Episode Ⅲ(かつての仕事)

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かつてと言って良いのかは判らないが「エンジニア」という肩書で長い期間働いていた。

 

最終的にはそこそこの規模に育ったITベンチャーにそれなりの期間所属していた。

結果的にそこそこの評価を得て満足に足るだけの待遇で勤務する事が出来た事は今思えば非常に運が良かったことのように思う。

 

大学を卒業した後、やりたい事も見つからずなんとなく就職をせずなんとなくバイト中心の生活を過ごしていた。
当時、フリーターと呼ばれる階級に所属しながらモラトリアムを謳歌していた。
今思えば今の生活に近いのかもしれないが何も無い混沌とした時代。

 

オグリキャップが有馬記念を勝利し引退した年、初めて競馬を覚えた。

大学に入学したての頃、折からの競馬ブームで多くの友人が熱狂していた。

調布のファミレスで土曜日の夜に友達と集まり朝まで予想して朝から東京競馬場に行くのが毎週の恒例行事だった。
そんな生活は大学を卒業した後も細々と続いたがナリタブライアン、ヒシアマゾンの有馬記念以降、皆それぞれの現実に戻っていった。

 

有り余る時間に任せてバイトに明け暮れ金回りも悪くも無かった。

バブルは崩壊していたが今思えばそんな生活を送れる程には日本も豊かで良い時代だったのだろう。
競馬をし、麻雀をし、たまに友達のイベントがあればクラブでフラフラ。
友人もそれなりに居たような気もするし、楽しかった気もする。しかし今思っても何もない無為な日々。

 

その頃はとにかくコンプレックスに向き合う時間が多かった。

大学を出た後は、年を重ねる度に自分の可能性が限定されその存在が軽くなってゆく。

社会に上手く参加出来ず根拠の無い自信を傷つけられることを恐れていた。

誤って発達した過度な免疫系は外部から身を守る為にワークせず自らを傷つけていった。

その時期はその時々で一緒にいる女性の態度から自分の社会的な評価を探っていたように思う。

 

当時付き合っていた雑誌社で編集をしていた彼女の回りには正しく素敵な大人が沢山いた。
可愛らしく若い彼女がそんな周囲の大人たちへ感じる憧憬を察し、何も提供出来ない自分との絶対的な差を理解しながら何の努力もできずにジリジリとした焦燥感に焼かれていた感情を今でもリアルに覚えている。

 

将来への不安とコンプレックスはオレを酒に溺れさせていった。

仕事をする熱意も無く短絡的に自暴自棄になっていただけの無為な時間。

当時付き合っていた面倒見の良い優しい彼女の存在に甘えていた。

仕事を半年もせずに決しては楽ではない経済状態の彼女に依存し続ける最低の時間も過ごした。

 

そんな日常に疲れはてた頃、友人の紹介で当時設立したばかりのベンチャー企業に入社することができた。

 

その会社に入社する以前、スティーブ・ジョブスがAPPLEを追われた頃に最初のMACを購入した。

理由は単純で、万馬券をそれなりの金額購入していた事と何もない自分に何かを与えてくれるような気がしたからだ。

 

当時はまだ個人でPCを保有している人間も少なく、PCを持っているという理由だけで友人が深く考えず紹介してくれ、採用担当者もあまり深く考えずに採用してくれた。

ITバブル前後にそんなチャンスをもらえたことは今思えば幸運だったし何が欠けてもこの偶然が成立し無かったようにも思うと改めて幸運だったと思う。

 

しばらくアシスタント的な業務を担当しつつも独学でプログラムを覚えていった。

 

判らない事の多くは全てサーチエンジンが教えてくれた。

元々合理的なタイプで物事の文脈を把握する能力もあったらしい。
必要な情報を短期間で探し得られた情報を整理検証し最適な回答を短時間で得ることが出来た。

この能力のお陰で学習効率は著しく向上し短期間でそれなりに仕事ができるようになっていった。

 

その後、アシスタント業務を外れてプログラマとして働いた。

仕事も、人当たりも、コミュニケーション能力もプログラマという人種の中ではまともな方だった。

長い間のフリーター生活で得られたコンプレックスと謙虚さが必要なコミュニケーション能力を与えてくれえたようにも思う。

プログラマという職業の人間のコミュニケーション能力はオレの感覚的には廃人並で、偏差値の低い学校の秀才という評価を頂けるポジションは非常に楽ではあった。

 

プログラマは自閉するには最適な職業ではあったが自閉していると仕事にはなら無かった。
能力の有る人間は自分の仕事が合理的に進むよう最低限のコミュニケーションを取っていた。
無能さを感じるエンジニアはコミュニケーションを遮断し続け静かで大人しくはあったがとても偉そうだった。
しかしそう感じた人間はもれなく知らぬ間にいなくなっていた。

 

その当時、その会社で実施されるプロジェクトの多くは当たり前のように炎上していた。

要件が決まらず設計が決まらず製造現場が混乱を来しスケジュールは遅延してゆく。
問題が発生しても原因を究明せずに増員しか術を知らない知識不足のマネージャ陣。
コミュニケーションロスにより発生している混乱が増員したことにより更に拡大し問題は問題を連鎖していった。

更に生産性は落ち、品質にダメージを与え採算性の悪化は留まることは無かった。

遅延するだけならまだ良い。

しかし当然に完成したシステムは品質を最悪させ手の施しようのない程の瑕疵(バグ)を内在していた。

完成とは呼んでは行けない状況のシステムを顧客の信頼を失いつつも無理くり押し込みその後の保守作業で少しづつ治してゆく。典型的なデスマーチ。最悪の状況が続いていた。

その状況下で赤字を補填する為にベンチャーキャピタルから資金を調達し続けた社長の苦労とストレスは半端のないものだったのだろう。

 

そんな状況の中で仕様認識の齟齬によりとあるプロジェクトに重大な問題が発生。

新しい火の手が上がった。

圧倒的に人員が不足しているタイミングで消化を担当するスタッフもおらずプロジェクト管理部門への転籍の打診を受けた。

当時は断るという発想も無かったので言われるままオファーを受諾し出来ることをしていった。

 

火事場でアシスタントを必要とする戦犯であるプロジェクトマネージャーは概ね計画性がなく技術力も無い無能な人間かシニカルな人間だった。
インテリジェンス機能のないネットワーク装置のように非効率にメンバーに仕事を丸投げを繰り返しプロジェクトが遅延し始めると全ての問題は他のメンバーの責任にすり替わった。

メンバーから提示される問題報告には「どうリカバリーするの?」と繰り返すのみ。

課題解決すら丸投げし責任を回避し問題の本質に触ることを避けているようだった。

 

プロジェクト内の人間関係を含めて最悪の状態が続いていた。

プロジェクト管理部門へ加入した当初は見習いの身分でこれら無能な先輩の指示に奴隷のように従い必要な作業を担当していった。その頃が最も激務で不規則な生活を強いられた。

しかし、半年足らずの時間の中で対象プロジェクトに一先ずの目処を立てられた頃にはある程度の知識と周囲からの信頼を得られていた。
特にプログラマチームからの信頼はプロジェクトマネジメントを行う上で最も重要な前提で、彼らに対し敬意を持たない先輩との対比でここでも漁夫の利を得た感じになっていた。

 

そのプロジェクト完了以降は、上司に改めてフォーマルに相談をして極力一人で担当出来る範囲の小さなプロジェクトを担当させてもらうようになった。

小さなプロジェクトは見通しも良い為、効率よくトラブル無く進行する自信があった。
それらのプロジェクトを数多くこなすことで会社が求める以上の高い利益率を出す自信もあった。
何よりもこれ以上無能な先輩と組まされ徒労感を味わうことだけは避けたかった。

一人でプロジェクトを担当するようになるとやはり自分向きの仕事であると実感した。
様々なジャンルの仕事を通じて多様な知識が身についてゆく事で知的好奇心は充足され一つ一つの仕事を通じて顧客との信頼関係も強化された。

信頼とは非常に合理的な条件で積み上げれば積み上げるほど仕事の効率は上がり問題は減り利益率は上がった。

計画性さえあれば多くのトラブルを未然に防ぐ事は容易で必要なことが考えなければならないタイミングで丁寧に考え抜く事だけだった。

確実な定義と不確実性を含む定義分類し、不確実性の高い定義には想定ケースと代案を必ず事前に準備する。

顧客や上司に丁寧にそして早めに相談をし速やかな決断を促す事で多くの問題は解決していった。

 

プロジェクトを担当するチームメンバー各々の能力を把握した上で適切な仕事の設定を行う事も重要だ。
又、案件進行上発生する各種問題に対してはメンバー各々より共有し易い関係性を構築し速やかに丁寧に対処をしていった。

 

多くの課題を速やかに整理し、各々が取るべき責任の範囲に正しく収めれば関係者全員が合理的で協力的な関係性を作る事は可能で概ね参加メンバーも満足していた。

正しい計画と健全な協力関係を持ったチームでトラブルが発生することはほとんど無かった。

 

複数人数が関わる仕事なので当然時間拘束も多かったが、要領良くこなしていくと然程時間を掛けずに対応を行えた。
様々なドキュメントテンプレートを整備する等多くの工夫をして効率を上げてゆくと、無能な先輩が1か月かける仕事を1週間以内には完了できるようになった。
外に出る機会も増えた為、顧客との定例MTGをあえて19時前後に終了するようにすれば週に2日は早い時間から直帰する事もできた。

プロジェクトメンバーからも上司からも自然とそれを許容された。

 

そんな日々の中で会社から無能な人間が去り新しく優秀な人間が入社してくる。

そして、後輩達がそれなりに成長してゆく過程の中で会社の業績は良化していった。

 

その頃にはプログラムを一切書かず設計すらも直接担当しないようにしていた。

その後の仕事は多くのプロジェクトを俯瞰し上手くいくように支援する役割を担っていた。

直接指導する後輩を何人か抱えて彼らを軸として様々なプロジェクトを担当してもらい、後輩たちへの指導は支援という形でより間接的に行う事で正しく成長してくれた。

その他、営業的な支援、部門間調整、複数のプロジェクト全体の予算管理、進行管理、大きな問題管理を行う程度である程度完成したルーティン通りに仕事をしていれば大きな問題は発生しなかった。

やがてそれらの仕事も成長した後輩達に任せると自律的に組織は健全な活動を始め多くの問題はそのシステムの中で解決していった。

 

気がつくと完全に自動化された仕組みが破綻なくワークし続け一切の仕事が無くなっていた。

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