笠置シヅ子
笠置 シヅ子は、日本の著名な歌手・女優で、本名は亀井 静子。戦前から戦後にかけての時代に大きな影響を与え、特に戦後は「ブギの女王」として広く知られた。当時の邦楽界において、彼女は躍動感のあるリズムと華やかなダンスパフォーマンスを取り入れ、楽曲のスタイルを一新させた。この革命的なアプローチは、後の日本のポップスやJ-POPにも影響を与えている。中でも「東京ブギウギ」は彼女の代表曲として知られている。
来歴
生い立ちから歌手デビュー
1914年、香川県大川郡相生村(現在の東かがわ市)の黒羽で生まれた笠置シヅ子は、幼少期に父を亡くし、母乳が出ない母とともに実家に戻った。近所に帰省していた大阪市福島区の米屋の妻が彼女に母乳を与え、結果としてその女性に養女として大阪に連れて行かれた。シヅ子が自身の出生の真相を知るのは、大人になってからのことだった。
1927年、小学校卒業後、宝塚音楽歌劇学校を受験。彼女の歌とダンスの才能は認められたものの、身長の低さと痩せ型の体格が理由で不合格となった。しかし、その年に「松竹楽劇部生徒養成所」を受験し、合格。芸名を三笠 静子として舞台デビューを果たした。1933年には一つの公演に出演し、翌年、日本コロムビアから「恋のステップ」でレコードデビュー。1935年、昭和天皇の末弟が「三笠宮家」を創設したことを受け、名前を「笠置 シズ子」に変更した。
戦時中~劇団解散と慰問活動
1938年、帝国劇場でスタートした「松竹歌劇団」に参加したシズ子は、服部良一との出会いを果たす。シズ子は服部と共にジャズ歌手としての道を歩み始めるが、日中戦争の影響で戦時色が強まる中、彼女の派手なスタイルは時代とは逆行していた。その結果、1939年には劇場での出演が禁止される事態となる。松竹楽劇団は1941年に解散し、シズ子は「笠置シズ子とその楽団」を結成。各地での慰問活動を続ける一方、映画「弥次喜多大陸道中」で主演を務めるなどの活動も行っていた。しかし、彼女のエネルギッシュなステージは当局の目を引き、一定の範囲内でのパフォーマンスが求められるようになった。
劇団の早期解散や戦時下の厳しい状況の中、シズ子は歌手としての活動の場を求め、「笠置シズ子とその楽団」を率いての慰問活動に尽力した。戦後ヒットとなる「アイレ可愛や」は、戦時中の南方をテーマにした楽曲で、シズ子はこれを兵士や軍需工場での慰問で熱心に歌い続けた。
ブギの女王として
1945年、再開場した日本劇場の初のショーにシズ子は出演し、1947年には服部作曲の「東京ブギウギ」が大ヒット。彼女は「ブギの女王」と称され、多くのブギ系楽曲をヒットさせた。美空ひばりがシズ子の物真似で知名度を上げる一方、シズ子は現地で誤解を招くエピソードも持つ。シズ子は派手なパフォーマンスとサービス精神で観客を魅了し、そのスタイルは当時としては革新的だった。
1948年、黒澤明の映画「醉いどれ天使」に出演し、短いシーンながら強烈な印象を残す。1949年には「銀座カンカン娘」で主演し、1950年には「買物ブギー」が大ヒット。しかし、若手歌手の台頭により次第に人気が落ちていくも、映画やステージ、テレビ出演は続けた。
私生活では、吉本興業の創業者の子、吉本穎右と交際し妊娠するも、彼の早逝と家族の反対により結婚は叶わなかった。しかし、彼の死後に女児を出産。シズ子は一時引退を考えるも、周囲の励ましで続行を決意。彼女の努力は多くの女性たちに共感を呼び、彼女の後援会は彼女を支える女性たちで固められていた。
歌手廃業、女優へ
1957年頃、ブギの流行が落ち着くと、シズ子は歌手としての活動を終了することを宣言した。一般的には「観客に満足してもらえるパフォーマンスができなくなった」とか「娘の育児を優先したい」という理由が挙げられていたが、後に彼女自身がテレビ番組で語ったところによれば、実際の理由は「体型が変わってきたから」とのこと。彼女は「自分のピーク時の姿を損なう必要はない」と感じていたようだ。その後、彼女は女優としてのキャリアに専念するため「笠置 シヅ子」と名前を変えた。彼女の過去のヒット曲の中にはステレオバージョンも存在するが、これは彼女が引退直前に録音したモノラル盤を後に加工したもので、彼女自身は引退後、公私ともに歌を歌うことはなかったという。
女優としての新たなスタートを切る際、シズ子はテレビ局や映画会社に直接足を運び、「これからは一人で娘を育てていくため、以前の高いギャラはもらえないだろうから、ギャラを下げてほしい」と自ら出演料の降格を申し出た。その後、彼女は大阪弁を活かしたユーモラスな演技で数多くの作品に出演。特に1967年からはTBSテレビの「家族そろって歌合戦」の審査員として、また1971年からはカネヨ石鹸のCMキャラクターとして多くの人々に親しまれた。
死去
1980年代に入り、シヅ子の健康状態が次第に悪化していった。1985年3月30日、彼女は東京都杉並区の立正佼成会佼成病院で卵巣癌のために亡くなった。享年70歳。彼女の最後の瞬間には、伝記ドラマ「昭和ラプソディ」で自らの役を演じる研ナオコを見つめ、「日劇時代は楽しかったね」という言葉を残したと言われている。彼女の法名は寂静院釋尼流唱。最後の resting placeは東京都杉並区永福の築地本願寺和田堀廟所に存在する。
エピソード
1951年の春、シヅ子の後援会長として名を挙げたのは、彼女の実父の友人であり、同じ香川県の出身者、南原繁だった。その時、南原は東京大学の総長を務めていた。戦時中や戦後の芸能界ではヒロポンの使用が広がっており、シヅ子もその中の一人とされている。1943年6月、彼女は吉本穎右と出会った。彼は当時大学生で、シヅ子は自伝で彼を「見目麗しい青年」として紹介し、「非常に優しく、女性を尊重する人物」と評していた。彼との関係が終わった後、シヅ子は一生独身を通した。彼女の娘は、「母にとって、父(穎右)だけが男性だった」と述べている。また、シヅ子は彼と初めて会った時にもらった名刺を一生大切に持ち続けていたと言われている。
シヅ子は、街の女性たちから熱烈なサポートを受けており、彼女は「毎日多くの人たちが私を応援してくれるが、その支援の背景には彼女たちの困難な状況がある。それを考えると涙が止まらない」と感じていた。彼女は彼女たちのために更生施設での公演を約束していた。
幼い頃、シヅ子はうつみ宮土理の隣の家に住んでいたことがある。そして、若手の時の笑福亭鶴瓶は、シヅ子と似た目元を持っていたため、「私の母は笠置シヅ子です」と冗談で言っていた。実際には二人の間に面識はなかったが、シヅ子はこの話を聞き、「鶴瓶は私の隠し子だ」と冗談を言っていたという。
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