左メニュー
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
群馬県太田市世良田町の長楽寺にある新田義貞の肖像
新田 義貞(にった よしさだ、?[1] - 1338年8月17日(延元3年/建武5年閏7月2日))は、鎌倉時代末期~南北朝時代にかけての新田氏(上野源氏)の棟梁・御家人・武将である。通称は小太郎。官職は正四位下・左馬助・上野介・越後守・播磨守・左衛門佐・左兵衛督・左近衛中将[2]。義貞自身は新田氏代々の宗教である浄土門(浄土教)を信仰していた。
第7代目の当主の新田朝氏[3]の嫡長子で、生母[4]は不詳。子は義顕[5]・義興[6]・義宗[7]・島田義峰(嶋田義央)[8]・千葉氏胤[9]室、同母弟に脇屋義助[10]、同母姉に従父の大舘宗氏[11]室がいる。
新田氏は、陽成源氏(河内源氏)の3代目である源義家の3男・義国の庶長子である新田義重を家祖として、上野国新田荘[12]を開拓奨励した。
だが、義貞の代には新田氏惣領家の地位は低く、新田氏惣領家の領地は広大な新田荘60郷のうちわずか数郷を所有していたに過ぎず、義貞自身もあまり目立たない存在であった。同族の足利氏(下野源氏)が先祖代々から鎌倉幕府の北条得宗家と婚姻関係にあったのと比較すると、新田氏は鎌倉幕府から無位無官の御家人として冷遇されていた。1318年10月に義貞の所領の内に一部を売却した際の書状が残っているが、それに対して、執権の北条高時が発送した安堵状には、売主が新田「貞義」と誤記されており、新田氏惣領家の地位の低さを顕著している。
とくに、義貞の祖父の基氏の代には、新田氏一門の世良田満義[13]や大舘家氏[11]などの多くの面々も惣領家の新田氏同様に所領の一部を売却していた。本来であれば、手続きの折は惣領家の承諾を得なければならないところであるが、惣領家の当主である基氏の承諾があった形跡はない。また、前述の大舘家氏と足利氏一門の岩松経兼・政経[14]父子が水の利権を巡って控訴沙汰になったときは、両者は惣領家の新田氏に無断で幕府に裁定を仰ぎ、足利氏贔屓の幕府は岩松父子に有利となるような裁許状を下している。
さらに義貞の出生をめぐって『新田正伝記』・『新田族譜』・『里見系図』などの史料は、義貞が新田氏の庶宗家である源姓里見氏からの養子であることを示唆している。ある時期に「義貞養子説」は有力な見解とされているが、具体的な確実性には欠けてたままである[15]。実際の義貞の生母は、武蔵七党の筆頭格の小野姓横山氏の娘で、その頭領である横山孝宣(太郎)は母方の従兄弟とする説がある。その根拠は「新田四天王」のひとりである横瀬具繁(由良具滋)が横山氏一門の横瀬氏の祖であり、孝宣の族兄弟であろうと推測されるからである。
義貞の少年時代については、現存する史料に乏しく、検証はむつかしい。義貞の出生地は3つの説がある。
とする。しかし、いずれも特定できる資料とは言えず定説には至っていない。
1314年ごろに、13歳くらいで元服したことが記述[16]されているが、これは信頼性に乏しいという。1318年には、義貞が新田荘内にある長楽寺再建のため、私領の一部を売却していることが文書に記述されていることから、少なくともこの年以前には元服していたと推測される。
義貞が育った上野国新田荘は、気象の変化が激しく、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土であった。また扇状地の扇央部分には灌木、草木が繁茂した広漠な荒地が広がっていて、比較的温暖な下野国足利荘を拠点とした華やかな足利氏と異なり[17]、武骨・質素を重んじた新田氏一門が弓術などの武芸を鍛錬する練習場となっており、「笠懸野」という地名で呼ばれていた。義貞はそのような風土の中で、笠懸野で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていったという[18]。
稲村ヶ崎で宝刀を海の龍神に捧げる義貞
上野国新田荘で新田氏惣領家の朝氏の長男として生まれる。祖父の基氏に溺愛されて、可愛がられたという。
義貞が少年時代に、前述の同族の岩松政経が園田秀俊[19]と組んで水田の利権を巡ったために、祖父の基氏は「政経は分家の分際で、新田氏総領家にさからうとは何事か!」と激怒して、抗争した。その時に幕府の北条高時と足利氏惣領家である足利貞氏から「(新田氏の)身の程知らずめ、無位無官の分際で抗議するとは生意気だ!」といわれ、かえって新田氏に不利となるように領地を削減され、不当な処置を受けた。
やがて、義貞は成長して鎌倉大番役・京都大番役を歴任した。一方、後の好敵手である族弟の足利高氏(後の尊氏。貞氏の次子)からは自分が飽きた側室を「義貞どの、この女子(おなご)をあんたにやるよ」と言って、義貞に譲られた。だが、これに憤激した義貞は「俺は要らん!」と一点張りで、新田・足利の両家はよく騒動を起こしていた。高氏のほうは、後世の足利氏一門である今川義元のように公家の身なりをして自ら「麻呂はの~」と呼んでいた。義貞はそんな高氏に我慢がならなかったと、いう。しかも、義貞は高氏の同母弟の高国(後の直義[20])からも「なぜ、こんな田舎者が俺たちの親戚なんだ?納得がいかんぞ!」と罵られて、よく馬鹿にされたという。
しかし、義貞はくじけずに弟の脇屋義助とともに「俺たちは足利兄弟に負けない!」と京都大番役の勤務に励み、その働きぶりを天皇側近の日野資朝・吉田定房(甘露寺定房)に認められ「そなたを特例として、後醍醐の帝(ミカド)に謁見するを許可する」と言って、後醍醐天皇[21]と初めてひそかに謁見した。天皇は「なかなか見事な武将よのう、あの高氏とは違うのう…」といって、褒められたという。1318年秋ごろに父・朝氏は労咳(肺結核)のために46歳で、数年後の1324年に祖父・基氏も73歳で亡くなった。
同年9月に倒幕を目論んだ日野資朝と同族の日野俊基らは、首謀者の後醍醐天皇から「すべてこやつらのしたことで、朕には全く関係ない」と言って、幕府に引き渡されてさっさと処刑された。同時に、後醍醐天皇は隠岐国に流された(『正中の変』)。
1333年の閏2月に、義貞は執権の高時の命で河内国の悪党の頭領で、千早城に籠城した楠正成を討伐した。その時に正成は義貞に内密で接して、「近いうちに、幕府は滅亡するでしょう。拙者の友人の赤松則村(円心入道)[22]も紹介しましょう」と言って、密かに「倒幕」の密約を結んで、義貞はさっさと上野国新田荘に引き揚げた。
しかし、北条得宗家の執権の高時は「田楽踊り」が大好きで、24歳の若さで一族の赤橋守時に執権職を譲ってしまい[23]、ますます幕府は弱体化した。同年に隠岐国にいた天皇は近江国の豪族である六角時信[24]の手引きで、伯耆国の悪党の頭領の名和長年を頼り、ついに倒幕を意思表示した。そのころ、後醍醐天皇の第1皇子(庶長子)である護良親王(尊雲法親王)も播磨国の悪党の頭領の赤松則村の後ろ盾を得て、則村から「この際は高氏どのを味方につければ万全です」と囁かれ、倒幕の行動を起こした。六波羅探題の北条一門の仲時・時益は高氏の動向が不穏のために「高氏を抑えよ!」と言って、北条得宗家に知らせて駿河国駿東郡浮嶋ヶ原[25]で高氏の側室の「おけさ」[26]とその長男(庶長子)の竹若丸[27]を捕らえて、これを処刑した。これを聞いた高氏は激怒し、配下に命じて、仲時・時益らを襲撃して、これを自決に追い詰め、ついに倒幕を誓った言う。
同年4月に、上野国新田荘にいた義貞も、執事の船田義昌(藤原北家秀郷流)[28]の献策で、六万貫文の軍資金を、わずか5日の間という期限を設けて納税を迫るために、北条得宗家が派遣した幕府引付奉行である北条一門の金沢出雲介親連[29]とその御内人の黒沼彦四郎入道らに襲い掛かり、彦四郎を斬首した。しかし、親連は義昌の縁戚のため助命され、丁重に帰還させた。こうして義貞も倒幕に動き出し、同時に足利氏一門の岩松政経・経家(頼円)父子が高氏の3男で嫡男でもある千寿王丸(後の足利義詮)とその生母である赤橋登子[30]を引き連れて、義貞を頼った。しかし、義貞は匿うことは異存はなかったが、合流することは拒んだのである。
こうして義貞は、同年5月に新田氏一門の大舘宗氏・堀口貞満・里見義胤[31]・世良田満義・大井田経隆[32]・江田行義・大島義政(義昌)・羽田時房[33]、そして足利氏一門の桃井尚義[34]らを従えて、武蔵国の分倍河原に向かい、北上する北条氏の軍勢と対峙した。義貞は一族の世良田経広を近侍として、母方の従兄弟とされる武蔵七党の棟梁である横山孝宣(太郎)を味方につけて、さらに駆け付けた相模国の豪族である大多和義勝[35]の献策を用いて、引き続き下総国の豪族である坂東八氏の惣領家・千葉貞胤[9]の軍勢が合流したため、北条泰家(高時の弟)・桜田貞国(北条氏一門)らの軍勢を破った(『分倍河原の戦い』)。
義貞は一気に稲村ヶ崎を突破して[36]、そのまま鎌倉に攻めて、その直後に極楽寺坂で一族の大舘宗氏が47歳で戦死してしまうも、激戦の末に北条高時・赤橋守時ら北条氏一族を東勝寺に自決に追い詰めて、これを滅ぼした(『東勝寺の戦い』)。今まで北条得宗家から冷遇された義貞は感無量になった。だが、千寿王丸を奉じた岩松政経・経家父子らが、三河国~遠江国から鎌倉にやって来た足利氏一門の細川和氏・頼春・師氏兄弟[37]らとともに「これにより、鎌倉を統治する名義は千寿王丸さまである。義貞どのは、さっさと京にでも行かれて、後醍醐の帝から莫大な恩賞でも賜ったらいかがかな?もし、義貞どのがわれらの行為に異存があるなら、われらは惣領家の高氏さまの許可を得て、その強大な軍勢で義貞どのの軍勢を壊滅することも容易でござるぞ。そこのところはよく考え召されよ…」と、義貞一行を冷笑した。新田氏一門の堀口貞満はこれに抗議したが、どうにもならなかった。こうして、義貞一行は鎌倉滞在を強引に制止され、止むなく京に行かされる羽目となった。
義貞らが京に向かった後に、まもなく後醍醐天皇に正式に謁見し、彼は弟の義助と一族と共に官位を賜った。同時に、後醍醐天皇は「これにより朕は、唐を見習って、朕自らが親政する」と宣言をした。また、征夷大将軍となった護良親王は高氏改め尊氏と仲が悪く「お父君はなぜ高氏をご自身の諱である「尊治」の一部を与えて「尊氏」にしたのかよくわからん!あの男は将来は朝廷の禍となるぞ!」と叫んで、早々に配下の僧兵を集めて、六波羅にある尊氏の館を襲撃した。これを知った尊氏は弟の直義(高国から改名)とともに後醍醐天皇の御所に行って「親王はわれらを葬ろうとしてますぞ!」と告訴した。息子の行為に半信半疑な後醍醐天皇はその周辺を調査したが、はたして護良親王一行が「打倒尊氏」と称して、深夜に無実な人々に対して辻斬りをやったことが判明された。このために後醍醐天皇は息子を見限ってしまい、かつての朝資と同様に「よきにはからえ!」と言って、わが子の護良親王を足利兄弟に引き渡した。こうして護良親王は鎌倉に送られた。
その一方、1335年7月に信濃国で神官で豪族でもあった諏訪頼重・時継父子らが亡き高時の次男・北条時行を奉じて「腐敗した天皇親政を消滅し、再び北条氏政権の再興ぞ!」と叫んで反乱を起こした。これを聞いた義貞は静観して見守ったという。しかし尊氏は「これこそ麻呂の天下号令である!」と公言し、さっさと鎌倉に行った。鎌倉にいた直義から「親王が反乱軍に渡されたら、われら足利家を打倒する旗印になり厄介だ」と呟いて、部下で、相模国の豪族の淵野辺義博(淵辺義博とも)[38]に命じて、幽閉された親王を殺害したのである。こうして尊氏は弟によって強引に朝敵とされた(『中先代の乱』)。
同年に、急報で息子の非業の死を聞いて激怒した後醍醐天皇は至急に義貞と正成を召しだして「足利兄弟を討伐せよ!」と勅命を出した。義貞らは、後醍醐天皇の第3皇子である尊良親王[39]を奉じて、それを補佐した中将・二条為冬[40]とともに12月に相模国の箱根・竹ノ下に向かった。しかし、豊後国の豪族である大友貞載[41]と近江国守護で、宇多源氏(近江源氏)の当主である佐々木道誉(高氏)とその一族の塩冶高貞らの裏切りで大敗し、二条為冬は戦死し、義貞は親王らを護衛しながら京都に逃げ戻った(『箱根・竹ノ下の戦い』)。一方、正成も播磨国守護の赤松則村の裏切りで大敗した。
以降から義貞と尊氏は完全に訣別してしまい、熾烈な戦い極めることになるのである。その一方、義貞は後醍醐天皇に「なにとぞ、拙者を征夷大将軍にしていただきたい。拙者は源氏の棟梁であり、鎌倉で幕府を開けば、多くの有力地方豪族が拙者のもとに馳せ参じて、朝敵たる尊氏など撃破・壊滅するのは容易です!」と申請した。しかし、天皇側近の吉田定房・千種忠顕・坊門清忠らは「義貞はかつての頼朝のように、東国で自分の政権を創ろうとしております。これは帝にとって厄介であり禍となりますぞ。帝は北条得宗家の存在をお忘れになられましたか?」と囁いた。このため、義貞の新田氏による「鎌倉幕府」の構想は脆く崩れ去ったのである[42]。吉田定房・千種忠顕・坊門清忠らの思惑通りに義貞は朝廷の手駒扱いだったのである[43]。義貞は天皇側近の公卿と対立して、これに不満を持ちながらも、懸命に朝廷のために各地で奮戦したのである。
1336年5月に摂津国・湊川で、義貞は正成とともに足利直義と大高師泰と赤松則村らと戦うも、配下の裏切りで義貞らは敗走し京に逃げ戻った。殿軍を引き受けた正成は弟の正季とともに散った(『湊川の戦い』)。同年6月に名和長年も比叡山で散り、義貞の「鎌倉幕府」の件以来義貞を疎ましく思った天皇の側近の吉田定房は「この際は勾当内侍[44]と無為に過ごしてばかりいる義貞を尊氏らに引き渡し、足利家と和睦を結びましょう」と進言したのである。しかしこのことに勘付いた堀口貞満は後醍醐天皇に緊急に拝謁し「われら新田氏一門を見捨てるならば、そこにおられる定房卿をわれらが血祭りにし、同時にわれら新田氏一門の首を刎ねた後に願います!」と叫んだので、これに仰天した天皇に代わって定房は「いやいや、冗談ぢゃよ…ああ、そうだ。帝の皇子・恒良親王に譲位させ、越前国で「新天皇」(恒良親王)を補佐されたらいかがかな?」と狡猾かつ巧みに逃げたのである。
こうして、同年秋に後醍醐天皇の第4皇子である恒良親王は即位し「新天皇」となった。「新天皇」の庶兄で、前述の尊良親王と同母弟・成良親王(後醍醐天皇の第5皇子)と義貞らに奉じられ、越前国の金ヶ崎城に向かった[45]。しかし、翌1337年に尊氏は腹心の大高師直・師泰兄弟らを総大将にとして、越前国に討伐させた。翌1338年2月に金ヶ崎城を包囲された義貞は、恒良親王・成良親王と長男の義顕に「新天皇」を委託して、近隣の豪族に援軍を要請するために、わずかの手勢を率いて金ヶ崎城を後にした。しかし、1ヶ月後の3月に「新天皇」の恒良親王は弟・成良親王とともに捕虜され[46]、義貞の長男である義顕は尊良親王と同族の岩松義政[47][48]とともに自決して果て、金ヶ崎城は陥落した(『金ヶ崎の戦い』)。
このために義貞は弟の義助と同国藤島城に逃れた。しかし、今度は越前国守護の斯波高経[49](足利氏一門の斯波氏(奥州源氏)の当主)の討伐を受けた。同年閏7月に、藤島城を包囲された義貞は討って出るも、うかつに九頭龍川とその支流の日野川付近にある灯明寺畷のある水田に転んでしまった。そのときに高経の武将である足利氏一門の細川孝基[37](出羽守)・鹿草公相(彦太郎/兵庫助)らが率いる軍勢と遭遇した。まもなく義貞は眉間に矢を受けて呆気なく戦死した(『藤島の戦い』)。義貞の首級は氏家光範(重国)が取り、京に送られて晒し首となった。
数ヵ月後に新田氏一門の堀口貞満も美濃国から越前国に進撃中に病没した。辛うじて逃れた弟の義助も亡き兄・義貞の軍勢をまとめて、そのまま高経がいる越前国黒丸城を攻め落としたが、結局は高経の軍勢に敗れて越前国から退き、伊予国に赴き、軍勢を集めるも、1342年に病死した。
室町時代を迎えると、新田氏は足利氏が奉じた北朝から「朝敵」・「逆賊」としての烙印を押されて、討伐の対象となった。
義貞の庶長子・義顕は『金ヶ崎の戦い』で自決し、その直系はいなかった。次男の義興は1358年に、尊氏の末子で鎌倉足利家(鎌倉公方)の足利基氏と足利氏一門である関東管領の畠山国清(源姓畠山氏一門)によって、派遣された竹沢右京亮と江戸長門(遠江守忠重)[50]によって、義興と従者13人は、武蔵国の多摩川の矢口渡で謀殺された。しかし、義興の子の義和は、家臣たちの護衛によって辛うじて生き延びた。歳月は流れて、1409年または1410年に処刑された貞方・貞邦父子の後を継いだ年老いた義和は、一族の大井田氏(越後源氏)の当主の大井田経貞(氏経の孫)と上野細谷氏の当主の細谷房清・清房父子と義光流世良田氏の当主の世良田宗親・信親父子らに支えられて新田惣領家の当主となり、惣領家の足利将軍家と対決した基氏の子の足利氏満の支援を受けて、同族の岩松氏と新田氏惣領家の座をめぐって抗争を繰り返した。義和の子の義光、義光の子の義高、義高の子の義明と続いたが、義明に嗣子がないために、義興流の新田氏惣領家もついに断絶した。
その一方、末子の義宗は義貞の嫡子だったため、1352年の閏2月に武蔵国~相模国で、後醍醐天皇の第3皇子である征夷大将軍の宗良親王を奉じ、前述の北条時行と連携して、足利基氏と畠山国清と戦うも敗れた。その結果、時行は捕虜にされて斬首された(『武蔵野の戦い』)。義宗は宗良親王を奉じ、従兄の脇屋義治(義助の長子)とともに陸奥国に逃れたという。1368年、越後国で義宗は、義治と蜂起したが、上野国利根郡沼田郷[51]で戦死を遂げた[52]。その一方、義治は出羽国に逃れた[53]。
後に義宗の子で前述の貞方(義邦)が1409年または1410年に、外従子にあたる千葉兼胤[9]によって捕縛され、長子の貞邦(貞国)とともに鎌倉七里ヶ浜で処刑されて、ついに新田氏嫡流は断絶した[54]が、前述の義興の子の義和が新田氏惣領家を継ぐ形となった。
シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...
2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...
黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...
“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...
黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...
曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...
麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...
鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...
曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...
曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...
曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...
鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...
ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...
鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...
魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...
甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...
魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...
魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...
高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...