登録日:2012/02/26 (日) 14:30:40
更新日:2023/10/30 Mon 13:50:20NEW!
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戦国時代 戦争 合戦 織田信長 羽柴秀吉 明智光秀 センゴク 殺し間へようこそ… 戦国無双 福井県 日本史 朝倉義景 池田勝正 撤退戦 修羅の刻 戦国無双←朝倉ワッショイ 敦賀 金ヶ崎 金ヶ崎の戦い
金ケ崎の戦いとは元亀元年(1570年)4月25日に越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市)にて、第一次信長包囲網として発生した戦国時代の合戦の一つ。
本項目では戦国史上でも有名な撤退戦である、金ヶ崎の退き口についても記述する。
■背景
永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を擁して京に上洛、義昭を征夷大将軍に任命させ、後見人として権勢を振るう。
信長は征夷大将軍・足利義昭の名前を借りて各地の大名に上洛を促す。これを拒否したのが朝倉義景である。
この上洛要求は簡単に言えば信長に従う者とそうでない者を見極めるためのもので、拒否した義景と信長の関係は急速に悪化していった。
朝倉家は元を辿れば斯波氏直臣の被官で守護代でもあり、斯波氏に代わり三代に渡り越前の領主を務める名家。
対する信長は斯波氏の被官の陪臣止まりで、血筋の面では信長は遥かに下である。
更に、当初京を追われ亡命中の義昭を匿ったのは義景であった。
しかし京への帰還と将軍職奪還を望む義昭に対して義景は望みを叶えることが出来なかった為、義昭は義景を見限り信長の助力を得て上洛を果たす。
自らの力の無さはあるものの、田舎者に義昭を奪われ、更に上洛・将軍就任をも許してしまった義景が首を縦に振る事はありえなかったのである。
しかし義景の上洛要求無視は「将軍の命令」に背く行為であるため、信長は大義名分を持って越前に侵攻した。
金ヶ崎の戦いの始まりである。
■浅井の裏切り
いざ戦いが始まると織田優勢に進んでいった。4月25日に侵攻開始、同日に手筒山城が陥落、翌日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下す。正に破竹の勢いである。
しかし、本拠地である一乗谷を目前にした所で一報が入る。
信長の義弟であり同盟関係にあった浅井長政の裏切りである。
信長はこれを虚偽の情報として信じようとしなかった。戦国一の美女・お市の方を嫁がせ、良好な関係を続けていた。
そんな長政が裏切る訳がないと思いたかったのか。
しかし続々と入る知らせを聞き、事実と認めざるを得ない状況になる。北近江を領する浅井が攻めて来ると、眼前の朝倉とで挟撃されてしまう。
勝利を目前としていた状況から一気に絶体絶命の危機に陥ったのである。
信長は目前の勝利を捨て、直ぐに京への撤退を決意。この時の信長の撤退は驚異的な早さで、信長について来られた部下は数人だったとか。
桶狭間の時と言いホントに足が速いものである。
信長は浅井の裏切りを信じなかったと書いたが、この裏切りは十分に考えられる話であった。
元々浅井長政の父と義景は盟友で知られ、更に浅井家と浅倉家は三代に渡る同盟関係である。
そのため織田家と同盟を結ぶ際には「朝倉には手を出さない」と言う条件が盛り込まれていた。
これを破ったのだから、裏切りがあっても不思議ではない。
■金ヶ崎の退き口
こうして越前攻略に失敗した織田軍であったが、この戦の撤退戦は後に金ヶ崎の退き口と言われ戦国史上でも有名な撤退戦になった。
見事な撤退戦で織田軍の危機を救い一躍名を上げたのが、後の天下人・羽柴秀吉である。
秀吉は状況からみて必死である殿役を自ら立候補し、見事完遂したのである。
秀吉の話をする上で欠かせないエピソードであるが、近年の研究では疑問視されている模様。
というのも、殿には秀吉の他にも明智光秀、池田勝正も参加しているため、未々地位が低かった秀吉が殿軍の大将を務めたとする疑問が残る。
更にこの撤退戦をどのルートで、どうやって逃げたのか、両軍の兵力差など、不明な点が多い。
現在の所、池田勝正が高い統率力を発揮して秀吉、光秀が命懸けで戦って撤退戦を成功させたのは事実のようである。
また、それ以外にも成功した要因として、追撃を行った朝倉軍の進軍が遅かった、朝倉家が一枚岩ではなかったなど様々な説が挙げられている。
これ以降の戦いでもわかるが、この時の朝倉家はほぼ常に分裂状態であった。
不明な点は多いものの、関ヶ原の戦いでの島津の退き口と並び、戦国史上でも見事な撤退戦と言えるだろう。
また、不明な点が多い事から、様々な作家やメディアがこの撤退戦を取り上げ、アニヲタ達を魅了してきた。
代表的な物を挙げるとすれば漫画「修羅の門」の外伝である「修羅の刻」であろうか。
信長の甥である陸奥の双子が、たった2人で追撃してきた朝倉軍を翻弄し、秀吉が率いる殿軍の逃げる猶予を稼いだエピソードは中々に熱くさせる。
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- 実は情報漏洩元って わからずじまいか -- 松永さん (2013-09-16 08:48:55)
- 信長のシェフにも出てたね。 -- 名無しさん (2013-09-16 12:05:17)
- 信長の損得勘定の速さと正確さは異常 -- 名無しさん (2013-11-01 10:12:32)
- そもそも浅井は朝倉の属国的な立場じゃないか、って研究もあるとか とはいえ信長の逃げ足は異常、ヤバイと思った時に変に言い訳せずに全力で逃げるって大事な資質だと思うわ -- 名無しさん (2014-03-26 13:43:34)
- 息子にはその資質は受け継がれなかったがな。 -- 名無しさん (2014-07-10 00:25:01)
- お気の毒です。この私が病んだ魂を送って差し上げましょう。どうか、安らかに… -- 天海 (2014-08-07 08:15:06)
- 金ヶ崎の退き口といえば、花の慶二の、家康のはにかんだ笑みもいいエピソードだったよね -- 名無しさん (2014-08-07 08:31:14)
- 無双だと裏切られたあとからはじまる金ヶ崎撤退戦って名前になってたりするな。 -- 名無しさん (2017-06-08 12:59:41)
- 先に義理を欠いたのは信長だから裏切りってのも変な話だけどな -- 名無しさん (2017-06-08 14:33:02)
- 味方するはずが敵に回ったんだから裏切りと言っていいんじゃないかな。不義理からの即敵対なら別だけど -- 名無しさん (2017-06-08 14:38:49)
- 浅井からしたら先に約束を破って裏切ったのは信長のほうだからなあ -- 名無しさん (2017-09-28 17:08:42)
- ↑7 信忠のことならおじである有楽斎がたきつけたのも大きかったんじゃないかと -- 名無しさん (2017-10-02 13:24:45)
- でも浅井を裏切ってでも朝倉を倒さないと面子が立たないからどうしようもないところよな -- 名無しさん (2020-05-06 21:41:02)
- 朝倉と浅井の関係性がよくわからないからこの時の信長の気持ちもよくわからんのよな。浅井の仇敵である六角を朝倉が支援してた過去もあるし。 -- 名無しさん (2020-09-10 14:34:20)
- 近年秀吉の活躍に疑問付ける人いるけど、第一級史料「信長公記」で信長の称賛と黄金数十枚の褒美が秀吉にだけ書かれてる辺り飛び抜けた活躍したのは疑いないと思う -- 名無しさん (2022-05-30 00:43:19)
- 疑問視は殿としての活躍ではなくて殿を率いたとされていたことについて -- 名無しさん (2022-05-30 01:34:47)
- 秀吉が殿して時間を稼いでいる間に防衛ライン整えたと考えれば -- 名無しさん (2023-06-13 02:32:49)
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