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平良兼像
平 良兼・良致[1](たいら の よしかね/よしむね、? - 939年7月(天慶2年6月))は、平安時代中期の武将。通称は上総太郎あるいは、上総次郎[1]。官位は従六位下・上総権少掾。
丹姓平氏の棟梁である平直良の庶長子あるいは次男で、生母は家女房である[1][2]。同母弟に良広、異母弟に良将・良文らがいる。
898年(昌泰元年)に義理の伯父[3]である高望王が上総介に任じられると、その代理として高望王の長子である良望(国香王)が目代として赴任するときに、異母弟の良将らとともに随伴した。
上総国武射郡[4]を本拠地とした。良兼は常陸大掾・源護(嵯峨源氏/仁明源氏)の娘を妻に迎えて、義理の母方の従兄で相婿でもある良望とともに坂東地方に勢力を拡大した。父が亡くなると庶長子でありながら、その後を継いだ。
同時に異母弟の良将・良文とは生母が異なることもあり、若いころから仲が険悪であった。良将が兄に先立って逝去した後も、後を継いだその次男で甥の将門・将平兄弟とも抗争を繰り返した。
935年3月14日(承平5年2月4日)に、母方の従兄である良望が義弟である源扶(源護の息子)兄弟らの抗争に巻き込まれ、自邸に火を放って自害したときに良兼は中立の立場を取って、不介入であった。しかし、義理の従子で良望の子である繁盛・良正(良盛/兼任)兄弟が「父の仇!」と称して、外従弟の将門を討伐してかえって敗走してしまい、坂東地方の戦乱が混乱すると、良兼は重い腰を上げて、甥の将門に対して宣戦布告をして、反将門の中心的存在となった。
良兼は父・良望を自害に追い込んだ外従弟・将門との和睦を検討した繁盛・良正兄弟の兄である義理の甥の貞盛を批判・説得して味方に引き入れて、下野国に進撃した。936年7月(承平6年6月)に良兼は、貞盛兄弟とともに下野国境で圧倒的な軍勢を率いて、甥の将門と戦うが、将門の勢力に押されて敗走して、下野国国府に退却した。将門によって国府は包囲されるが、伯父の良兼に対して肉親的な情を察した将門は包囲を解いて、伯父の良兼を逃した。
その後、子の扶兄弟が将門によって戦死してしまった源護が朝廷に告訴したことで、将門は京に召喚され、かつての主君である関白の藤原忠平(藤原北家)らの裁きを受けた。しかし、将門は937年5月(承平7年4月)に、朱雀天皇元服の大赦で無罪となり、5月に坂東地方に帰還した。同年9月16日(承平7年8月6日)に、良兼は貞盛兄弟とともに将門の父・良将と、将門が尊敬する外祖父・高望王などの木像を奉じて、怯んだ将門の本拠地の常羽御厩を攻撃して、今度は将門を敗走させて常羽御厩を焼き討ちした。しかし、兵を再編した将門に反撃を受けるが、再び将門を敗走させた。そのときに、将門の妻である娘を取り返して、上総国に連れ帰った。だが、良兼の娘はひそかに潜伏した将門の間者に手引きで同年10月20日(承平7年9月10日)に再び出奔し将門の元に戻ってしまった。これを聞いて激怒した良兼は娘を勘当した。
その後も、良兼は甥の将門と抗争が続いた。同年12月15日(承平7年11月5日)に今度は将門の告訴に応じた朝廷によって武蔵国・安房国・上総国・常陸国・下野国・上野国などに良兼ら追捕の官符が下ってしまう。このことより、甥の将門は伯父の良兼とは公的に立場が逆転し将門は勢力を増大した。しかし、坂東地方の各地の国司は官符を受けても、良兼・将門一族の骨肉の争いに介入することを躊躇して動くことはなかった。
そんな状況で、良兼は938年1月17日(天慶元年12月14日)に、甥の将門の駈使である丈部子春丸を買収して、下総国猿島郡石井[5]の営所の内情を探って、夜襲をかけるも報告を受けた将門に逆襲されて敗走し、以降から良兼の勢力は衰退した。
939年7月(天慶2年6月)に、良兼は病死した。
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