三遊亭圓楽 (6代目)
6代目 三遊亭 圓楽(ろくだいめ さんゆうてい えんらく、1950年2月8日 - )は、日本の落語家、俳優。
五代目圓楽一門会所属で、幹事長を務める(マネジメントはオフィスまめかな)。また、2017年6月27日から、客員として落語芸術協会に加入しており、2つの噺家団体で活動している。
2010年3月1日、初名の三遊亭 楽太郎(さんゆうてい らくたろう)から師の名跡である6代目三遊亭圓楽を襲名した。出囃子は師の5代目三遊亭圓楽と同様『元禄花見踊』。
本名は會 泰通(あい やすみち)。東京都墨田区出身。墨田区立両国中学校、東京都立深川高等学校、青山学院大学法学部卒業。
長男は落語家・声優の会一太郎(落語家としての名称は三遊亭 一太郎)。
エピソード
よく、政治・社会風刺ネタを用いる。
父は警視庁の警察官で、反抗心からか学生時代にはブントに所属し学生運動にも参加していたが、「ユートピアを追うことに疲れ、そのときに落語を聞き返したところ、その中にユートピアがあることを発見し、落語に生きることにした」と語っている。
高校生の頃、青山学院大学の入試に軽い気持ちで受けたら合格できたという。
楽太郎の名は、大師匠である6代目圓生が付けたものであり、真打昇進の際にも改名を拒んだ。
20歳で圓楽に弟子入りし、概ね5年ごとに節目を迎えてきたため、いつしか「5年計画」で物事を進めるようになった。そのため、圓楽襲名の話が師匠からあった際も、すぐにというわけではなく、その5年ごとの節目にもあたる60歳にという意向で、6代目襲名の話を進めることになったと語っている。
若手時代、瀬古利彦に顔が似ているとされており、テレビで瀬古の物真似をすることが多かった。瀬古が所属していた「S&B」の文字が入ったランニングシャツを着て「これは『三遊亭楽太郎は、僕です』の略字」と説明するなどのギャグを披露していたが、35歳を迎える1985年正月より「落語で勝負したい」として、瀬古の物真似を封印した。数年後、瀬古の方から「楽太郎に似ている」ことを話のネタにするという逆転現象となった。現在も交流があり、2010年3月の6代目圓楽襲名披露パーティーにサプライズゲストとして瀬古が出演した。
2015年1月1日に放送された『笑点』正月特番では、女子アナとの大喜利コラボ企画で「青山頑張れ!」と母校の青山学院大学陸上部を応援し、翌日開催された箱根駅伝において、青学陸上部は完全優勝を果たした。これに2区を走った一色恭志選手が、感謝のツイートを上げている。
最初の弟子は、後に放送作家に転身した石田章洋(門下当時は花楽京)で、二番目はタレントに転身した伊集院光(門下当時は楽大)である。
天龍源一郎は中学時代の同級生であり、プロレスファンとして知られる。また、ウルティモ・ドラゴンが立ち上げた「闘龍門」の理事長を務めたこともあった[要出典]。
かつて「おはよう!ゲートボール」で審判員として出演した経験から、ゲートボール審判員の資格を持っている。
先代圓楽と三遊亭圓丈とは、落語協会脱退後に袂を分かつ状態となったため特段の交流は無かったが、2013年の圓丈の著書「落語家の通信簿」について、圓楽が誤認を指摘して増刷時に修正されたのを機に意気投合し、2014年に圓丈・圓窓の一門弟子と共に圓生一門の合同落語会「三遊ゆきどけの会」が開催されることとなった。2016年からは「三遊落語祭」と名前を変え、以降も年1回ペースで開催している。
5代目が創設した五代目圓楽一門会と、桂歌丸が会長を務めた落語芸術協会(客員)との二重所属である。更に、入門当時は落語協会に在籍しており、圓楽一門会独り立ち後の1990年頃、落語立川流に非落語家の著名人枠である立川流Bコースに所属していたことがある。あくまで圓楽一門会所属の落語家である故に、プロ落語家として落語家団体の二重加盟を避けたためであると思われるが、立川談志との交流関係を伺わせるエピソードであり、6代目襲名披露にも病をおして談志が出演している。主要噺家4団体全てに、何かしらの形で在籍歴がある数少ない噺家の1人となっている。
元衆議院議員の東祥三とは長い付き合いがあり応援をしている。
5代目が生前、曹洞宗釈迦尊寺(群馬県前橋市)の住職との親交があったため、その関係から6代目も前名の楽太郎時代から釈迦尊寺との繋がりがある。自身は「俺は次男なので実家の墓に入れないから」と、釈迦尊寺に生前墓(寿陵)を建立している。2016年3月には釈迦尊寺にて得度(出家)式を行い、『楽峰圓生』(らくほうえんしょう)の僧名を賜った。
上記の釈迦尊寺との関係もあり、前橋市出身の立川談之助(立川談志一門)、弟弟子でもある三遊亭竜楽と共に、「まえばし観光大使」を委嘱されている。
1985年8月12日、笑点の企画で5代目圓楽、桂歌丸、初代林家木久蔵(現・林家木久扇)、三遊亭小遊三、林家こん平、古今亭朝次(現・7代目桂才賀)、山田隆夫と、翌日の阿波踊りに参加するべく徳島入りする予定だったが、予約した徳島行きの航空機が大幅に遅延し、徳島空港が悪天候のため、予約便は条件付き運行となった。そこで1つ後の日本航空123便に搭乗して、神戸から船で移動する案が浮上したが、こん平が「いいじゃないかい、決まった便でゆったり行こうよ、きっと徳島空港に着陸できるよ」と提案したため、元の徳島便に搭乗し、日本航空123便墜落事故から逃れることができた。徳島空港到着後、宿泊先のホテルへタクシーで移動中に、墜落事故を知ったという 。
同期入門の噺家として春風亭小朝、立川ぜん馬らがいる。
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