新田義興_(左近衛将監)

ページ名:新田義興_(左近衛将監)
曖昧さ回避この項目では、新田氏上野源氏)の惣領家について記述しています。その他の一門の新田義興については「堀口義興」をご覧ください。

新田義興像(『本朝百将伝』(所蔵:国立国会図書館蔵))

新田 義興(にった よしおき、1330年(元徳2年) - 1358年11月11日(正平13年/延文3年10月10日))は、南北朝時代の武将。官位は従五位下・左兵衛佐・左近衛将監。幼名は徳寿丸。

新田氏上野源氏)の当主の新田義貞の次子、生母は上野国一宮抜鉾神社の神主の天野時宣の娘、義顕の異母弟、義宗・島田義峰(嶋田義央[1]の異母兄、義和の父、義光の祖父、義高の曾祖父、義明の高祖父。妻は一族の糸井政勝(大島周防守)[2]の娘。

概要[]

1337年(建武4年/延元2年)に、北畠家伊勢源氏)の当主の北畠顕家が陸奥国から西進すると、これに呼応して参戦した。しかし、顕家に対抗意識を持っていた父・義貞の不興を買い、以降から疎まれるようになった。

その後、大和国吉野で後醍醐天皇に謁見して、元服した。父の戦死後に、一族の大井田氏を中心とする越後源氏に護衛されながら郷里に潜伏したが、『観応の擾乱』が起こると北条時行[3]らとともに挙兵した。

1352年に宗良親王を奉じて、異母弟の義宗と従弟の脇屋義治とともに鎌倉に進撃するが、遠縁の族父にあたる足利尊氏(高氏)によって撃退された(『武蔵野の戦い』)。

1358年に尊氏が55歳で没すると、一族で岳父でもある前述の糸井政勝[2]と世良田義周こと義同(右馬助)[4]を従えて、再び鎌倉に進撃したが、足利公方家(鎌倉足利家)の当主である足利基氏(尊氏の末子)が一族の関東管領の畠山国清(源姓畠山氏一門)に命じて、武将の竹沢右京亮と江戸高重(遠江守忠重)[5]に武蔵国で迎え撃たせた。両人は少将局という美女を義興に与えて巧みに取り入れて、これを討ち取ろうとしたが失敗に終わった。焦った江戸高重は義興方であった甥の高良(たかなが、下野守)[6]と一族の蒲田忠武に命じて、三百余騎を与えて、義興らを再び招聘させた。10月10日に多摩川付近の矢口渡[7]で、ついに義興・政勝・義同ら主従13人は江戸高良と蒲田忠武の裏切りによって、騙し討ちにされた。享年29。

義興の死後に、朝廷から従三位を追贈された。

義興の後ろ姿

先代:新田義貞新田氏第9代当主1338年 - 1358年次代:新田義和

脚注[]

  1. 晩年の義貞には越前国河合庄の豪族・嶋田勘右衛門の娘との間に産まれた義央(別名:島田義峰)という庶子がいたとする。また、義央は異母兄・義興と共に南朝方として活動し、兄が謀殺されると、多摩川矢口渡付近の住民の頓兵衛の娘・於舟に匿われたという(『児島高徳と新田一族』(浅田晃彦/群馬出版センター/1993年))。
  2. 2.02.1源姓里見氏上野大島氏の庶家の上野糸井氏の一門の糸井義世の子、大島義政の従弟。
  3. 北条得宗家の北条高時の次子。1336年に諏訪頼重らに擁立されたことがある。
  4. 世良田義政の弟、義時の父。
  5. 秩父国造(知々夫国造)の系統である丹姓秩父氏一門の武蔵江戸氏の当主。
  6. 江戸高良は義興を討ち取って、その一週間後に急死した。
  7. 現在の東京都稲城市あるいは大田区の説がある。

関連項目[]



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