Episode Ⅵ(飽きとの決別)

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ギリギリな状況の中で原状を繋げることが出来た。

パイントグラスに注がれたバスペールエールで祝杯を挙げ今日の勝利を噛み締めていた。

 

つまみはフィッシュ&チップスとミックスナッツ。

フィッシュ&チップスはこの店の名物だった。

モルトビネガーをたっぷりとかけたフィッシュフリット。

添えられたポテトにはタルタルソースをたっぷり付けて頬張りながら冷たいビールを流し込んでゆく。

 

数ヶ月ぶりのまとまった勝利。

以前は月に数回この程度の勝負をして1回以上は勝利することが日常となっていたが最近はすっかりツキをなくしていた。

 

ビールを飲み干し、フィッシュアンドチップスをあらかた食べつくすと少し強い酒が欲しくなりカウンターに新しい酒を頼みに行った。

その店はシングルモルトウィスキーの種類もそこそこ豊富だったがバックバーの隅ににポール・ジローを見つけた。

 

グランドシャンパーニュにある小さな農園で作っているシングルモルトブランデーだ。

ぶどうの剪定や収穫、畑の管理から醸造・蒸留・樽詰・熟成まで全てたった一人の老人が作り上げている。

少し高価な酒ではあるが今日を祝うのに最もふさわしく感じた。

店員に売り物なのか確認をするとやはり店主のプライベートボトルのようだったが快く価格の無い酒を破格の値段で振舞ってくれた。

幸運に感謝しつつストレートで頼む。チェイサーにはクラッシュアイスを入れて貰った。

 

素晴らしい瑞々しさと成熟した香りを持つ美しく香貴な液体。

軽く唇を濡らした程度でも深い満足感を得られる。

 

「そろそろ潮時なのだろうか?」

 

ギャンブル自体の潮時も当然考えるべきだ。

しかし、それ以前にダラダラと惰性で繰り返すギャンブルを辞めて本当の勝負をする必要性を感じていた。

今回、ある程度の資金を確保出来たことによりこれでようやく本当の勝負が出来るかもしれない。

今日の勝ちにより以前から抱いていたストレス。

それを打開する為のアイディアを実践するタイミングがきたのかもしれない。

 

ギャンブルは本来は金を得るという目的に対し純粋であるべきだ。

しかし、多くのギャンブルはいつしか目的を見失いその行為自体に意味を見出して行く。

 

勝てなければ当然金は減る。

金を増やすことに純粋であればギャンブルを辞めることがその答えになる。

別のもっと安定した投資を選択しその目的を追求すればよいのだ。

 

世界で自分を超える人間が居なくなった後にもその道のプロフェッショナルは更なる技能を向上を目指し日々鍛錬を繰り返してゆく。全盛期のタイガーウッズしかりイチロー然りだ。

今の自分を超える為に定量的な目的を持たずにその鍛錬を繰り返す継続的な行為を「熟達」と呼ぶらしい。

行為が目的化した時、プロはプロとなり更に高みを目指すが、ギャンブラーが目的を忘れ熟達を目指すと単純に歯止めが効かなくなるだけだ。

 

目的を忘れたギャンブラーの貨幣価値はギャンブルに参加する為に必要なゲームコイン程度だ。

完全に壊れている。

自分自身が課した制約により貨幣流通バイアスを受けギャンブルに参加することが何よりも最優されてゆく。

その時々で自分に最適な額を掛けることはギャンブルには必要な前提である。

手許の金が多ければ大枚を叩き大胆なギャンブルを楽しむ。

手許の金が乏しくなるとせこいギャンブルでしのいでいるだけだ。

金に血の通った意味や、価値は無くゲームに極力有利な状況で参加するためにギャンブラーは倹約に勤しむ。

全てはゲームに捧げられてゆくのだ。

 

「ギャンブルで金を稼ぐことは不可能なのか?」

 

多くの人間にとっては考える以前の話だ。

ギャンブルに期待し取り組み続けた人間であっても多くの人間は直ぐその答えを察し静かに付き合い方を変えてゆく。

しかし、異常者である我々はその答えが明確になっても常に暫定的な結論として受け流し曖昧に期待し続けギャンブルを継続する。

そしてこれら前提を踏まえてもギャンブルとは自分の資産を捨てることと同義では無い。

あくまでも流動性に晒すことが揺るがない前提なのだと思う。

 

「そこに楽しみがあるのか?」

 

残念ながらもはや楽しみというレベルには無いのだろう。

 

どちらかと言えば苦行や祈りに近いものなのかもしれない。

光明を求め修行を継続する僧侶のように真理を求め悟りを啓くために苦行に身を投じる。

純粋にその道を進むことは出来るが様々な欲求の充足を目的にギャンブルに取り組むにはギャンブルはあまりにもつれない。

そして身も蓋もなく不条理で継続性がないのだ。

 

「ゲームの終わりは?」

 

勝率は本来は勝つか負けるかの2択(50:50)であるべきだと考える。

しかし、だらだらとゲームを重ねればハウスエッジ(テラ銭)を始め様々な要素の影響を受け確率の奴隷となってゆく。

 

ギャンブルとは常に次のワンゲームに自分自身の全てを投じる事が出来る事が前提条件である。

故にその前提を持たないスロットマシンやパチンコ等はギャンブルでは無い。

 

開始と終了があり投資額はプレイヤーが覚悟を持ち事前に設定し固定される。

そして、その1回だけのゲームに全てを捧げられる必要があるのだ。

 

たった一度の刹那。

前提を純化すれば確率の制約は限りなく無化され勝つか負けるかに単純な二択に限定する事は可能だ。

今のオレにはそういう純化された勝負をする必要があった。

 

ダラダラとした求道的なギャンブルから得られるものはもう残されていないように感じ始めている。

 

一瞬の刹那に自分自身の全てを掛ける。

正しい勝負の結果からしかもう正しい啓示を期待する事は出来ないように感じていた。

今、そういった勝負をする必要がありおそらくすべきなのだ。

 

負けを確率として折り込むと勝利も確率に集約されてゆく。

リスクヘッジを考えた時点で勝負はその純粋さを失う。

落馬があろうが出遅れようがそんなアクシデントなんて関係ない。

暴力的なほど理不尽で不条理な不確実性に身を投げ自分の全てを捧げなければこれまで全てを失いながら続けてきたこれまでの行為が全て無になるように思っていた。おそらく追い込まれているのだ。

 

今日、オレ自身の存在価値は15万円に集約された。

ほぼ無価値であると定義される程に追い込まれているのだ。

 

そしてそれは今日多少勝った所でたいした意味は無い。無価値なままだ。

15万円を50万円にした以上の意味はない。

50万円を500万円にすることの意味も本質的にはおそらく一緒だろう。

重要なのは全てを掛けるという前提で挑む勝負にありその行為のみに価値があるのだ。

 

今回の勝利で明確に理解した。

 

全てを投じて勝負をする以外に出口はない。

その勝負はたった1回。最後の勝負だ。

 

現時点ではこの生活から脱出することを望んでいるのかすら判らなくなっている。

しかし、確かなことはこの生活に対し飽きを感じ始めているということだけだ。
 

飽きは生きてゆく上で最も恐ろしい存在だ。

かつて情熱を掛けて取り組んだものやかつて大切にしていたものを腐食し壊死させていく。

飽きから逃れることは出来ない、飽きの前では我々は無力だ。

かつて愛情を注ぎ大切にしていたかけがえのないものから魔法のように全ての興味を奪ってゆく。

一生を掛けて関係性を維持したとしてもそれは形骸的なもの、少しずつその中身は変容している。

やがて全てから色を奪い無意味な惰性にその価値を落としてゆく。

 

おそらくその勝負に負ければ今とは異なる次の段階に連れてゆかれるのであろう。

それはどのような意味を持つのか判らない。

おそらくそれは今考えるべきことではなく勝負が決した後に考えるべきことなのだろう。

 

No Futureでは決してない。

Not Know Futureということだ。

 

飽きから逃れる為にはそこから立ち去る以外の方法はない。

その場所を離れてまだ見ぬ遠い離島へ、砂漠へと旅立つ以外の方法は無いのだろう。

ここではない場所に再び旅立つ覚悟をする時が来たのだ。

 

俯瞰して見ればたかだか50万円程度の勝負ではある。

それでもオレはオレのすべてを掛けて勝負することを決意していた。

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