ラムタラ(競走馬)

ページ名:ラムタラ_競走馬_

登録日:2011/07/26 (火) 13:32:29
更新日:2023/08/18 Fri 11:49:32NEW!
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無敗 競走馬 種牡馬 サラブレッド g1馬 イギリス 牡馬 故馬 ライオンハート 神の馬 紙の馬 ラムタラ ニジンスキー 95年クラシック世代 栗毛 ウォルター・スウィンバーン ランフランコ・デットーリ 凱旋門賞馬 英国ダービー馬 日高最大の誤算 ゴドルフィンレーシング lammtarra 奇跡の馬




Lammtarraラムタラとは、アメリカで生産され、イギリスで調教された競走馬
華々しい戦績とドラマチックな馬生から「奇跡の馬」「神の馬」と謳われた。


データ

生誕:1992年2月2日
死没:2014年7月6日(22歳没)
父:ニジンスキー
母:スノーブライド
母父:ブラッシンググルーム
生国:アメリカ合衆国
生産者:ゲインズバラファーム*1
馬主:サイード・マクトゥーム*2
調教師:アレックス・スコット → サイード・ビン・スルール
主戦騎手:W.スウィンバーン → L.デットーリ
生涯成績:4戦4勝
獲得賞金:79万2033ポンド+400万フラン
主な勝ち鞍:95'英ダービー・KGVI&QEDS・凱旋門賞


誕生

世界的大富豪モハメド殿下の率いるゴドルフィンレーシングの牧場で生を受ける。
名義上の馬主となったサイード氏はモハメド殿下の甥にあたる。
父ニジンスキーは最後の英国三冠馬であり種牡馬としても多数の活躍馬を輩出しており、母スノーブライドも英オークス馬。
母の父ブラッシンググルームも2歳G1を4勝し、20頭を超えるG1馬を輩出した大種牡馬という超良血である。
ニジンスキーはラムタラ誕生の2ヶ月前に死亡したため、そのラストクロップとなった。


Lammtarraラムタラとは、アラビア語で「見えないほど速い」という意味。さらに転じて「神秘の力」といったニュアンスも含む。
後の成績を踏まえると、まさに名は体を表すと言えるだろう。


短くも華々しい競走成績

英国のアレックス・スコット調教師に預けられたラムタラはスコットの親友スウィンバーン騎手を鞍上に迎え、デビュー戦でいきなりリステッド競走に出走し、勝利で飾る。
「これはダービーを勝つ馬だ……」
ラムタラの大成を確信したスコット師は翌年のエプソムダービーに向けてプランを練り始める。


……だが、彼がラムタラの走るダービーを見ることはなかった。
ラムタラはワシントンシンガーステークスに出走後、調教中に捻挫を起こしてしまう。そこで、来る冬に備えて比較的温暖なゴドルフィンの調教師であるサイード・ビン・スルールのUAEの厩舎に入厩する事となる。そして1994年9月30日、スコット師はトラブルが絶えなかった自厩舎のウィリアム・オブライエンと言う厩務員に解雇を言い渡した。ところが、逆上した彼によりスコット師は 射殺されてしまったのである。38歳であった。


これにより、正式に調教がサイードの管轄となる。翌年6月、肺の病気で一時生死の境をさ迷ったラムタラであったが、最新テクノロジーをウリとしていたドバイ馬事病院に担ぎ込まれ一命をとりとめ、キャリア2戦目のぶっつけ本番でダービーに臨んだ。
最後の直線、ゴール目前で粘る逃げ馬パファルを捉えたのはタムレ。
そのままの勢いでゴールへ飛び込むかと思われたタムレだったが、さらに後方から次元の違う脚で追い込んでくる栗色の影があった。
並ぶ間もなくタムレを一馬身かわし、ラムタラはダービーをレコードタイムで制した。


「馬群に呑まれかけたとき神とアレックスに祈ると
海を割ったように道が開いた。
アレックスが僕とラムタラの背を押してくれたんだ」


──ウォルター・スウィンバーン



その後、騎手がスウィンバーンからゴドルフィンの主戦であるランフランコ・デットーリ*3に変更となり物議をかもしたものの、
ペンタイアとの叩き合いを制してキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを、前年の覇者カーネギーらを破って凱旋門賞を勝利した。
手綱を握ったデットーリは、涙を流しながらこう語った。


「この馬はライオンハートを持っている。
我慢し、全力で走り、戦った。
僕らが長らく出会ったことのなかった最高の馬だ」


ラムタラはキャリア4戦4勝、無敗にしてヨーロッパで最も権威ある栄冠を独占したのである。しかもサイード厩舎にとっては専属初年度においてこれを達成する栄誉に与かる事に。


その後は生国のブリーダーズカップ・ターフへの出走も考えられたが、レース間隔の短さから見送られた。
そして、競走から10日後……


「最高のレースを全て制した。もはや走らせる理由がない」


モハメド殿下の言葉とともに、ラムタラは最も新しい神話の幕を閉じた。


北海道の大地に降り立った「神の馬」

96年、英国で一年間繁殖生活を送ったラムタラは、北海道の日高地方の生産者連合の代表者8名からなる「ジェイエス」により、3000万ドル(当時の価格で33億円)もの超破格値で購入された。つっても5回分割払いだけど。とは言え1988年~2000年あたりまではバブル景気や崩壊後の余波でもジャパンマネーにモノを言わせカネに糸目を付けなかった時代であり、種牡馬を買い漁っては外国からブッ叩かれ、イギリスでは「日本人が金の力に物を言わせて名馬を買い漁る」と批判していた程であった。


なお90年に社台ファームがアメリカ年度代表馬サンデーサイレンスを輸入した値段が1100万ドルである事を考えれば超破格。
史上空前の金額と「神の馬」が日本にやってくる衝撃は一般メディアでも大きく取り上げら、当時日本ではニジンスキー産駒のマルゼンスキーが種牡馬として成功しており、マルゼンスキー産駒が日高にも出回って脳を焼かれてしまった日高の生産者にとってラムタラも種牡馬として成功することは確約されているも同然。
日高の最終兵器として打倒社台に向けての下地は今ここに整い、サンデーサイレンスに対して掛けられた24億9000万円を遥かに凌ぐ、2頭の種付け権を付与した1口1億800万円からなる総株数41口の総額44億2800万円と言う、当時史上最高額*4のシンジケートが成立するのであった。


こうして我々日本人は「神の馬」の子孫の活躍を日本の競馬場で見ることができる幸せを手にしたのである……




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サンデーサイレンス「いつから名馬=名種牡馬だと錯覚していた?」

ラムタラ「なん…だと……?」

「錯 覚 だ」




現実

世紀をまたいだ2006年、世の中がサンデーサイレンス晩年の最高傑作ディープインパクトに沸く裏で、ラムタラはわずか24万ドルでゴドルフィンに買い戻されひっそりと英国へ帰った。
そう、ラムタラの子供たちは日本でからっきし走らなかったのだ。そうそうウマくはいかないものである。
10年の繁殖生活でとうとうG1馬はゼロ、JRAでの実績はメイショウラムセスが富士ステークス(G3)を勝ったくらいである。


ラムタラ産駒は見栄えだけはやたら良く、文字通り馬脚を現す前に高く売れたので金銭的にはペイできたとも言われているが、
期待外れのを掴まされて失った馬主の信頼など有形無形の損害をもたらしてしまった。
社台グループの牙城を崩すどころか、打倒社台の野望に燃え奇跡を夢見て大枚を叩いた挙句とんだ大誤算となってしまった日高の中小生産者たちに、地獄を見せる結果に終わったのだった。


一体なぜラムタラは種牡馬として成功できなかったのか?大きく分けて3つの要因があると言われている。


  • 血統

ラムタラはノーザンダンサー(ニジンスキーの父)の血が非常に濃い配合のもと産まれた馬であるのだが、その影響からか産駒も気性難や虚弱体質などの欠点を持つ産駒が多かったとされており、血の影響がモロに出てしまった形になった。
更に、日本でも多くの馬がノーザンダンサーの血を持っており、そもそも配合の時点で厳しい制限が存在していた。特に、先述したマルゼンスキーの成功ゆえに、日高にいる優秀な繁殖牝馬がその血を引いているケースが多々あり、それらの馬とラムタラを交配させるのが困難になるという致命的な状況に陥る要因となった。
成功の根拠となるはずだった事柄が、実は大きな落とし穴だったのである。実は、日高陣営も円高であった当時の経済状況から焦って導入したという話もあり、血統関係を見落としていた可能性も。
とはいえ、ここまで産駒が走らないとなるとマルゼンがいなくても成功できたかは怪しいが……。
逆にサンデーサイレンスが日本で種牡馬として大成したのは、当時の日本競馬にとって全く新しい血統であったためにあらゆる牝馬に付け放題だったことも大きい。
また、社台スタリオンステーションはサンデーサイレンスの成功でその血の飽和を招き兼ねない状況になると、今度はキングカメハメハをはじめとするサンデーサイレンスと異なる血統を持った種牡馬を積極的に導入するなど、ラムタラの二の舞を避けるための対策にも力を入れていた*5


  • 馬場適性

ヨーロッパの深い芝で活躍したパワー型の馬は日本の高速馬場に向かないことが多い。
実際、凱旋門賞馬がジャパンカップに出走するも思ったような成果を上げられないという光景を、平成初期から現在に至るまでよく見られた。
逆に日本馬もヨーロッパ遠征で苦戦することが多く、両者で求められる適性はまるで異なるものであることは間違いない。
同じく凱旋門賞勝ち馬で日本に輸入されたトニービンやバゴは日本の馬場にも適応する活躍馬を出したがキャロルハウス、カーネギー、ワークフォースなどは苦戦気味であった。


  • 強み

ラムタラは、デットーリが「ライオンハート」と評したように身体能力より精神力で走る馬だった。しかし、ブラッドスポーツである競馬においては、繁殖馬の評価基準は身体能力重視であり、精神力は評価にあまり影響を与えないのである。
日本でもシンボリルドルフが似たような評価となっている(とはいえこちらは初年度にトウカイテイオーを輩出しているが)。他にも、「調教で強くなった」ミホノブルボンも種牡馬としては苦戦した。


その後

こうしてラムタラは、馬産界に大きな教訓と損害を残して日本を去ることとなった。
モハメド殿下とゴドルフィンも既にラムタラの価値を認めておらず、買い戻したラムタラに種付けを行わせていない。
以降はイギリスのダルハムホールスタッドで余生を過ごし、2014年7月6日に22歳でこの世を去った。


2011年、ラムタラを母の父として持つヒルノダムール(父マンハッタンカフェ)が天皇賞(春)を制し、ラムタラの名誉をわずかに回復した。
さらにヒルノダムールは同年10月の凱旋門賞への遠征を決め、フォワ賞2着を経て祖父と同じターフへ立つ。結果こそ10着に終わったものの、その戦績から引退後2013~2019年まで種牡馬としてその血を繋いだ。
そして2021年現在、日本各地では僅かではあるがヒルノダムール産駒が散らばり、中には繁殖牝馬となったものもいるため、屈辱にまみれた「奇跡の馬」の血がもう一度奇跡を起こせるのか、注目である。
また母父ラムタラの馬の中には、2020年に中央競馬で8頭目の100戦を達成し引退したスズカルパン(父スズカマンボ、100戦4勝)なんてのも存在。
成績的に重賞には出れなかったものの、約10年弱走り続け引退先の引き取り先もあったという意味では彼もまた「奇跡の馬」なのかも知れない。


フィクション作品への登場

最終章の競馬編にてラムタラがモチーフのラムタルという馬が登場。
ナリタブライアンがモチーフのナリタブライオンと死闘を演じた。

作中最強馬である聖馬エルサレムのモチーフ。
後半のドバイWC編で最大の強敵としてミドリマキバオーの前に立ちはだかった。
続編の『たいようのマキバオー』によると引退後に巨額のシンジケートが組まれて本田RFで種牡馬となったものの、産駒はいずれも目立った成績を残せないまま再輸出されてしまった模様。
そんなところまでモチーフを真似なくてもいいのに……。


追記・修正は神を信じる方にお願いします。


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  • 買い付けた時は、結構なニュースだったんだよなぁ(遠い目) -- 名無しさん (2014-03-27 09:41:04)
  • 当時の日高ではマルゼンスキーを父に持つ繁殖牝馬が多かったというのもある。マルゼンスキーも同じニジンスキー産駒なんだよなあ。 -- 名無しさん (2015-01-12 22:54:09)
  • 種牡馬の失敗で過小評価されがちだが、実際この馬の勝ち方と戦績は頭おかしい -- 名無しさん (2019-09-10 20:33:20)
  • 銀にでてきたな、懐かしい -- 名無しさん (2021-09-04 19:11:44)
  • ↑現実でラムタラとナリタブライアンがレースしてたらどっちが勝ったかな? -- 名無しさん (2022-04-08 04:55:49)
  • 金と銀のラムタルの元ネタだっけな -- 名無しさん (2022-12-08 20:08:25)
  • あとマキバオーの聖馬エルサレムの元ネタ -- 名無しさん (2022-12-13 08:48:19)
  • この項目を読んで思ったんだけど今の日本のサラブレッドって大多数がサンデーサイレンスの血を引いてるイメージ有るんだけどサンデーサイレンス産駒は大丈夫なのかな? -- 名無しさん (2023-06-02 04:13:30)
  • ↑大丈夫じゃないから色々外国種牡馬導入したり、非サンデー系のビッグアーサーが少し人気集めたりする。 -- 名無しさん (2023-06-02 19:58:40)

#comment

*1 ドバイを統べるマクトゥーム家の現首長シェイク・モハメド殿下ことムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム直々に運営している牧場である。
*2 シェイク・モハメド殿下の兄でゴドルフィンの共同設立者且つ嘗てドバイ首長国を統治していたマクトゥーム・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームの息子。なおゴドルフィンは1994年設立なので本馬はゴドルフィン育成馬ではない。
*3 1970年イタリア・ミラノ生まれの騎手で大英帝国勲章MBE(団員)受賞者で英競馬殿堂入りジョッキー。史上最強と名高いレジェンドジョッキーで、1994年から18年にわたりゴドルフィンの専属騎手を勤め、フランス凱旋門賞6回、イギリスKGVI&QES7回、米ブリーダーズ・カップ・ターフと香港カップ4度制覇など欧米香港でGIレース220勝を稼ぎ出したとんでもないお方である。それだけならまだしも、日本においても嘗て行われていたヤングジョッキーズワールドチャンピオンシップ2連覇、そして英仏外国馬に不利なJCですら3勝(1996年シングスピール、2002年ファルブラヴ、2005年アルカセット。しかも全部ハナ差)を飾り、しかも2002年JCの前日開催のジャパンダートカップでイーグルカフェを1着に導き、あの社台の吉田照哉をして「デットーリが乗ると5馬身違う」と言わしめた凄い人。2023年シーズンを以て引退を表明している。
*4 現在の史上最高額シンジケートはディープインパクトの51億円。但し1口あたり8500万円だったので、1口あたりでの史上最高額は保持している。
*5 ただし、社台もその過程でウォーエンブレムなど血統以外の理由で失敗した種牡馬を掴み、地獄を見ていることも付け加えておく

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