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曖昧さ回避 | この項目では、新田氏一門について記述しています。その他の氏族については「大館氏」をご覧ください。 |
大舘氏の家紋①(大中黒一つ引き)
大舘氏の家紋②(酢漿草)
大舘氏(おおだちし/おおだてし)は、陽成源氏(河内源氏)流新田氏(上野源氏)一門で、上野国新田郡大舘郷[1]を拠点とした。庶家に綿打氏・金谷氏・関岡氏があった。
新田政義の子の大舘家氏を祖とする。家氏は園田庄の当主である園田秀俊(藤姓足利氏一門)と同族である源姓足利氏一門の岩松経兼とその子の朝兼・政経兄弟と争い、甥でもある惣領家の新田基氏の擁護を受けた。しかし、北条得宗家から園田・岩松の両氏に優位になるような裁定を受けた。
家氏の子の宗貞(宗員)は父に先立って没して、宗貞の子である孫の宗氏が祖父の養子となって、その後を継いだ。宗氏は族子で同時に妻の弟でもある義貞(基氏の孫)に従って、1333年5月に鎌倉討伐で奮戦したが、『極楽寺の戦い』で北条得宗家一門の大仏貞直の配下の本間山城左衛門の軍勢に稲瀬川付近で討ち取られて、壮絶な戦死を遂げた。享年47。
その子の氏明が後を継ぎ、彼は義貞の族弟で同時に外甥(姉の子)でもあり、左馬介に任じられた。1336年正月に病床にあった義貞の代理として、族父の江田行義(行家)とともに北畠顕家(村上源氏北畠家(伊勢源氏)の当主の北畠親房の子)に従って、弟の幸氏・宗兼・氏兼・時氏らを率いて奮戦し、義貞の族弟である源姓足利氏の惣領家の足利尊氏(高氏)についた佐々木氏頼(宇多源氏流佐々木氏(近江源氏)一門)の居城である近江国の観音寺城を陥落させ、ついでに、足利一門の細川定禅が籠城する三井寺を急襲する作戦を提案して採択された。さらに『湊川の戦い』では赤松則村(円心入道)と激戦した。ついで氏明は義貞に随伴して、後醍醐天皇の比叡山行幸に供奉している。
しかし、1338年7月に族兄の義貞が『藤島の戦い』で、足利氏一門の細川孝基(出羽守)・鹿草兵庫助公相(彦太郎)らが率いる軍勢と遭遇して、越前国藤島の灯明寺畷で戦死を遂げると、新田氏は一気に劣勢の立場に陥った。氏明は族兄で、外叔父(母の弟)の脇屋義助(義貞の弟)に従って、伊予国にわたって味方の忽那義範らに檄を飛ばしたり、越智姓河野氏一門の土居氏・得能氏と連携するなど南朝方として奔走し、その功績を称賛した後村上天皇(後醍醐天皇の皇太子)によって、氏明は伊予国守護に任命され、伊予国司の四条有資(藤原北家魚名流の四条家一門)らと共闘した。しかし、脇屋義助の病没後、南朝方は劣勢となり、1340年9月または10月に北朝方の足利氏(下野源氏)一門の細川頼春の軍勢に世田城を攻められて、氏明は弟たちと長男の氏宗とともに自刃して果てた。享年37。
まだ年少であった4歳の氏明の次男の関岡氏清は、幼い三男の義冬と四男の金谷成氏と嬰児であった甥の氏親(氏宗の遺児)[2]を抱えた郎党に護衛されながら辛うじて逃れて九州の豪族に匿われていたが、北朝方の佐々木氏流六角氏一門の京極高氏(道誉入道)の斡旋によって、兄弟は足利将軍家(源姓足利氏)の同族の誼で、室町幕府へ仕えた。特に義冬は京極高氏の娘を娶り、近江国浅井郡草野庄[3]を与えられ、治部少輔に任じられて、要職である四職に就いた。
このために義冬の系統は、室町幕府の政所奉行人として活躍していた。とくに義冬の孫の満信(氏冬/祐善入道)は足利義満(尊氏の孫)の親衛隊として組織された五ケ番衆の第五番衆の番頭をつとめたが、足利義教(義満の子)の不興を買って失脚して、72歳で没した。
しかし、それでも大舘氏一門の多くは奉公衆に所属した。また、義冬の孫の満冬(満信の弟)の娘の今参局は足利義政(義教の子)の乳母となり、女性でありながら政界に威を振るったことで有名である。
申次衆としての活躍もみられ、満信の曾孫の尚氏(重信/常興入道)は内談衆となり、足利将軍家の側近として重きをなし、武家故実にも精通し、義光流甲斐源氏一門の小笠原氏(信濃源氏)と伊勢氏(桓武平氏流伊勢平氏一門)とともに並ぶ故実家でもあり、『大舘常興日記』・『大舘常興書札抄』を著した。尚氏は80余歳の長寿を全うしたという。
戦国時代には、尚氏の子の晴光が将軍の足利義輝(義教の曾孫)と上杉謙信(長尾景虎/政虎/輝虎)[4]との間の交渉の調停に携わっている。
江戸時代初期には、晴光の甥である晴忠の娘が大草公正[5]に嫁いで、彼女と公正との間の娘が、大舘氏の遠縁筋の徳川秀忠の正室の於江与の方(崇源院/小督)の侍女をつとめたので、晴忠の子である治部大輔の信氏(大草公正室の弟)は姪の縁故で秀忠によって、高家旗本となった。しかし、信氏の子である刑部大輔の信政の代に嗣子がなく、ついに大舘氏は断絶した。
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