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反乱を起こした平将門
平 将門(たいら の まさかど、?[1] - 940年3月25日(天慶3年2月14日))は、平安時代中期の坂東(関東)地方の土豪・武将である。通称は「相馬小次郎」。自ら「新皇」[2]と僭称して、朝廷に反乱を起こして、母方の従兄・平貞盛と藤原秀郷[3]らに討たれた人物として著名である。
平直良の孫[4]、下総国目代[5]・良将(良持/良門/良邨/良村)の子、生母は高望王(平高望)の娘[4]、兄は将持(早世)、弟は将平。妻は犬養春枝の孫娘[6]と平良兼[7]の娘。子は重門・将時・将国・千世丸(夭折)・平忠頼[8]室、甥は将弘(将広[9])・将文・将武・将為(将種[9]、いずれも将持の子)兄弟と将頼(将貞)・将兼(いずれも将平の子)兄弟ら。
兄の将持が早世したため、実質的な長男として育てられた。生母の影響で、外祖父の高望王を尊敬しながら、成長していった。
もともと、祖父の直良は「平姓」を冠とした武蔵国入間郡・秩父郡・児玉郡西部(旧賀美郡)にわたって繁栄した土豪である丹姓(丹治/丹治比[10])出自であり、想像以上に朝廷内の将門の身分は低かった。ただ、生母が高望王の娘だったので、下総国の目代で、豊田郡・猿島郡を本拠地とした父・良将の委託[11]を旨に、若くして上京して摂関家(藤原北家)の関白・藤原忠平に仕えて、その家人となり奉仕に務めた。
将門自身は皇族出身の高望王を外祖父に持つも、藤原氏の政権下では「滝口の衛士」でしかなく、官位は低かった。将門は12年ほど在京し、当時の軍事警察を管掌する検非違使の佐や尉を望んだが、忠平から「氏素性がわからぬ坂東の田舎ムジナには度が過ぎようぞ。そなたは一刻も早う坂東に帰ったほうがよいのではないかのう?」と嘲笑されて、こうして将門は将来の官位の望みを断たれて、絶望して坂東に帰った。
帰途中の将門に対して、母方の伯父である鎮守府将軍・常陸大掾の平良望(国香王)と父方の伯父の平良兼らが、突如に武蔵国の渋谷川[12]で将門を襲撃し、仲が良かった叔父の平良文[13]が将門を援護し、両者は激戦となった。さらに前常陸大掾の源護(仁明源氏)と常陸国新治郡[14]の土豪・平将衡[15]が領地をめぐって騒動を起こしたために、将門がその介入したため、よけいに混乱してしまい、このような問題は朝廷も見過ごすことができなくなった。
935年3月14日(承平5年2月4日)に将門は源護の子である源扶・隆・繁兄弟らによって、常陸国真壁郡野本[16]で襲撃されるが、かえって将門はこれを撃退し源扶兄弟らは討死してしまった。さらに扶に呼応した母方の伯父である良望も撃退し、良望は自邸で火を放って自害した[17]。
そのまま将門は大串・取手(下妻)から護の本拠である真壁郡へ進軍して護の本拠を焼き討ちした。同年10月、源護の外孫である母方の従兄の平良正(良盛/兼任、良望の3男)は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲に陣を構えて将門と対峙するが、良正の軍勢も将門に撃破され、良正は義理の叔父である良兼に救援を求め、前述の襲撃以来しばらくは静観していた良兼も、妻の兄である良望亡き後にこれを放置できず、良望の長子で良正の兄である貞盛・繁盛兄弟を誘って軍勢を集め、936年8月6日(承平6年6月26日)に上総国を発ち将門を攻めるが、将門の奇襲を受けて敗走し、下野国の国司を頼った。将門は下野国国府を包囲するが、一部の包囲を解いて、あえて伯父の良兼を見逃して、間もなく国司と交渉して自らの正当性を認めさせて帰国した。
同年、息子を将門に討たれた源護によって出された告状によって、朝廷から将門に対する召喚命令が出て、将門と平将衡らは平安京に赴いて検非違使庁で訊問を受けるが、937年5月14日(承平7年4月7日)の朱雀天皇の元服の恩赦によって、全ての罪を赦される。帰国後も、将門は伯父の良兼を初め多くの一族と対立し、8月6日には良兼は義理の甥・貞盛兄弟とともに将門の亡父・良将や外祖父の高望王など父祖の肖像を掲げて、将門の常羽御厩を攻めた。この戦いで将門は敗走し、良兼は将門の妻であった自身の娘とその孫を奪い返して連れ帰った[18]。
以前の前例があるように将門は朝廷に対して自らの正当性を訴えるという行動に出た。そこで朝廷は同年12月15日(承平7年11月5日)に1つの太政官符を出した。従来、この官符は平良兼、平貞盛・繁盛・良正兄弟、源護らに対して出された将門追討の官符であると解釈されてきたが、前後の事実関係とのつながりとの食い違いが生じることから、これを公的には馬寮に属する常羽御厩を良兼・貞盛らが攻撃してしまったことによって良兼らが朝廷の怒りを買い、彼らへの追討の官符を将門が受けたと解釈する説が有力となっている。いずれにしてもこれを機に将門は良兼らの兵を筑波山に駆逐し、それから3年の間に良兼は病死し、将門の威勢と名声は坂東一円に鳴り響いた。
939年3月(天慶2年2月)、新たに武蔵国に赴任した権守である皇族系の興世王[19]と源経基[20]が、同国足立郡[21]の郡司・武蔵武芝との紛争に陥った。これを見た将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。京に到着した経基は将門・興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えた。かつて将門が仕えた太政大臣・藤原忠平が事の実否を調べることにし、御教書を下して使者を東国へ送った。驚いた将門は上書を認め、同年5月2日付で、常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「反乱は事実無根」との証明書と金品が入った賄賂そえて送った。これにより朝廷は将門への疑いを解き、逆に経基は誣告の罪で罰せられた。将門の関東での声望を知り、朝廷は将門を叙位任官して役立たせようと建議していたようである。
この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守・百済貞連と不和となり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた土豪の藤原玄明[22]が庇護を求めると、将門は玄明を匿い常陸介・藤原維幾[23]を主とする常陸国府からの引渡し要求を拒否した。さらに939年(天慶2年)11月21日に、将門は軍勢を集めて常陸府中へ赴いて、玄明の追捕撤回を求めた[24]。維幾を中心とする常陸国府はこれを拒否するとともに、宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うことになり、将門はわずか1千人余の軍勢を率いて国府の軍勢の3千人をたちまち打ち破り、常陸介・藤原維幾はあっけなく捕虜にされた。国司は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。結局この事変によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻す結果となってしまう。将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム」との進言を受けて、同年12月11日に下野国に出兵し、事前にこれを察知した下野守の藤原弘雅・大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出したが、将門は彼らを国外に放逐した。続いて同月15日には上野国に出兵し、迎撃に出た上野介・藤原尚範[25]を捕らえて助命する代わりに印綬を接収してこれまた国外に放逐し、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めて「新皇」[2]と僭称するようになり、独自に除目を行ない下総国・岩井に政庁を置いた。即位については、末弟の将平や郎党の伊和員経らがこれを諌めたたが、将門はこれを聞き容れなかった[26]。
こうして、「将門の反乱」の報はただちに京の朝廷に急報され、また、同時期に西国で前伊予国国司の藤原純友(忠平の族子)が反乱を起こした報告もあり、朝廷は驚愕する。直ちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、翌940年2月19日(天慶3年1月9日)には、源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて彼には従五位下に叙され、1月19日には68歳になる藤原式家一門である参議・藤原忠文が征東大将軍に任じられ、忠文は屋敷に帰還する暇もなく討伐するために出立したという。
同年1月中旬、坂東では、将門が5千人の軍勢を率いて常陸国へ出陣して、貞盛[27]・繁盛・良正兄弟と亡き良兼の子である致兼(むねかね)[28]・致時(むねとき)[29]兄弟、維幾の子・藤原為憲[30]の行方を捜索している。10日間に及び捜索するも貞盛らの行方は知れなかったが、貞盛の妻と源扶の妻を捕らえた。将門は兵に陵辱された彼女らを哀れみ着物を与えて帰している。将門は下総国の本拠へ帰り、多くの兵を本国へ帰還させてしまった。このことが将門が非業の末路にたどる要因となった[31]。
間もなく、貞盛兄弟が下野国押領使の藤原秀郷と力をあわせて4千人の軍勢を集めているとの報告が入った。将門は諸国から召集していた軍兵のほとんどを帰国させていたこともあり手許には1千人足らずの軍勢しか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて2月1日を期して貞盛兄弟と秀郷の討伐に向かった。将門の副将・藤原玄茂[32]の配下である多治経明と坂上遂高らは貞盛兄弟・秀郷の軍勢を発見すると将門に報告もせずに攻撃を開始するも、元来老練な軍略に長じた秀郷の采配によって玄茂の軍勢はたちまち間に敗走した。貞盛兄弟・秀郷の軍勢はこれを追撃し、下総国・川口で将門の軍勢と激戦した。将門自ら陣頭に立って奮戦したために貞盛兄弟・秀郷らもたじろぐが、時が経つにつれ数に勝る官軍に将門の軍勢は押しまくられ、ついには退却してしまった。
この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけるために下総国幸島郡の広江に潜伏した。しかし、貞盛兄弟・秀郷らはこの策には乗らず、勝ち戦の勢いを民衆に呼びかけして、兵を集め、平致兼・致時兄弟と藤原為憲も加勢し、2月13日に将門の本拠地である下総国・石井に攻め寄せ、その館を焼き払う「焦土作戦」に出た。これによって民衆は住処を失い路頭に迷うが、追討軍による焼き討ちを恨むよりも、将門の「悪政」を嘆いたといい、既に民心は将門から離れていた。当の将門は身に甲冑をつけたまま貞盛兄弟らの追及をかわしながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集するが形勢が悪くて思うように集まらないために攻撃に転ずることもままならず、わずかな手勢4百人を率いて下総国幸島郡の北山を背に陣をしいて味方の援軍を待った。しかし、味方の来援よりも先にその所在が貞盛兄弟・秀郷の知ることになり、将門は寡兵のまま最後の決戦の時を迎えることになった。
2月14日未申の刻(午後3時ごろ)、貞盛兄弟と秀郷の連合軍と将門の戦いがはじまった。冷たい北風[33]が吹き荒れ、将門の軍勢は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。中陣・貞盛兄弟の軍勢が奇襲をかけるも撃退され、貞盛兄弟・致兼兄弟・秀郷・為憲の軍は撃破され、2千9百人の軍隊が逃げ出し、わずかに精鋭3百余を残すこととなってしまう。しかし、勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中で、急に風向きが変わり生暖かい南風[34]になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あっけなく討死してしまった。
同時に将門の子である重門・将時兄弟をはじめ甥たちのほとんどが討たれ、皇族の興世王と藤原南家の庶流の藤原玄明・藤原玄茂兄弟も討たれてしまった。ただ、末弟の将平の動向は不詳である。また、将門の第3子である将国・将頼・重門兄弟は遅くして駆け付けた大叔父の良文の一族と、将門の郎党である上記の秀郷とおなじ魚名流の藤原国豊[35]・清名[35]父子と藤原玄明の子・連国[36]らに担がれて「二代新皇」を称し再興を図るも、守る将兵や乳母らとともに常陸国信太郡浮島郷まで落ち延びたと伝えられる[37]。その後、征東大将軍・藤原忠文が坂東に到着したが、すでに将門らは壊滅された後であった[38]。
将門の首は平安京へ送られ、晒し首となった。獄門が歴史上で確認される最も古い確実な例が、この将門である。そのために将門の反乱は、ほぼ同時期の瀬戸内海での藤原純友の反乱と共に、『承平天慶の乱』と呼ばれた。
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