ジャニー喜多川
ジャニー 喜多川(ジャニー きたがわ、Johnny Kitagawa)は、日本の実業家、芸能プロモーター、音楽プロデューサーで、ジャニーズ事務所の創業者として知られる。
彼は自らが設立したジャニーズ事務所の代表取締役社長として、男性アイドルのプロモーションにおいて多大な成功を収めた。しかし、所属していた多くの未成年の男性アイドルに対する性的虐待の疑惑も浮上している。
彼の日本名は喜多川 擴(きたがわ ひろむ)。英語名としてはジョン・ヒロム・キタガワ (John Hiromu Kitagawa) という名前を持っていた。「ジャニー」という名前は彼の本名ではなく、ショービジネスの中で知り合ったアメリカ人からの愛称とされ、彼自身もこの愛称を名乗っていた。
生涯
出生
アメリカ合衆国での生活経験があるものの、主に日本で育った。父の喜多川諦道は仏教の高野山真言宗米国別院の僧侶であり、一時期プロ野球チーム「ゴールドスター」のマネージャーを務めていた。ジャニーは家族の中で次男であり、日本と米国の二重国籍を持っていた。彼には姉のメリー喜多川と、アポロ計画に関わった科学者として知られる兄がいたが、兄は50代半ばで亡くなっている。
喜多川家は大阪で生活していたが、母が亡くなった後、太平洋戦争が始まると、子供たちは和歌山県に疎開した。戦後、ジャニーはロサンゼルスに移住し、現地の高校に入学。その後、ロサンゼルスのカレッジに進学した。
美空ひばりのアメリカ公演時、ジャニーの父が会場を提供したことから、ジャニーはステージマネージメントを担当した。その後、アメリカ軍に徴兵され、朝鮮戦争に参加。兵役を終えた後、日本に戻り、米国大使館での勤務を経て、少年野球チーム「ジャニーズ」を結成。このチームから後にジャニーズ事務所の第1号グループが誕生した。
ジャニーズ事務所の設立
1960年代初め、喜多川は東京都渋谷区・代々木の在日米軍宿舎「ワシントンハイツ」で、近所の少年たちを集めた少年野球チームのコーチをしていた。このチームは「オール・ヘターズ」「オール・エラーズ」を経て「ジャニーズ少年野球団」と名付けられた。
ある雨の日、練習ができなくなったため、チームの中から4人の少年を映画館に連れて行った。彼らはミュージカル映画『ウェストサイド物語』を鑑賞し、その影響を受けてエンターテインメントの世界に足を踏み入れることを決意。1962年に、この4人の少年を中心に「ジャニーズ」というグループを結成した。
当初、彼らは「新芸能学院」という芸能プロダクションに所属していたが、1962年に喜多川はジャニーズ事務所を設立。初めは渡辺プロダクションと提携していたが、1965年に独立して正式な事務所を開設した。
しかし、1964年には「新芸能学院」との間で、授業料の問題や喜多川の不適切な行為に関する裁判が起きた。当時、同性愛に対する偏見が強かったため、この問題は大きく取り上げられることはなかった。
男性アイドル事務所の成功
1960年代から1970年代まで
ジャニーズ事務所の起源は、1967年にデビューした「フォーリーブス」と、1971年にデビューした「郷ひろみ」に遡ることができる。
郷ひろみは1973年に「新御三家」として称されるほどの人気を集め、トップアイドルとしての地位を確立した。しかし、1975年にジャニー喜多川の過度な寵愛に抵抗感を持ち、ジャニーズ事務所を離れてバーニングプロダクションに移籍した。一方、フォーリーブスは1978年に活動を終了した。
1980年代
ジャニー喜多川と渡辺プロダクションの渡辺晋は、同世代でありながら、ジャニー喜多川の芸能活動の開始は渡辺晋よりも遅かった。しかし、時が経つにつれ、ジャニー喜多川は大手プロダクションを超える存在となった。
彼は初期に「たのきんトリオ」、「シブがき隊」、「少年隊」といった3人組のアイドルグループを成功させた。これらのグループは一時的な人気を享受した後、メンバーはそれぞれの道へと進んでいった。
1987年、ジャニー喜多川は7人組の「光GENJI」をデビューさせた。彼らはローラースケートを履いてのダンスやアクロバティックなパフォーマンスで、新しいタイプのアイドルとして大きな注目を浴びた。しかし、彼らの急激な成功は、他のスキルを磨く時間を持たなかったり、メンバー間の人間関係に問題が生じるなどの課題を生んだ。結果として、グループは8年で活動を終了した。
さらに、1988年には、元「フォーリーブス」のメンバー、北公次が『光GENJIへ』という本を出版し、ジャニー喜多川の問題点を暴露した。
1990年代
1991年、ジャニーズ事務所はSMAPをデビューさせた。当初、SMAPは光GENJIのような歌中心のアイドルグループを目指していたが、光GENJIの人気がまだ続いていたため、初めは人気を得るのに苦労した。しかし、バラエティー番組での活動を増やし、その中でのメンバー同士の掛け合いを強化することで、持続的な人気を築いた。
その後も、バンド形式のTOKIO、多様なメンバー構成のV6、関西出身のデュオKinKi Kids、そして王道アイドルを目指す嵐など、多くのグループをデビューさせ、それぞれがバラエティー番組でも活躍するスタイルで成功を収めた。
しかし、1999年に『週刊文春』は、ジャニー喜多川が未成年のスカウトされた少年たちに対して不適切な行為を行っていたとの特集記事を掲載した。
2000年代
2000年代、ジャニーズ事務所はKinKi Kidsの後を継ぐタッキー&翼、V6や嵐の後を継ぐNEWS、関西のメンバーだけで組まれた関ジャニ∞、ワイルドなイメージのKAT-TUN、そして全員が平成生まれのHey! Say! JUMPといった多様なグループをデビューさせた。
一方で、ジャニー喜多川とジャニーズ事務所は、週刊文春の記事に対して名誉毀損であるとして訴訟を起こした。この訴訟は、東京高裁がジャニー喜多川の不適切な行為を認定し、週刊文春の記事の内容を支持する形で終わった。この判決は2004年に最高裁で確定した。しかしながら、日本の主要メディアはこの判決に対してほとんど報道しなかった。その結果、ジャニー喜多川は引き続きジャニーズ事務所のトップとして、多くの人々から尊敬される存在として活動を続けた。
2010年代
2010年代、ジャニーズ事務所は多様な新しいグループをデビューさせた。少年隊を彷彿とさせる3人組のNYC、ローラースケートを特徴としたKis-My-Ft2、セクシーなイメージのSexy Zone、DVDデビューを果たしたA.B.C-Z、関西出身のメンバーだけで構成されたジャニーズWEST、そしてファンタジーをテーマにしたKing & Princeなど、伝統的な要素を取り入れつつも新しいスタイルを追求してきた。
また、2011年には喜多川の自宅マンションに不審な男が侵入する事件が発生した。喜多川はマンションの最上階に住んでいたが、この事件での怪我や物の損害は報告されていない。
死去
2019年、ジャニー喜多川は自宅で体調不良を訴え、救急搬送された。この情報はTwitter上で拡散され、多くのメディアが報じた。後に、あるまとめサイトが彼の死去を伝えたが、情報の真偽は不明確であった。しかし、7月1日にジャニーズ事務所は公式に喜多川がクモ膜下出血で入院していることを発表。そして、7月9日に彼は東京都渋谷区の病院で亡くなった。
7月12日には、ジャニーズ事務所の稽古場で家族葬が行われ、多くの事務所タレントが参列した。9月4日には東京ドームでお別れの会が開催され、多くの芸能関係者やファンが参列した。安倍晋三首相をはじめとする多くの著名人から弔電が寄せられた。
墓所
ジャニー喜多川の墓は、和歌山県の高野山にあります。彼の父、諦道は真言宗の僧侶で、アメリカのロサンゼルスにある高野山真言宗米国別院での主務も務めていたことから、高野山とジャニーとの間には深い繋がりがありました。ジャニーの墓石は国産の高級な石を使用しているものの、シンプルなデザインとなっており、彼の控えめな性格を反映しています。当初、納骨が完了していなかったため、墓は一時的にシートで覆われていましたが、後に姉の藤島メリー泰子ら親族とともに、静かに納骨が行われました。墓誌にはジャニーの戒名が刻まれており、それは「国の宝」や「道を極めた人」を意味するものだと、高野山の関係者は語っています。
人物
ジャニー喜多川の座右の銘は「Show must go on」、つまり「ショーは何があっても続けなければならない」という意味です。
彼は芸能界での裏方を主に務め、自身の顔を公に出すことを避けていました。そのため、彼の公に知られる顔写真は非常に少ない。多くの企業や有名人の写真は一般に公開されていますが、ジャニーズ事務所はメディアに対して強い影響力を持っており、彼の写真の使用を避ける傾向があると言われています。BBCのジャーナリストは、彼が自分のイメージをコントロールする力を持っていたことを指摘しています。
ジャニーズ事務所では、身長が170センチメートル以下の者を採用することを優先していたと言われています。
喜多川は過去に朝鮮戦争に参加した経験があり、その体験を舞台で表現したこともあります。また、彼は1985年に大阪で開催された舞台「森の石松」の初日に出席するため、日本航空123便の墜落事故を回避することができました。
2012年には、ジャニーズ事務所が中国進出を計画していたことが報じられましたが、最終的には実現しなかったとされています。
ジャニー語録
ジャニー喜多川は多くの言葉を残していますが、中でも「YOU、やっちゃいなよ」というフレーズは特に有名です。彼は「人は失敗から学び、完璧な人間は信用できない」との信念を持っており、そのためタレントたちにはどんなことでも果敢に挑戦するよう促していました。この考えを象徴する言葉が「YOU、やっちゃいなよ」です。
ジャニーの逝去後、TOKIOの国分太一はテレビ番組で、この言葉が自分の心に深く刻まれていることを語りました。彼によれば、ジャニーズ事務所のタレントたちはこの言葉を胸にし、新しい挑戦をする勇気を持っているとのことです。
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目〇〇〇〇を素材として二次利用しています。
文章はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。
コメント
最新を表示する
NG表示方式
NGID一覧