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広海軍工廠引き込み線跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

広海軍工廠引き込み線跡(西側)広海軍工廠引き込み線は広駅と広海軍工廠を結ぶ軍用貨物鉄道の線路引き込み線とは、主要な鉄道路線から分岐して工場や施設内に入るための線路のことです。工場内で製造された物資や機材の輸送や工場への原材料の供給などに使用されます。また、広海軍工廠のような軍需工

旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠広海軍工廠は太平洋戦争終戦まであった海軍の軍需工場地帯『海軍工廠』とは海軍艦艇の建造・修理、艦艇に搭載する兵器の製造・修理・保管、艦装品の製造・調達・供給等を行う軍需工場の総称です。広海軍工廠は呉海軍工廠創設から26年後の大正10年、当時の新技術で

黄幡山九郎山機銃砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

黄幡山機銃砲台跡黄幡山(おうばんやま)は旧広海軍工廠会計部(現米軍広弾薬庫)の南にある標高61mの山ここには太平洋戦争中に広海軍工廠・第11海軍航空廠防衛のため防空機銃砲台が構築されました。黄幡山機銃砲台は太平洋戦争後期の昭和19年1月に着工し当初は『25mm連装機銃』2基が配備

ジャパンマリンユナイテッド呉事業所新宮工作部(旧第11海軍航空廠兵器部新宮工場) - 呉市周辺の遺構まとめ

工業地帯の西北部旧呉海軍工廠地帯から呉湾を挟んで反対側の新宮町にかつて第11海軍航空廠兵器部新宮工場がありました。第11海軍航空廠は広にある広海軍工廠の一部で太平洋戦争開戦の昭和16年に呉海軍工廠から独立し、当時の新技術であった航空機を製造・研究する工廠でした。その第11海軍航空

地区別 - 呉市周辺の遺構まとめ

所新宮工作部(旧第11海軍航空廠兵器部新宮工場) 旧呉市交通局築地中央工場(海軍軍需部被服工場跡) 呉線の架道橋広・安芸阿賀広・安芸阿賀 旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠 呉海軍航空隊飛行場跡 広海軍工廠引き込み線跡 虹村公園(広燃料置場重油槽跡) 阿賀骸炭製造所ガス圧送室跡 工

三木谷医院(旧広海軍共済組合病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

三木谷医院(旧広海軍共済組合病院)吉松山のふもと住宅地にある海軍の病院広海軍共済組合病院は広海軍工廠の医療機関として大正10年の広海軍工廠設立と同時に建てられました。その後、太平洋戦争直前の昭和15年にとなりの地区である大新開(現在の広警察署の辺り)へ移転しました。太平洋戦争末期

石内浄水場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

石内浄水場跡「呉市で一番高い山」こと野呂山のふもとにある浄水場で『呉鎮守府水道』の1つ太平洋戦争末期になっても広海軍工廠と第11海軍航空廠の工業用水は不足しており、二級ダムから広海軍工廠と第11海軍航空廠への送水量増強のためここ石内に浄水場が造られました。石内浄水場は鬼坂調整池と

横路中学校(旧第11航空廠横路工員宿舎) - 呉市周辺の遺構まとめ

期の女子労働者用として転用したものと思われます。太平洋戦争後期になると長期化する戦争と徴兵により男性労働者不足が深刻化したため、呉海軍工廠や広海軍工廠では学徒動員が始まり女子動員学徒や女子挺身隊員が労働力として召集されました。しかし、当時の第11海軍航空廠の男性技師の手記によると

第11海軍航空廠白石隧道地下工場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

平洋戦争末期に第11海軍航空廠の航空機生産を継続するため、ここに地下工場が作られました。太平洋戦争末期の昭和19年12月に、本土空襲に備えて広海軍工廠と第11海軍航空廠では工場の分散疎開が始まります。その後、広海軍工廠と第11海軍航空廠は昭和20年3月と5月に二度に渡る大空襲を受

吉松山防空砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

吉松山防空砲台跡吉松山は広市街地の北東(船津神社の裏)にある山ここには太平洋戦争末期の昭和20年に広海軍工廠防衛のため呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。広の大抵の高い山には広海軍工廠を守るための防空砲台が多く作られましたが、ここもその1つです。砲台床砲台床は全部で4つあります

二級ダムと二級水源地 - 呉市周辺の遺構まとめ

る二級峡に作られた水道施設で『呉鎮守府水道』の1つ元々、二級峡には明治32年に建設された水力発電所がありました。しかし、太平洋戦争前になると広海軍工廠への送電量増強と工業用水の安定的な確保を求めた海軍の要請によりコンクリート製ダムの建設が決定します。ダムは太平洋戦争開戦の昭和16

旧呉海軍工廠 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉海軍工廠には砲熕部・火工部・水雷部・電気部・製鋼部・潜水艦部という独自部門が置かれました。大正10年にはとなりの広に呉海軍工廠広支廠(後の広海軍工廠/第11海軍航空廠)を設置するなど拡充を続け、日清・日露戦争を経て富国強兵を進める日本海軍を支え続けました。呉海軍工廠では最盛期に

工僚神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

工僚神社広両谷の船津八幡神社の境内にあります。工僚神社は太平洋戦争中に広海軍工廠と第11海軍航空廠で勤務中に殉職、もしくは戦死した方を祀った神社です。太平洋戦争終戦後の昭和21年11月に建立され、以降は広地区工業関係の殉職者と広出身の軍人も合祀されています。太平洋戦争末期に広海軍

明磯神社の鳥居 - 呉市周辺の遺構まとめ

明磯神社の鳥居明磯(めいそ)神社は津久茂町にある神社ここには太平洋戦争末期の昭和20年5月の旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠への空襲で折れてしまった鳥居があります。爆風か衝撃により鳥居の3か所に亀裂が入っておりカスガイや金具で補強された跡があります。呉市街地の亀山神社にも焼夷弾で

第11海軍航空廠殉職者之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

第11海軍航空廠殉職者之碑広公園の中にあります。広海軍工廠と第11海軍航空廠で勤務中に殉職した方を祀った慰霊碑です。元々は津久茂にありましたが、広海軍工廠を拡張する工場の際に現在の場所に移築されました。後ろの銘板が取り外されていますが、どういう理由で取り外されたのか、いつ取り外さ

阿賀骸炭製造所ガス圧送室跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

発電の方が発電コストが安い等の理由で大正7年に廃止となりました。広島ガス阿賀工場(広島瓦斯電軌阿賀骸炭製造所跡)大正時代に入ると呉海軍工廠と広海軍工廠という呉市二大工業地帯の燃料需要増加を受け燃料生産の必要性が高まります。そのため、大正7年に廃止された延崎火力発電所跡地は燃料の生

長浜の鉄塔 - 呉市周辺の遺構まとめ

長浜の鉄塔長浜集落の入江神社の前にあります。この鉄塔は空襲警報のサイレンを鳴らすのに使った鉄塔で錆ついていますが健在です。北に行けば旧広海軍工廠があるので、太平洋戦争末期の昭和20年3月と5月の広海軍工廠への大空襲では空襲警報のサイレンが鳴ったと思われます。また、呉市電の終点がこ

螺山砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

螺山砲台跡螺山(つぶやま)は長浜集落と白岳住宅地の間にある標高238mの山かつてここに広海軍工廠防衛のための螺山防空砲台が作られました。螺山防空砲台は太平洋戦争前の昭和12年に竣工しており開戦時には『四〇口径三年式8cm高角砲』2門が配備されていました。開戦後は聴音機が追加され、

呉海軍航空隊飛行場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

水上機のみが配備されました。その後、昭和に入るとワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮会議で艦船の建造が制限されたこともあって、対岸にある広海軍工廠では制約のない航空機の研究・開発が進みます。その試験飛行の場所として航空隊用地が使用されました。その後、昭和6年に呉海軍航空隊とし

大空山公園(大空山砲台跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

後、広島湾要塞廃止に伴い、他の砲台と同じく大正15年に廃止されました。太平洋戦争の時代になると、南の高烏台砲台と同じく海軍呉鎮守府に移管され広海軍工廠防衛のための防空砲台に転用されました。高烏台砲台と違うのは、あちらは太平洋戦争が始まった昭和16年に早々に防空砲台に転用されたのに

海上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧海軍軍需部乙廻燃料置場) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧乙廻燃料置場)吉浦駅の近くにあります。乙廻燃料置場は有事に備えての海軍の燃料貯蔵計画の一部として建設が決まりました。昭和7年に用地買収が始まり、昭和12年に海軍軍需部乙廻燃料置場として完成しました。太平洋戦争終戦後に進駐軍に接収され、イギリス軍やオ

三坂地水源地 - 呉市周辺の遺構まとめ

現在の三坂地水源地の起源ですが、あくまで仮設的な水源地という位置づけで取水量も呉鎮守府水道の中では一番少ない水源地でした。その後、昭和に入り広海軍工廠が近代化・拡張が進み工業用水が不足してきたため、新たに二級水源地や石内浄水場などが増設されました。太平洋戦争終戦後、ポンプ技術の発

長浜の地下壕口 - 呉市周辺の遺構まとめ

長浜の地下壕口(広海軍工廠第二十三号隧道・第二十一号隧道)黄幡山の南側にある地下壕口この地下壕口は、北にある広海軍工廠の地下工場で、空襲が激しくなった太平洋戦争末期に召集された女学生が中で航空機の部品を作っていました。壕口は全部で9つあり、現在は5つが現存しています。

吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎) - 呉市周辺の遺構まとめ

作られ、となりに技術士官用宿舎も建設されました。太平洋戦争後期になると長期化する戦争と徴兵により男性労働者不足が深刻化したため、呉海軍工廠や広海軍工廠では学徒動員が始まり女子動員学徒や女子挺身隊員が労働力として召集されました。狩留賀寄宿舎も昭和19年6月に女子動員学徒・子挺身隊員

白岳山の境界標石 - 呉市周辺の遺構まとめ

五年八月」と書かれています。第三區地帯とは「250間(約4km)先に国防に関する重要な防御営造物がある」という意味の注意書きです。白岳山には広海軍工廠の地下工場と思われる壕口がいくつか残っています。また、戦前戦中は要塞地帯の中で測量・撮影・模写などを禁止する要塞地帯法という法律が

虹村公園(広燃料置場重油槽跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

修補給所工作部エアクッション艇整備科(旧海軍飛渡瀬燃料置場)と倉橋島の海軍軍需部倉橋島燃料置場跡がある ・近くに呉海軍航空隊飛行場跡と旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠がある 住所 広島県呉市広多賀谷2丁目9 駐車場

阿賀峠(呉越峠) - 呉市周辺の遺構まとめ

阿賀峠(呉越峠)呉と広の間に昔からある峠道軍港である呉と航空廠のある広の間には休山という非常に大きな山があります。明治22年に呉に海軍鎮守府が置かれるまでは呉と広の交通は休山を北に迂回する『阿賀峠』と呼ばれる細い道が使われていました。呉に鎮守府が置かれた後の明治33年、ここ阿賀峠

黒瀬街道と黒瀬隧道跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

黒瀬隧道の横穴二級峡自然遊歩道にある黒瀬隧道の非常口戦後すぐに作られたトンネルの非常口とあってまるで防空壕のようです。なお、昭和20年3月の広海軍工廠への大空襲では「作りかけの二級滝隧道へ避難して助かった人々がいた」という記録が残っていますが、黒瀬隧道のことを指しているのか不明で

大浦突撃隊大迫支隊(Q基地跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

いました。写真2枚目がQ基地からP基地を見たもので、訓練生たちは正面にある情島と小情島の間を通ってP基地へ通っていました。右奥に見えるのは旧広海軍工廠です。特殊潜航艇基地大浦突撃隊大迫支隊跡碑海岸Q基地跡の海岸に建立された記念碑元海軍の軍人によって建てられました。機動艇発着場跡Q

呉芸南病院 - 呉市周辺の遺構まとめ

病院呉芸南病院は昭和14年に建てられた民間の病院ですが詳しい歴史等は不明です。昭和14年当時は軍縮条約や軍縮会議の影響で航空機の研究が進み、広海軍工廠に勤務する労働者やその家族が増えたため広や阿賀は大都市となりました。大都市の医療を支えるためこのような病院が建設されたのではないか

呉医療センター(旧呉海軍病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

国立病院機構呉医療センター(旧呉海軍病院)呉医療センターは呉市市街地にある総合病院元々は呉海軍病院といい呉鎮守府開庁の明治22年に海軍の病院として開院しました。呉は軍港という土地柄、呉鎮守府や海軍工廠関係の病院が多く作られましたがこの呉海軍病院は最も古い軍属病院になります。明治年

呉海軍工廠電気実験部跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉海軍工廠電気実験部跡アレイからすこじま公園(旧潜水艦桟橋)の通りから山手に入り呉海軍工廠員養成所跡を超えたところに旧呉海軍工廠の電気実験部がありました。『実験部』とは電気部以外の部にも置かれている部署で素材や製造の開発を行う開発部門です。呉海軍工廠の電気実験部では主に探照灯や通

ダイクレ興産第2工場(旧呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場) - 呉市周辺の遺構まとめ

ダイクレ興産第2工場(旧砲熕部精密兵器工場)精密兵器工場は呉海軍工廠砲熕部の工場の1つ『砲熕部』とは海軍の兵器を生産する部署で、他の海軍工廠には無い呉海軍工廠のみに設置された独自部門です。この工場では艦艇に搭載する艦載砲や機銃の組み立てを行っていました。この辺りは明治22年に呉鎮

旧呉海軍工廠引き込み線跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

います。 備考 ・橋梁は呉線堺川踏切のすぐそばにあり現在の呉線の橋と並行に架かっている ・となりの広駅にも同じような広海軍工廠引き込み線跡が残っている ・近くに海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団)と二河川橋梁と呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)がある

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