キューティー鈴木

ページ名:キューティー鈴木


キューティー鈴木


キューティー鈴木(キューティーすずき、本名:原嶋 由美 - はらしま ゆみ、旧姓:鈴木、1969年10月22日 - )は、日本の元女子プロレスラー、タレント・女優。埼玉県出身、川口市立十二月田小学校、川口市立十二月田中学校卒業、川口市立川口女子高等学校中退。

人物


いとしい容姿からアイドルプロレスラーとして人気を集め、試合だけに留まらず歌、ドラマ、映画、CM、グラビア、バラエティーなどのテレビ番組など多方面で活躍、トークショーなど各種イベントにもひっぱりだこで絶大な知名度を誇った。『爆報! THE フライデー』(2016年7月22日放送、TBSテレビ)では女子プロレスラー史上最高の美女と紹介された。

現役時代は身長155cm、B86cm、W66cm、H90cm、体重55kg。血液型はAB型。

女力道山と言われた大森ゆかり(元全日本女子プロレス)をプロレスラーとしての目標とし、ライバルは尾崎魔弓である。

師の山本小鉄の「思いやりのある人間になれ。」との教えに感化を受け、後輩への指導やインタビューでたびたび引用する。

雑誌では、技を掛けられて苦悶の表情を浮かべる写真が多く使用され、当時のキューティーの印象として定着する。男性ファンからも、「そのやられっぷりがいい」と支持され、弱いという印象も持たれるが、受け身のうまさと打たれ強さには定評があり、尾崎魔弓も「あのケガに対する強さは持って生まれた才能だと思う。」と語っており、引退まで怪我らしい怪我はなかった。

プロレスラー時代の趣味は、犬の散歩とファミコンで、特に『ドラクエ』に熱狂し、『女子プロレスグランプリ』(ソニー・マガジンズ)ではゲームに関するコラムを寄稿していた。ゲームソフトの新作が出ると、弟に寮まで届けさせたこともあった。

アイドル雑誌を読むのが好きで、愛読書は『DUNK』(集英社)と『BOMB』(学研)。好きな芸能人は永井真理子、近藤真彦、織田裕二、瀬能あづさ、三上博史で、歌番組で近藤真彦と共演した際には感激している。

引退後も含めると、14冊の写真集を出しており、女子プロレスラー最多の記録を持っている。最終的にヘアヌードまで披露しており、カメラマンの要求に「個人的にはギリギリで行きたかったけど押しに弱いから。」と言い、尾崎とのレズビアン風の写真集(『赤い糸』サン出版)を撮る時は、カメラマンから「抱き合ったみたいなのやってみようか。」と言われ、最初は二人とも「嫌だ、冗談じゃない!」と抵抗したという。

小4頃から母の薦めで箏を習い始め、中学卒業まで続ける。

経歴


デビュー前


1969年10月22日、埼玉県川口市に生まれる。三つ上の兄、四つ下の弟に囲まれて育つ。小学生の時、当時全盛のビューティーペアのファンとなり、その頃から漠然とプロレスラーになりたいと思い始める。中学3年の頃にはクラッシュギャルズの登場でクラス中が女子プロブームになるが、キューティー1人だけは大森ゆかりを応援する。その7月1日、初めて女子プロを友達と生で観戦、クラッシュギャルズの試合を見てプロレスラーになることを決心、周囲にもプロレスラーになると言い触れ回るが、本気にとらえた人は少なかったという。

高校受験直前の1985年1月15日、フジテレビのスタジオで全日本女子プロレスのオーディションを受ける。応募条件は身長160センチ以上だったため(本人は155センチ)、履歴書には身長、体重ともにサバを読んで書き、体も大きく見せるため肩にタオルを入れた写真を貼ったりした。それまでにも身長を伸ばす機材などを通信販売で購入したりもしていたが、結果は1cmも伸びなかったという。入団テストの受験者が二千人もいる中で、第一次審査は前転、後転と平均台に上がっただけと簡単なものであったが落選する。本人はかなりショックで、翌日学校を休むほど落ち込み、悔しさのあまり全女の事務所に抗議の電話をかけたりイタズラ電話をしたことを後に告白している。

1985年4月、川口市立川口女子高等学校に入学、中学時代から続けていたハンドボール部に入部したが、夏休みの合宿の後、顧問の先生と喧嘩になり退部。プロレスラーになるべく近所の柔道場に通い始めるが、後に柔道は全然プロレスの役に立たなかったと語っている。10月、クラスメイトに女子プロを目指してる人(ムーン章子)がいたため、いっしょに再度、全女に応募するが今度は書類審査で落とされる。

1986年3月、ジャパン女子プロレスが旗揚げすることを友人から聞いて、腕立て、腹筋、スクワット等の実技によるオーディションとジャッキー佐藤との面接を経て合格、両親からも「せめて高校を卒業してから」と懇願されたが、反対を押し切り入門を果たす。しかし高校中退に反対する先生との間で学校を辞める話がまとまらず、最初のうちは放課後だけ練習場に通っていたが、その中に一人だけ同じ川口から通っていた練習生がおり、それが尾崎魔弓だった。同期は他にハーレー斉藤、エデン馬渕、イーグル沢井、ダイナマイト関西らがいる。一学年終了を待って学校を中退、寮に入るべく尾崎と待ち合わせて寮へ向かうが、もう後戻りできないという不安感で二人とも電車の中で人目もはばからず泣いたという。

ジャパン女子プロレス時代


1986年、四天王と言われたジャッキー佐藤、ナンシー久美、風間ルミ、神取忍以外は全員新人という状況でジャパン女子プロレスが発足する。ここでキューティーは山本小鉄、グラン浜田の教えを受ける。FMWを旗揚げする前の大仁田厚も指導に当たるが、選手たちは大仁田に対して快く思っておらず、キューティー本人も後年のインタビューではっきりと「大嫌いでした!」と答えている。

リングネームの名付け親は秋元康で、アップル鈴木、キウイ鈴木という候補もあったが、キューティーというリングネームも含めて、本人には不満だった。

キューティーは勝手にスポ根ドラマのような、女同士の美しい友情に支えられた世界を想像していたが、現実のあまりの違いに衝撃を受けたという。練習のきつさと、気の強いレスラー同士の人間関係に耐えかねて一度だけ母親に「もう辞めたい。」等の電話をしている。次第にできるグループとできないグループに分かれ、キューティーは後者に組み込まれ、ずっと受け身のトレーニングばかりさせられる。8月の旗揚げ戦に向けて、できる方を中心に稽古が組まれるようになり、キューティーは食事つくりとか裏方の仕事を任されるようになり、このままデビューできずに終わるのではと、気持ちの焦りを感じ始める。

1986年8月17日、ジャパン女子が後楽園ホールで旗上げするが、キューティーはデビューはできず場内整理係をする。

1986年9月19日、徳島市立体育館で、対プラム麻里子戦でデビュー、フォール負け。

ジャパン女子はあまり客が入らず、半年くらいの間は給料が出ないことや試合も月に一度、後楽園ホールのみという状況になったためプラム麻里子と飲み屋でアルバイトをしていたこともあったという。地方へ行くと客の数より選手の数の方が多かったこともあったくらいで、売店に立ちグッズを売らないと、泊るところも食事代もないという状況も経験する。

プラム麻里子とはファイティング・ドールズというタッグチームを結成するが、さしたる結果も残せず自然消滅した。

尾崎魔弓との抗争が次第に白熱して、いじめる尾崎と耐えるキューティーの構図が観客に受け、スポーツ紙や芸能メディアにも取り上げられるようになり、メインよりも大きく扱われることがでてきた。当時はライバル扱いされた二人だが、尾崎の方はキューティーは弱いのでライバルじゃないと相手にしてなかったという。

ジャパン女子は大手の芸能事務所と提携しており、全国的な人気のある選手を育てなければ団体もやっていけないということで、最初は風間ルミとエデン馬渕を芸能関係へ売り出そうとしていたが、エデンが早々と引退してしまったのでキューティーを売り出すことになった。

1989年、『週刊ヤングジャンプ(7月20日号)』(集英社)の表紙を単独で飾り、その週に発売された各プロレス専門誌で「女子プロレスラーがメジャーな全国誌の表紙への登場をはたした記念すべき日」と書き立てられた。歌手としてもデビュー、リング上で歌を披露、ラジオのレギュラーが決まったり写真集が出てドラマの出演も決まり、イメージビデオもヒットして人気が一気に爆発する。しかし本人は練習する時間が減って体の動きが悪くなるのと、道場へ行くと周囲から孤立したような違和感を感じてしまい、タレント活動がいやでしょうがなかったし、アイドルレスラーと呼ばれることも苦痛だったと後に語っている。労働省の『ほっとweek』という有給休暇の取得推薦のポスターにも起用されるが、キューティー本人は「年365日中364日は働いてた。睡眠時間も3〜4時間くらい。試合がオフの時は芸能の仕事をして巡業先まで仕事が入ってる。」といった皮肉なものであった。「名前が売れれば売れるほど周りが離れていく」「試合ギリギリに会場に入って、試合が終わったらすぐ次の(芸能の)仕事に行く」という中で、嫉妬から来る対戦中のえげつない攻撃を幾度も受けたという。また『週刊ゴング』(日本スポーツ出版社)では雑誌が売れるとの理由から毎週のように取り上げられていたが、風間ルミは、なぜキューティーばかり載せるのかと苦言を呈したという。しかし、この頃の本人の気持ちは、他の選手は休めるのに自分は休めないなどで、辞めたいという思いは相変わらずであった。

1989年1月5日、後楽園ホールにてバトルロイヤルで優勝、100万円を獲得。

1990年、ジャパン女子プロレスMVPを受賞する。

『週刊現代(1990年2月3日号)』(講談社)の表紙になる。

1990年12月26日、浜松アリーナにおける新日本プロレスの試合のテレビ中継の解説席にゲストとして招かれる。

1991年10月10日後楽園ホールでザ・スコルピオンとマスカラ・コントラ・カベジェラ(一方はマスク、もう一方は髪の毛を賭ける試合形式)を行う。これは8月30日のタイトルをかけた試合で敗北した時、自ら髪の毛をかけての再戦を直訴したもので、会場は人気アイドルレスラーが丸坊主にされるところを見たさの観客で超満員となる。場内にはヘアーサロンの人間が待機しているとのアナウンスも流れたが、エビ固めで勝利し、レスラーキャリア5年目にして初のシングルベルトを腰に巻き、涙を流した。

しかしキューティー個人の人気をもってしても団体の経営状況は改善せず、1992年1月26日、熊谷大会を持ってジャパン女子は解散、試合後仲間たちと抱き合い泣き崩れる。本人は、いったんはプロレスを辞めることを決意、そのまま芸能人になるつもりもなかったが、事務所に所属選手全員が呼ばれた時に風間ルミが立ち上げるLLPWにいく選手と、残留する選手の二つに分かれ、尾崎に促されるまま後者のJWP女子プロレスを旗上げする組に参加することになる。もう夢もかなえたしプロレスへの熱もさめて、今から高校卒業の資格をとるなり、専門学校に行くなりして別の仕事に就こうかと思っていたが、残った選手の盛り上がり方がすごくて、自分だけ抜けますと言い出せなかったという。のちに風間に誘われなかったのはショックだったとも語っている。

JWP女子プロレス時代


1992年4月3日、JWP女子プロレスが所属選手が8人のみで旗上げ。選手数の少なさを1日で2試合もこなすなどしてカバーする。後楽園ホールでの旗揚げ戦では、宿敵の尾崎魔弓と新人時代以来4年9ヶ月ぶりにタッグを組み、関西、福岡晶組から勝利を奪う。新団体では本人の中で、まざまざと自覚が芽生え、「それまでは自分の仕事だけをすればいいという考えでしたが、この団体は私が引っ張っていかなければという意識を持つようになりました」と語っている。4月11日、後楽園ホールで空手家の桑原三佳(誠心会館)と生涯唯一の異種格闘技戦で腕挫十字固で余裕の勝利。この頃には横浜のスーパータイガージムを訪れて、佐山聡の指導も受けている。

1993年には女子プロレス界に対抗戦ブームがおこり、キューティーは最初のうちはあまり興味を示さなかったが、井上貴子との試合にライバル心を燃やす。この二人の対決はアイドル対決と言われた。全女との試合では「同じプロレスなのに組み方や間のとり方が全然違う。」という違和感をむしろ楽しんだという。11月、元クラッシュギャルズの長与千種の復帰戦でタッグパートナーを務め、翌1994年3月13日には、シングルで初対戦するが、48秒で敗北。4月10日、後楽園ホールにてコマーシャルで人気者になったレジー・ベネットとタッグを結成、以後たびたび二人はタッグを組むことになる。

1994年11月20日の東京ドームで行われた『憧夢超女大戦』では井上貴子と越境タッグを組み工藤めぐみ、福岡晶組と対戦、26、27日には尾崎と共にアメリカ、バージニア州でのWCWの試合に遠征、ブル中野、北斗晶組と2連戦をする。北斗とは初対戦であった。

1995年5月14〜16日、JWPの中国遠征で北京市と天津市で、6月3〜5日の韓国遠征で釜山市、光州市で試合をする。

この時期、「私の新人指導は厳しいですよ。優しいだけでは結局、彼女たちのためにならないから徹底的にしごいてやります。」と厳しい指導者的な役割も受け持つようになる。この頃からしきりにインタビューで「デビル雅美、関西にシングルで勝ちたい。」と二人を意識した発言をするようになる。

1995年6月16日両国国技館での対ボリショイ・キッド戦で、生涯で一度のマスク着用で試合を行う。純白のタイガーマスクに似たデザインであった。12月24日には、後楽園ホールでのデビュー10周年記念試合を行う。

JWPは当時、大塚製薬がスポンサーだったので、リング上でオロナミンCドリンクやジャワティーを一気飲みして宣伝に努めた。

次第に引退を考え始めるが、1997年8月、盟友、プラム麻里子がリング上のアクシデントで亡くなるという事故が起き、もう少し会社のために頑張らなくてはいけないと思いとどまる。事故後、「彼女がやり残した分までプロレスをやっていきます。いつもどこかにいると思うからプラムに怒られないように頑張っていきたい。」とのコメントを残した。

1998年10月15日、引退を正式表明、12月27日、20代の元気なうちに引退したかったという本人の望みどおり、29歳で後楽園ホールにて現役生活を終える。引退試合は関西とのシングルマッチの予定だったが関西がけがで欠場、8人タッグで勝利を飾り、リング内で仲間たちに胴上げされ選手生活にピリオドを打つ。引退の理由としては、ケガや体力の衰えなど確かなものではなく、「やるべきことは全てやったし、もう後輩に教えることもない。」という漠然としたものであった。終生のライバルであった尾崎との戦績は、10勝1分け25敗。引退後も芸能の仕事は継続する。

引退後
30歳の時、新宿のホストクラブで7年連続ナンバー1のホストで、自らの店と格闘技ジム、シュートボクセ・アカデミージャパンの代表であった3歳年下の原嶋秀行(2014年現在、病院事務員に転職)と出会い、2005年5月5日、35歳で結婚、7月10日都内で挙式した。

2006年7月25日、緊急帝王切開で長男を出産。

2011年7月21日、次男を出産。不妊治療をして授かった。

尾崎が代表を務めるOZアカデミーに、よくゲストとして呼ばれている他、ニコプロの尾崎・ダイナマイト・関西と共にニコ生にも出演する。

現役時代の付き人に日向あずみがおり、2009年12月27日の日向引退セレモニーにも来場している。

2012年発売の『週刊プロレス(4月4日号)』(ベースボール・マガジン社)で、引退して10年以上経っている女子プロレスラーとしては異例の24ページ、カラーでの特集が組まれる。

2012年4月22日、後楽園ホールで行われたJWP20周年記念大会に来場し、JWP二冠タッグ選手権試合の立会人を務めた。

逸話


人気が出始めたころ、忙しくて自分が出ているテレビや雑誌を見る暇もなかったので、歩いていて声をかけられても「なぜ自分のことを知ってるんだろう?」という感覚しかなかったという。
尾崎は「キューティーはいじめ甲斐があった。弱くて下手だったので、いじめるのには一番の獲物でした。本気で怒る(キューティーの)ファンの反応が面白かった。」と言っている。
写真集の撮影を行う僅か前に、試合で顔を蹴飛ばされて腫れ上がったことがあった時、蹴飛ばした側の選手がフロントから「大事な写真集の撮影の前になんてことするんだ。」(尾崎談)と叱責されたことがあった。そのことが団体内での孤立を深めた一因として挙げられている。
元全女のデビル雅美に指導を受けたとき、JWPの選手はボディスラムの上げ方がおかしいと指摘された。男子レスラーの指導を受けてきた選手たちと、全女とのプロレス観の違いを示す出来事として挙げている。
JWPは、全女のような三禁(酒、タバコ、男)といった規則にはそれほどうるさくなく、キューティーも「巡業先でも結構、飲みに行ってました。」と語っており恋人もいた。巡業が終わると、恋人に早く会うために自分だけ自腹で飛行機や新幹線で帰ったりして、ギャラもほとんど残らなかったこともあったという。
試合の映像を観た息子から「ママは弱い。」と言われた。
キューティーは、鉄平という源氏名でホストとして活躍していた原嶋氏の店に、5年間通いつめて結婚までこぎつけた。
結婚後、夫の趣味であるアニメのフィギュアや世界中の昆虫、恐竜の化石のレプリカ、動物のはく製収集などに頭を悩ませられている。

 

 

 

 

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