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曖昧さ回避 | この項目では、織田信長の嫡長子について記述しています。織田信定(信長の祖父)の子の織田信正(信長の叔父)については「織田信正 (掃部頭)」をご覧ください。 |
信長の嫡長子の信正像
織田 信正[1](おだ のぶまさ、天文23年5月5日(1554年6月4日) - 天正2年9月29日(1574年10月13日))は、戦国時代の武将。幼名は勝法師。別称は津田重勝(見性軒)。
織田信長と鷺山御前(美濃御前)こと帰蝶[2](斎藤道三(秀龍)[3]の娘)のとの間の嫡長子。信忠・信孝・信雄(信意/常真斎)[4]・羽柴秀勝(羽柴秀吉の養子)・津田勝長(信房)・信秀・信高・信吉・信貞・信好・長次の異母兄、信衡・的寿(僧侶)の父、信直の祖父、信輝の曾祖父。妻のうち正室は恭姫(伯父の信広の娘)、側室は村井貞勝(入雲)あるいは、塙直政の娘。
尾張国那古野城で誕生したが、なぜか父から疎まれて、その家臣で、岳父となる村井貞勝に養育された。永禄9年(1566年)に元服して、信正と名乗り、同年3月に、伯父の信広の婿養子となり、古渡城に移ってその城主となった。
永禄11年(1568年)、父・信長が足利義昭(室町義昭)を奉じて上洛した際に初陣を飾る。初陣に際して父から『直指人心見性成仏』の旗を贈り祝ったという。信正は父の期待に応えて近江国の観音寺城で籠城する六角義賢を撃破して戦功を挙げた(『観音寺城の戦い』)。そのために、将軍の義昭から感状と太刀一振りを賜り、従五位下・大隅守・帯刀先生に叙任された。
天正2年(1574年)6月に、従五位上・主膳正・侍従に昇任して、正親町天皇から菊桐紋と珍器を拝領した。翌7月に従四位下・侍従に昇進して、公家成を果たしている。
同年9月に伊勢国長島に、本願寺の一向宗と戦うために、父に従軍した。しかし、翌10月に伯父で岳父でもある信広をはじめ、他の織田氏一門とともに戦死を遂げた。享年21(『伊勢長島の戦い』)。法名は見性寺正誉英厳了盛。そのために、異母弟の信忠が後継者に定められたという。
この訃報を聞いた生母の帰蝶(美濃御前/鷺山御前)は大いに悲しみ、これを機に夫の信長と離縁し、故郷の美濃国に隠棲して、出家して尼になり、亡き息子を弔ったという。彼女は、慶長17年7月9日(1612年7月26日)に78歳で逝去して、「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で、京の大徳寺総見院に埋葬されたという[5]。
長男の信衡は父が戦死したときに、幼かったので弟の的寿とともに叔父の信孝の養子となった。
天正10年(1582年)に祖父の信長がの『本能寺の変』で明智光秀の謀反で自刃すると、家臣の前田玄以とともに二条城にいたが、大叔父の長益(有楽斎)に付き従って命からがらに脱出した。
天正13年(1585年)に、弟の的寿は剃髪した。天正16年(1588年)に、年少の的寿は兄とともに祖父の信長と叔父の信忠を始め、『本能寺の変』で討ち死にした家臣らの七回忌法要を同寺にて営んだ。
信正の遺児たちの処遇については、信長の家臣であった豊臣秀吉も相応の配慮をしたようで、天正19年(1591年)に秀吉より見性寺に寺地・寺領を賜っている。この寺領は徳川家康からも安堵された。
信衡は、亡父の後を継いで帯刀先生と称して、亡き叔父の信孝の娘を娶って、聚楽第にいた豊臣秀次(秀吉の外甥)に仕えたが、文禄4年(1595年)に石田三成の陰謀で秀次一族が族滅されると、連座で領地を没収された。以降は病と称して出仕せず、見性軒と号し、見性寺を開基して、同寺に居住し余生を過ごしたという[1]。
信衡は、江戸時代の正保4年(1647年)11月に、高齢で没した。その墓は京都の見性寺にあるという[1]。
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