メリー喜多川

ページ名:メリー喜多川

メリー喜多川


メリー喜多川は日本の実業家、芸能プロモーターとして知られ、ジャニーズ事務所の名誉会長やレコード会社「ジャニーズ・エンタテイメント」の代表取締役社長を歴任した。彼女は「メリーさん」という愛称で親しまれていた。

彼女は3人姉弟の中で最も年上であり、一部には4人兄弟だという説も存在する。彼女の末弟は、ジャニーズ事務所を創業したジャニー喜多川で、長弟の喜多川真一は、NASAの関連会社でアポロ計画の設計に携わる科学者として活動していたが、1980年代の中頃に50代で亡くなった。

 

略歴

生い立ち

アメリカのロサンゼルス、リトル・トーキョーに位置する高野山真言宗米国別院の僧侶である喜多川諦道の長女として生まれたメリー喜多川。彼女の父は一時期、プロ野球チーム「ゴールドスター」のマネージャーを務めていた。

喜多川家は1933年に日本へ移住し、大阪市での生活をスタートさせた。しかし、短い間に母親を亡くし、その後間もなく第二次世界大戦が勃発。メリーと弟たち(ジャニー喜多川を含む)は和歌山県の那智勝浦町へ疎開した。戦時中、メリーは大阪松竹少女歌劇団と関わりを持ち、戦後には劇団が駐留軍の慰問公演を行う際の通訳も務めた。

1947年には、弟たちと共にアメリカへ戻り、ロサンゼルス・シティー・カレッジを卒業。その後、弟のジャニーとメリーはそれぞれ1952年と1957年に日本へと帰国した。

 

実業家として

1950年代の終わり頃、メリー喜多川は四谷三丁目にカウンターバー「スポット」を開業し、事業の世界に足を踏み入れた。このバーの常連客であった東京新聞の記者で後の作家、藤島泰輔との関係から、藤島ジュリー景子が生まれた。

その後、末弟ジャニーが「ジャニーズ事務所」を設立すると、メリーは自身のバーを閉店し、事務所の経理部門を担当することとなった。さらに、フォーリーブスのスタイリストとしても活動した。ジャニーズ事務所の副社長として、タレントのマネジメントやショーのプロデュースを担当する弟・ジャニーの補佐として、会社の経営全般を監督していた。

また、彼女は1976年に、ジャニーズのタレントが舞台上で迅速に衣装を変更するための「早変わり衣装」の新しい実用的な方法を提案している。

2011年には、SMAPが中国の温家宝国務院総理の招待で北京での公演を行った際、メリーは飯島三智と共に、人民大会堂での対日外交担当者の唐家璇との会見に参加した。

 

晩年、死去

長い間ジャニーズ事務所の副社長として活動していたメリー喜多川は、2019年7月に弟のジャニー喜多川が亡くなった後、同年9月27日にジャニーズ事務所の代表取締役会長に昇格した。

しかし、その後の2020年9月4日に代表取締役会長を退任し、名誉会長の役職に就いた。

そして、2021年8月14日の早朝、肺炎のため東京の病院で逝去。享年93歳。彼女の墓は、弟のジャニーと同じく、和歌山県の高野山に位置している。

 

人物

ジャニーと共に多くのアイドルを育てたメリー喜多川は、事務所の方針や決定に従わないタレント、あるいは不祥事を起こしたタレントに対しては厳しい態度を取ることで知られていた。そのため、彼女とトラブルを起こした元所属者として、元SMAPの森且行や元男闘呼組の高橋和也などが挙げられる。

彼女は豊川稲荷東京別院という、芸能の神を祀る場所を特に気に入っており、その名前を取って、豊川誕という芸名を命名したこともある。

彼女の死後、『女帝メリー喜多川』という本が出版された。この本の著者は、集英社の元芸能誌編集者である。

さらに、ジャニーズ事務所が設立した外部の調査チームは、2023年の会見で、ジャニー喜多川の性的虐待問題の背後にメリー喜多川の影響があると指摘した。ジャニー喜多川は、多くの10代の少年たちに対して性的な加害を繰り返していたとされ、メリー喜多川はこの問題を知りつつも、それを放置し、外部から隠蔽していたとされる。

 

 

 

 

 

 

 

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