自軍が壊滅した斉の湣王が、援軍に来た楚将・淖歯に惨殺されている。また時代は下るが、隋文帝と宋太祖は凱旋とともに主君を駆逐して即位した皇帝である
*18 実は趙高には娘婿がいるので、初めから宦官だったわけではない。去勢されたのはこの時だろうか
*19 趙高の出生には「趙の王族として生まれたが、母親の罪に連座して宦官にされた」というものがあるが、上記の通り娘がいるのであり得ない話である。「趙国を滅ぼした祟りで秦が滅んだ」とでも言いたげな文脈といい、「始皇帝のせいで生き延びた」と言いたげな文脈といい、趙高と始皇帝をことさら因縁付けようとした後世の史家の意図も感じられる。実際には普通に法を犯して宮刑となり、その後普通に昇進しただけかもしれない。
*20 かつて王綰とともに始皇帝に封建制に戻すよう訴えた高官の一人
*21 「韓非子」には老子の思想を解説した章があり、他の部分にも老子の思想を組み込んでいる
*22 難勢・第四十
*23 長さ・大きさ・重さの単位
*24 現在有名な「宇宙からも見える」石造りの長城は、実は明代に作られたもの。始皇帝時代の長城は土の山のようなものであった。
*25 当時秦国では、推挙された人間が罪を犯した場合、推挙人も連座することとなっていた。
*26 「秦に穣侯と太后はいても王がいるとは知らなかった」と言われたほどの権力者。追放されたとき財産を積んだ馬車が千乗も続いたという
*27 穣侯魏冉や秦国最強の将軍・白起をも粛清した辣腕宰相
*28 当時の蜀は、開発された劉備の頃と違って本当の本当に辺境であった。罪人の流刑地に使われていたところだし…
*29 彼の失脚はあくまでも法に則った罰である。
*30 発見された地名から「睡虎地秦簡」と呼ばれる
*31 秦の南郡に属する県の官吏を務めていた喜という人物
*32 秦の大きな出来事や喜の個人的な出来事を書いたものもある
*33 これは故意犯処罰の原則として現代日本の法思想(刑法38条1項)においてもそのまま用いられている考え方である。
*34 現代日本においても、罰金が払えない者は労役で代償とされる。
*35 法学が時代とともに進歩しているので単純に比較することは出来ないが

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