円地文子
円地 文子(えんち ふみこ、1905年10月2日 - 1986年11月14日)は、著名な日本の作家で、本名は圓地 富美(えんち ふみ)。上田万年の次女として生まれ、初めは戯曲を手掛けていたが、後に小説家として『ひもじい月日』で名を馳せる。彼女の作品は、江戸時代末の耽美的な文学の影響を受け、女性の感情や欲望を繊細に描写し、古典的な美しさを持つものとして知られる。戦後の女性作家としての彼女の地位は非常に高く、『源氏物語』の現代語訳も手掛けた。彼女は芸術院の会員としても活動し、文化功労者や文化勲章を受章した。
来歴・人物
1905年10月2日、東京府東京市浅草区向柳原(現・台東区浅草橋)に、父上田万年、母鶴子の二女として生まれる。本名富美。家族は他に、父方の祖母いね、兄寿、姉千代がおり、さらに女中、書生、兄の乳母、抱え車夫の夫婦などがいた。父万年は東京帝国大学文科大学国語学教授で、後に現代国語学の基礎の確立者と称される人物である。父母共に、歌舞伎や浄瑠璃を好み、幼少期から影響を受けて育った。それらは、江戸時代の頽廃芸術の流れを汲んだもので、「そこに育てられてきたものには性の倒錯も含まれていたと思われる」と後に円地は回想している。麹町区に転居後、祖母いねから様々な古典や浄瑠璃、歌舞伎の台詞を聞かされ、江戸下町の怪談や草双紙類に魅せられた。
東京高等師範学校付属小学校に入学し、男女共学のクラスで学ぶも、身体が弱く多くの日を欠席。5、6年生の頃には古典や谷崎潤一郎の小説を読み、歌舞伎に親しむ。日本女子大学付属高等女学校に進学するも、校風に馴染めず退学。その後、英語やフランス語、漢文を様々な教授から学び続けた。
慶応義塾ホールで小山内薫の公演に感銘を受け、戯曲を志すようになる。演劇雑誌『歌舞伎』の脚本募集に「ふるさと」が当選し、小山内の演劇講座の聴講生となる。長谷川時雨主宰の『女人芸術』発刊披露の会で林芙美子や平林たい子らと知り合い、文壇に進出。その後も、多くの雑誌に戯曲を発表し続けた。
1930年3月27日、東京日日新聞の記者円地与四松と結婚。鎌倉材木座、小石川区を経て、中野区江古田に居を構えた。この間、長女素子を出産する。1935年4月、寺田寅彦の紹介で処女戯曲集『惜春』が岩波書店より刊行され、小宮豊隆からは好意的な評価を得た。同月、片岡鉄兵、荒木巍の紹介で、『日暦』同人となり、高見順や大谷藤子らを知った。以後小説への意欲が強まり、翌年には初めての小説となる短篇「社会記事」を同誌に発表。『日暦』同人が『人民文庫』に合流すると、同誌の同人となり、多くの雑誌に小説・評論を書き続けた。しかし、この間小説家としての道は平坦ではなく、不遇時代が続いた。1937年、支那事変が勃発。夫与四松は新聞社を退職し、同年には、父万年が病死。翌年、円地は病気のために東大病院に入院、手術を受けた。この時期、円地は、多くの女流作家と同様に、少女小説や古典随筆を書いて生計を立てた。
1941年1月、海軍文芸慰問団の一員として長谷川時雨、尾崎一雄らとともに広州方面から海南島を訪れ、約1か月の旅行を行った。1943年10月、日本文学報国会の一員として朝鮮総督府に招聘され、深田久弥らと北朝鮮を旅行した。1945年5月、中野の家が空襲により焼失し、家財や蔵書を失った。7月には軽井沢の別荘に疎開し、そこで終戦を迎えた。翌年、上京して母が住む谷中清水町に戻った。戦後の生活は困難であり、文壇に復帰しようとしたが、11月に子宮癌のため東大病院に入院し、手術を受けた。手術は成功したが、その後の合併症で健康状態が悪化し、長期の療養が必要となった。
戦後の出版ブームの中、円地には戦前の著作の再版の提案がたびたび持ちかけられていた。彼女はほとんどの提案を断っていたが、戦時中に刊行した少女小説『朝の花々』の再版には同意した。これを機に、経済的な理由から盛んだった少女小説の執筆を依頼され、短期間で10冊以上の作品を書き上げた。しかし、その結果、彼女は少女小説家としてのレッテルを貼られ、文芸誌への掲載が難しくなった時期もあった。それでも彼女は執筆を続け、やがて『小説新潮』に作品が掲載されるようになった。特に『女坂』は、彼女の代表作として高く評価されている。
円地はその後も多くの作品を発表し、文壇での地位を確立していった。彼女の作品は、古典や歴史を背景に、女性の心情や社会の変遷を繊細に描写しており、多くの読者から支持を受けている。『女坂』は、彼女の祖母の半生をモデルにした作品で、封建制度下での女性の抑圧された生活や愛を描いている。この作品は、発表当初はあまり注目されなかったが、後に高い評価を受け、ベストセラーとなった。また、この作品は英訳され、多くの大学の日本文学のカリキュラムで取り上げられている。
戦後の出版ブームの中、円地は新聞や週刊誌での連載小説を手掛け、多くの人気を集めた。特に『秋のめざめ』や『私も燃えてゐる』などの作品は読者からの支持を受けた。しかし、戯曲の執筆は戦後ほとんど行わなくなったが、他人の作品の脚色には手を出し、特に菊五郎劇団との仕事が多かった。
1957年には、アジア文化財団の招きでヨーロッパを旅行。その後も何度かヨーロッパやハワイへの旅行を楽しんだ。また、女流文学者会の会長としても活動し、長年その役職を務めた。
円地は古典文学にも造詣が深く、特に『源氏物語』の現代語訳を手掛けるなど、その知識と愛情を作品に反映させていた。彼女の訳した『源氏物語』は高く評価され、その後も古典をテーマにしたエッセイを多数発表した。
彼女の作品は、年齢を重ねるごとにさらに深みを増しており、60代、70代でも多くの小説を発表。その中でも『朱を奪うもの』や『遊魂』などの作品は、文学賞を受賞するなど高い評価を受けた。また、連合赤軍事件を背景にした『食卓のない家』は、社会的な問題を取り上げた作品として注目を浴び、映画化もされた。彼女の最後の長編『菊慈童』も多くの読者に読まれ、彼女の作家としての活動は最後まで続いた。
1970年、円地文子は日本芸術院会員に選ばれ、1977年には彼女の全集が新潮社から刊行された。彼女の作品は、多くの文学全集に収録され、その影響力を示していた。さらに、多くの文学賞の選考委員を務め、文学界での彼女の地位は非常に高かった。1979年には文化功労者に選出され、1985年には文化勲章を受章し、女流文学の第一人者としての地位を確立した。
しかし、彼女の健康は常に不安定で、晩年はさまざまな病気に苦しんだ。1976年には心臓の不調で入院し、女流文学者会会長を辞任。1969年には右目の手術を受け、1985年には左眼の手術を受けた。その後、脳梗塞で右手足が不自由となり、再入院した。翌年、家族を悲しませる形で亡くなり、その後、青山斎場で葬儀が行われた。彼女の死は、文学界に大きな悲しみをもたらした。
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