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世良田経広像
世良田 経広(せらだ つねひろ、1298年(永仁6年)? - 1361年5月30日(康安元年4月20日)?)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。通称は三郎あるいは次郎三郎。官職は右京亮。陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)の一族で、義光流[1]世良田氏の当主である。惣領家の新田氏の宗教である浄土門(浄土教)を信仰していた。
父は世良田義政(忠氏)[2]、生母は不詳。妻は同族の朝谷義秋[3]の娘。子は有親(左京亮)、孫は親氏(親季/家氏/信氏)・泰親(政親/義英/益氏)・宗親ら。
江戸時代中期の尾張国の文学者・天野源蔵(信景)の『浪合記』、『新田氏根本史料』(千々和実/国書刊行会/1974年)が引用する鑁阿寺所蔵『新田足利両家系図』[4]にその名があり、小説家の新田次郎もそれを参照して、小説『新田義貞』に登場させている。それによると、先祖は新田義重(上西入道)と上野国および武蔵国の遊女との間に生まれた世良田義光(三郎/新田冠者)という。義光は父の義重から疎まれて私生児扱いにされて、土地さえも与えられなかった。これを聞いた義光の異母兄の里見義俊と異母弟の世良田義季[5]が憐れんで父に頼み、義季の領地である世良田郷得川村(現在の群馬県太田市徳川町)の一部を与えさせたという。その系譜によると、義光 ― 義有(光氏) ― 長氏 ― 重氏 ― 義政(忠氏) ― 経広 ― 有親、と続いた。彼の生年は明らかではないが、惣領家の新田義貞より数歳年上と思われる。若くして「相撲人」として義貞に近侍となり、義貞の鎌倉大番役・京都大番役に随伴した。
当時、僧侶であった天台座主・尊雲法親王[6]一行と遭遇して、喧嘩を売られた。法親王はいきなり、配下の赤松真行坊則祐(円心入道則村の三男)を出して、義貞一行を挑発をした。
そこで義貞は一族の経広に命じて、「法親王の配下に無礼を働いてはならぬ」と、釘を刺した。
ここで経広と則祐の勝負が始まり、最初は則祐が有利だったが、コツをつかんでいる経広が巧みに則祐を叩き落とした。法親王一行はこれを異議をとなえて叫び出した。だが法親王は「いや、この突きの手は彼の野見宿禰もよく使用した相撲の基本的な作法だ。別に卑怯でもなく問題はない。われらの負けだ」と褒めて、その場は収まった。
以降も、経広は新田氏一族の身を案じた。1333年7月に同族の足利尊氏(下野源氏の足利氏)と連携した義貞に従軍し、一族の新田満義[7]の副将(部隊長)として、一族の世良田義政[8]・得川家久[9]とともに北条得宗家を中心とした鎌倉幕府を滅ぼして、手柄を立てた。義貞に随伴して、上京し恩賞として後醍醐天皇から右京亮を賜った。
以降の経広の動向は不詳だが、前述の『浪合記』および『鎌倉大草紙』によると、経広の子の左京亮の有親は、1385年12月に同族の世良田政義(左衛門少尉)[10]とその子の世良田政季(修理進)・政満(蔵人/万徳丸)兄弟[11]と同族の大舘氏親[12]ともに信濃国下伊那郡浪合村(現在の長野県下伊那郡阿智村)で足利氏一門の一色・吉良の連合軍と戦って、政季とともに戦死した(『浪合の戦い』)[13]。有親の子の親氏・泰親・宗親兄弟は、政季の弟・政満(蔵人/満徳丸)とともに従者の石川孫三郎[14]の軍勢に護衛されて、三河国賀茂郡松元郷(現在の愛知県豊田市挙母町)にのがれた。翌年に政満は娘を遺して亡くなった[15]。親氏は土豪の葛城姓賀茂氏流松元氏(三河賀茂氏)の当主の松元太左衛門信重の婿養子となって、相続した[16]。
親氏と信重の娘との間には信広(広親)[17]・信光らを生んだ。信光は後に「松平氏」と改称して、三河国の平野に進出して各地を占領して勢力を拡大し、室町幕府の将軍・足利義教に仕官して、その近侍となり、同じく三河国の土豪・戸田宗光(信光の女婿)とともに義教の政所執事である伊勢貞親の被官および国人となった。そして、信光の末裔の松平清康は、世良田氏と復称し、再び勢力を拡大した。その孫の徳川家康の代に徳川氏に改称し、1603年に源氏のみに許された征夷大将軍に就任し、源氏長者となり、江戸幕府を開いた。
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