滸我御所 - 御城プロジェクト:RE Wiki
返り血を洗い流すとか……。とにかく、人智を超えた奇瑞を宿している……と評判だったのです。そんな村雨を父から託された信乃は、本来の所有者である足利家にその刀を返すべく、故郷を発ち、滸我御所へ向かうことになるのです。だから剣術に長けているんだな。夏場には役立ちそうだな!ええ……八犬伝
返り血を洗い流すとか……。とにかく、人智を超えた奇瑞を宿している……と評判だったのです。そんな村雨を父から託された信乃は、本来の所有者である足利家にその刀を返すべく、故郷を発ち、滸我御所へ向かうことになるのです。だから剣術に長けているんだな。夏場には役立ちそうだな!ええ……八犬伝
えっと……後は、後はぁ……。あっ、そうです!かつての城主のおひとりに、あの三好長慶様がいらっしゃいます。織田信長が上洛して、十五代将軍として足利義昭を誕生させ、事実上の織田政権を樹立する以前は、その長慶様こそが長らく畿内の支配者として君臨し、日の本の副王だなんて言われていたことも
点の一つとして運用されていたんだけどね。後に北条氏康に攻め落とされ、私は北条氏の城に。城主として多目元忠という人が入城したわ。実は上杉憲実は足利学校っていう知の水準が最高である学校や、金沢文庫という武家の文庫を再興した人でね。多目元忠に至っては北条家の名軍師。おかげで私も影響を受
留賀城改め、金ヶ崎城ッス。敦賀城とも呼ばれてますが、金ヶ崎城でお願いするッス。金ヶ崎城は南北朝時代にも戦の舞台になったッス。今度は新田義貞と足利方の戦いッス。南朝方の新田義貞は、京に進軍した足利尊氏によって北陸に追われたッス。その時、後醍醐天皇の子の恒良親王、尊良親王を奉じて金ヶ
…。勉強したい。食べ物の方が好き。福知山城約束する。約束はできない。調べてみたいな。単なる噂だろう。恥ずかしいな……。よし、踊ろう!今浜城「足利尊氏」だな。「足利義昭」かも。共感できないな。その通りだ。つまらなそうだな。よろしく頼む。長浜城気合い入ってるな。迷惑な話だな。御城は地
2を表示する/隠すイベント3[]観音寺城殿、お待たせしました。いよいよ「観音寺城の戦い」について、お話しする時がきましたね。1568年、将軍足利義昭を奉じて上洛を開始した織田信長は、その途上で六角義賢の籠もる観音寺城を攻撃します。信長勢は浅井長政、徳川家康の援軍を含めて5万以上、
繁が主君だった岩松守純に対し下剋上を起こして奪い取った御城なんです。ですが、新田金山城がある上野国(こうずけのくに)は武田氏や上杉氏、それと足利氏と北条氏の領地に囲まれてまして……。いつ誰に攻められてもおかしくない状態でした。そこで、由良氏は身を守るために、時の流れを読んでは所属
今日は私のことを話すって約束だったわね。わ、忘れてたわけじゃないのよ?……うん。ほんとほんと。それじゃあ気を取り直して――。私こと川越城は、足利氏の勢力に対抗するために、扇谷上杉家の家宰、太田道真・道灌の親子が武蔵国に建てた御城なの。……ん? 太田道灌の名は耳にしたことがあるって
丹波というのは裏切りの地と言えるのかもしれない……。丹波亀山城織田信長より任ぜられた丹波平定……。それこそが、かつての光秀の主君であり将軍・足利義昭との決別だったのだから。丹波亀山城丹波を攻略した光秀は、多くの富と人、そして名声を手に入れた。丹波亀山城でも、ボクからすれば、光秀が
いも重大な問題やけど!やくも……とにかく、大変なんだに!うちの作った人形たちが居なくなってしまったがや!殿…………。柳川城人形というのは……足利学校さんに時折貸し出している、演習用の兜人形のことですか?やくもだに! 整備と試運転を兼ねて、所領からちょっと離れた平地に連れ出して、演
性能1.1 特技1.2 [改壱]特技1.3 計略2 画像3 ボイス4 イベント4.1 イベント14.2 イベント24.3 イベント3性能< 足利氏館 - 岸和田城 >ハーレック城(はーれっくじょう)No.400ハーレック城icon最大Lv.115基本消費気12地域海外実装日201
れやれ……ギリギリのところで、間に合ったというわけか。千狐ま、間に合った?あの、いったいどういうことでしょうか?滝山城そも、菖蒲城は古河公方足利成氏が、金田式部則綱に命じて築城させた城ゆえ、滝山城縁の点においていえば、我ら北条にまつわる城娘よりも、古河城との結びつきの方がずっと強
。……あの本能寺の変の前にも、あいつは何度かくじを引いていたっけな……。光秀も可哀想なヤツだ……。丹波攻めの為にボクを建てて、かつての主君、足利義昭と決別し、信長への忠誠心を示したくせにさ……。信長の数少ない優しさが、光秀を知らず苦しめていたなんて……、誰にも……分かるわけなかっ
2 [改壱]特技1.3 計略1.4 [改壱]計略2 画像3 ボイス4 イベント4.1 イベント14.2 イベント24.3 イベント3性能< 足利学校 - 勝幡城 >バベルの塔(ばべるのとう)No.446バベルの塔icon最大Lv.120基本消費気15地域その他実装日2020-03
この前はあまり話せなくてごめんなさい。今日は、頑張って御城の紹介をします……。乙女城を築城した大井氏は……鎌倉以来の名門です。南北朝時代では足利尊氏に味方したことにより、信濃国の守護代として、勢力を広げていきました……。ですが……戦国時代に入ると、北信濃の豪族、村上氏と対立。本城
た頃から使われている。信長が、天下統一を志した証と言える物だ。1567年に美濃国を手に入れた信長は、翌年上洛を果たすと、室町幕府十五代将軍、足利義昭を擁立。将軍の権威と、都の財力を手中に収め、虎視眈々と天下を狙っている諸国の戦国大名と比べて、頭一つ抜け出た存在となるのだ。その意味
…もぐもぐ、ま、まあ、私の話なら、万金に値するほどだものね、当然と言えば当然か。えっと……古河城はね、室町時代になると、第五代鎌倉公方である足利成氏が、城主となったの。この頃より、人々が私のことを、古河御所と呼ぶようになったのよ。……だけどね、時が経ち、戦国時代になると、関東足利
……ん?それじゃあどうして千賀地氏城って名前なのか?そんなの簡単な理由さ。アタシは服部半蔵正成の父、服部半蔵保長が築いた城――――でもって、足利氏に仕えていた保長が伊賀に移り住み、そこで千賀地氏を名乗った……ってなわけ。まぁ、他にも千賀地氏だった保長が、旧姓の服部を使って上洛した
「信ずべし、貴ぶべし」と宣(のたま)ったからだそうですが、信じられるのは自分の知謀だけかと。信貴山城の主は、奸雄と評された松永久秀です。将軍足利義輝を暗殺したり、東大寺大仏殿を焼き払ったり、その評判は決してよいものではありませんでした。やがて大和国を制圧した久秀は、隣の多聞山城と
機動戦士ガンダム ガンダムvs.Ζガンダム(カミーユ・ビダン)機動戦士ガンダムSEED 終わらない明日へ(ロンド・ギナ・サハク)決戦III(足利義昭、斎藤利三)金色のガッシュベル!! 激闘!最強の魔物達(進一)スーパーロボット大戦MX(カミーユ・ビダン、ウルベ・イシカワ)スーパー
時:近藤正臣畠山家に仕える人徳厚い家老、桜丸により惨殺される。旧多襄丸:松方弘樹直光らを襲った盗賊。直光に「多襄丸」の名を継ぐよう言い残す。足利義政:萩原健一僧形の将軍。かなり視力を失っており、何くれとなく世話する桜丸に目をかけている。スタッフ[]プロデューサー:山本又一朗監督:
を許されない地下家であった。戦国時代に、遠縁筋の久我家(村上源氏)の諸大夫であった季治(義治/当治)の代に、1560年正月に、同じく遠縁筋の足利将軍家の義輝の上奏によって、正三位・大膳大夫・宮内少輔となり、殿上を許される堂上家に昇格した。しかし、季治は時の権力者の織田信長に対して
肥前瀧口氏一門。蒲池久直[2]を祖とする。同族に肥前松浦氏(相神浦氏)があった。南北朝時代の武久[3]の代に南朝方の菊池武敏に従い、北朝方の足利尊氏(高氏)の軍勢と激戦して、壮絶な戦死を遂げた(『多々良浜の戦い』)。武久は嗣子がなく断絶したが、後に武久の婿養子で、下記の九州宇都宮
尉。藤原北家流の小野宮家の後裔[1]で、父祖は不詳[1]、公茂の弟、公延・素珍(僧侶)・公長・公顕[2][3]・公繁の父。大草家の祖となり、足利尊氏(高氏)に従い、1348年1月に『四条畷の戦い』で楠正行と激戦して、戦死を遂げた。脚注[]↑ 1.01.1 995年に筑後国御笠郡太
清武の弟)を祖とする[2][3]。南北朝時代には南朝方として活躍するが、北朝方の今川範国に滅ぼされた。蒲原今川家 : 源姓蒲原氏と呼ばれる。足利氏(下野源氏)流三河吉良氏(三河源氏)の系統の今川氏(駿河源氏)一門。上記の今川範国の三男の氏兼(直世)を祖とする。戦国時代に『桶狭間の
市史』通史編1(沼田市/沼田市史編纂委員会編/2000年)より)。↑ いずれも宗仲の子。↑ 家教の子。↑ 通称は又太郎/源七郎。南北朝時代に足利尊氏に従軍して、諏訪頼重を壊滅する功績を挙げた。↑ 晩年の家村は、禅翁入道と号した(『寛政重脩諸家譜』)。↑ 大石為重の婿養子。↑ 『美
家満)の祖父。彼の後裔は豊後国の国司として赴任して、代々が世襲した[2]。脚注[]↑ 道義の後裔は、後世に出羽国に赴任して、その血を引く娘は足利氏(下野源氏)流斯波氏(奥州源氏)の系統である奥州大崎氏一門の最上直家に嫁いで、天童頼直(後天童氏の祖)を産んだという(『奥羽永慶軍記』
の兄。↑常文(知方/千方入道)の兄。↑ 文行(公道・公行(季郷)・近藤脩行(修行)・行禅(僧侶)の父)の弟、条方(條方)の兄。↑ 兼行(藤姓足利氏の祖)・太田行尊(行隆とも、武蔵太田氏の祖)の父。この記事は 『藤原正頼』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有して
。信濃森氏(信濃源氏)一門の若槻氏の当主の若槻氏朝[1]の子、清継・隆季(尚託[2]/高秀斎)の父、久俊(隆季の子)の祖父。一族に、遠縁筋の足利将軍家の奉公衆をつとめた義里がいる。概要[]おなじく遠縁筋の頼清流信濃村上氏の当主の村上義清の家老として、仕えていた。天文7(1538年
)とは、日本の氏族。約2系統が存在する。蜂須賀氏 (尾張国) : 楠氏一門の楠正景・正能(次郎兵衛尉正家)父子が南朝方として活躍し、北朝方の足利氏(下野源氏)に敗れたため、下野して尾張国海東郡蜂須賀郷(現在の愛知県あま市蜂須賀大字)を拠点として、正家の孫の正俊(正員(正貞)の子)
て、家老の佐々木繁綱(三郎兵衛門尉)[2]と郎党の工藤祐長(九郎左衛門尉)[3]ら数騎を率き連れて夜陰に乗じて出奔したという。そのまま、古河足利家(古河公方)の当主・足利成氏[4]を頼ったが、同年末に陸奥国の三戸城の南部光政[5]を頼った[6]。季繁・繁広父子は宇曾利を住居に定め
鹿嶋市/神栖市/鉾田市)を本拠地とした。娘は北条義時の側室。朝政の末裔に戦国時代の尾張国の柴田勝家が出た(『寛政譜21』では、藤原秀郷流藤姓足利氏の系統とする)。↑ 資光の父。↑ 『吾妻鏡』文治5年8月8日の戦いの条項より。↑ 資綱も嗣子の資光に先立たれて、義弟の鎌倉義宗(源義経
部姓十市氏流中原氏一門で、安芸国の厳島神社を神官・豪族として、厳島神主家と称した。戦国時代に多々良姓(東トルコ系?)周防大内氏に滅ぼされた。足利義満の正室の慶子[2]はこの系統という。脚注[]↑ 庶家は肥前草野氏(吉木氏)・於保氏・龍造寺氏などがある。↑ 三宝院の坊官・安芸法眼の
仲)の12世の孫で、清尚の一族であるが、具体的な親族関係の系譜は不詳。義俊の父とされる。概要[]弘治4年/永禄元年(1558年)に、遠縁筋の足利将軍家の当主の足利義輝(義照)の奉公衆として、仕えていた。永禄8年(1565年)に義輝が、山祇(やまつみ/やますみ)姓久米氏の一門の三好
の久俊が継いだが、嗣子がなく断絶したという。また、1558年に清尚の一族とされる義里(定氏の12世の孫)が、式部大輔として、おなじく遠縁筋の足利将軍家に仕えて、1570年に逝去したという記録があるが、義里の系統の消息は途絶えている。江戸時代後期の儒学者の若槻幾斎(森義敬/義誠)[
よって信濃国守護となった小笠原貞宗(信濃源氏)と対決して、滅びた北条氏の当主である北条時行(高時の子)を擁立した(『中先代の乱』)。しかし、足利尊氏配下である木曾氏の当主の木曾家村(家邨)に惨敗して、入道頼重は子の時継と43人の郎党とともに鎌倉の勝長寿院で自刃して果てた。家督は孫
↑甲斐源氏一門の安田氏の庶家。↑ 2.02.1 『古代氏族系譜集成』(宝賀寿男/古代氏族研究会/1986年)による。↑ 3.03.1 ともに足利氏(下野源氏)一門。↑ 日下部氏の系統。↑中村の弥右衛門の子。関連項目[]粟屋氏大江氏毛利氏武田氏特に記載のない限り、コミュニティのコン
細川 政氏(ほそかわ まさうじ)とは、足利氏(下野源氏)一門の武将。約2名ほど存在する。細川政氏 (大夫将監) : 官職は大夫将監。細川頼貞の子、顕氏・直俊・定禅(僧侶)・皇海(僧侶)の弟、繁氏の兄。長兄の顕氏の養子となった。細川政氏 (細川清氏の子) : 細川清氏の子、仁木頼夏
氏の祖となった[1]。本貫は上野国新田郷高林郷(竹林郷)[2]。南北朝時代に義直の6世の孫の義宗・為俊(掃部頭)父子の代に『観応の擾乱』で、足利直義(高国)に従って、敗れたために所領を没収されて、義宗・為俊父子は没落した。竹林氏 (下野国) : 下野竹林氏とも呼ばれる。物部姓十市
氏(上野源氏)流源姓里見氏の庶家。美濃竹林氏(高林氏)とも呼ばれる。里見義成の子の義直を祖とする。義直の6世の孫の義宗の代に『観応の擾乱』で足利直義(高国。尊氏(高氏)の同母弟)に従ったが、直義が兄・尊氏に敗北したために義宗は美濃国の所領を没収され、子の為俊(掃部頭)とともに没落
66年)に元服して、信正と名乗り、同年3月に、伯父の信広の婿養子となり、古渡城に移ってその城主となった。永禄11年(1568年)、父・信長が足利義昭(室町義昭)を奉じて上洛した際に初陣を飾る。初陣に際して父から『直指人心見性成仏』の旗を贈り祝ったという。信正は父の期待に応えて近江
家の遠山氏が美濃国恵那郡遠山郷[7]を拠点としていたために、上記の美濃国土岐郡肥田郷が有力とされる。後に遠江国に移り、この系統から室町時代に足利将軍家に仕えた肥田政季(助太郎)が出た。上記の伊豆肥田氏とは遠縁筋である。脚注[]↑ 現在の岐阜県土岐市肥田町↑ 土肥宗平の孫、実平の子
代当主とも昵懇の仲であったという。彼の系統は若槻氏惣領家として、戦国時代まで存続して、遠縁筋の頼清流信濃村上氏の家老であった清尚や、遠縁筋の足利将軍家の奉公衆である式部大輔の義里(定氏の12世の孫)などを輩出した。江戸時代後期の儒学者の若槻幾斎(森義敬/義誠)[2]は、前述の義里
皇思夫人/昭烈皇后、劉禅の生母)が、同じ側室の麋夫人(麋竺の妹、麋芳の姉)とともに、大奥(後宮)を執り仕切ったという(『蜀書』甘皇后伝)。↑足利氏(下野源氏)流三河吉良氏(三河源氏)一門。↑ 姪の説もある。↑ 別名は築山御前。↑ (寇氏の)子とされる劉封は信康に等しい人物である。
、頼連の曾孫、頼澄の孫、頼時の孫、頼則[4]の子、頼満の弟、頼幸・頼勝の兄。戦国時代に摂津国芥川山城の城主となる。大永6年(1526年)に、足利氏(下野源氏)一門の細川高国と細川晴元の争いに巻き込まれて香西元盛が殺害されたことに激怒したその兄の波多野稙通・柳本賢治らが反乱を起こし
点とした。↑土岐光長の子、国長・光経の弟。↑ 浅野氏の祖。関連項目[]肥田頼衡 : 親族関係の系譜は不詳。観応3年(1352年)に、遠縁筋の足利尊氏(高氏)より、伊豆守に任じられた。肥田頼寿 : 同族の明智頼重(頼助)の子。族父の肥田詮長の婿養子となった。浅野氏(根尾氏)尾張安井
碓井姓鎌倉氏流相模長江氏一門の美濃長屋氏[2]の庶家。西郷稠頼(つぐより/ちかより/しげより、清海入道)[3]を祖とする。父の盛頼の代から足利氏(下野源氏)一門で三河国守護の仁木義長に仕えて、三河国守護代をつとめ、三河国額田郡岡崎郷[4]にある岡崎城(龍燈山城)を拠点としていた
家で、大和国高市郡越智庄[1]を拠点とした。頼親の次子の頼房が宇野次郎(越智冠者)と称したことからはじまる。南北朝時代には遠縁筋の同族である足利直義(高国)に従い、戦国時代には筒井順慶(藤勝/藤政)と争いを繰り返して、羽柴秀吉と結ぶが、順慶と内通した家臣に滅ぼされた。庶家に源姓樽
曖昧さ回避この項目では、肥後国の豪族について記述しています。藤姓足利氏一門については「安蘇氏」をご覧ください。阿蘇氏(あそし)とは、日本の氏族。約2系統が存在する。肥後国阿蘇郡[1]を本貫とした。阿蘇氏 (古代) : 阿蘇国造(物部姓)の系統で、姓(カバネ)は宇治部宿禰。はじめは
49年)に81歳の長命で崩御した。彼の第3皇子の元平親王は、武家の陽成源氏の祖となり、その後裔に鎌倉幕府をひらいた源頼朝と室町幕府をひらいた足利尊氏(高氏)と江戸幕府をひらいた徳川家康などの武家貴族(軍事貴族)を輩出した。脚注[]↑ 文徳天皇(道康親王)の皇子。↑ 陽成天皇の同母