松浪の新左衛門

ページ名:松浪の新左衛門

松浪の新左衛門

松浪の新左衛門(まつなみ の しんざえもん、生没年不詳)は、室町時代後期の油売りの商人で、斎藤道三(秀龍)の実父といわれる。苗字はなく、「松浪」は住居していた地名である。晩年は出家して法蓮房と号し、妙覚寺で生涯を終えた[1]

概要[]

山城国乙訓郡西岡郷松浪村[2]で、「山崎屋」と号した油売りの商人を営んでおり、油問屋の奈良屋の又兵衛の娘を娶ったと思われる。家はかなり貧しく、子の峰丸(後の道三)を出家させて、美濃国厚見郡今泉郷[3]にある常在寺の小僧として修行させた[1]

以降の新左衛門の動向は不詳であるが、子の峰丸が成長すると還俗して、松浪の庄九郎または庄五郎と名乗って、大永年間に今泉郷で父の後を継いで、上記の「山崎屋」と号した油売りをやって「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代はいただきません」といって、巧みに油を注ぐ商法で繁栄した。ある日、油を買った武士の矢野某から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮は商人の技だろう。この力を武芸に注げば武士の身分になれるかもしれないのに、実に惜しいことだ」と言われたという[4]。さらにその様子を見たかつての常在寺の住職である日運(日護房/南陽房)[5]は一族で、美濃国守護の土岐氏(美濃源氏)の家老で、小守護代でもある長井長弘(利道/政利/長広)[6]に頼み込んで、足軽として召し抱えるように運動した。それが成功して庄九郎(庄五郎)は、長弘にその才能を認められて、出世して家臣の西村氏の養子となって、西村勘九郎長利と名乗った。

その後、長利は長弘の推挙で守護の土岐頼芸の近侍に採り立てられて、長井新九郎規秀と改名した。しかし、かつての家臣である規秀の台頭を快く思わない長弘が、頼芸に進言して規秀を暗殺する計画を立てたが、かえって漏れてしまい、長弘は子の景弘とともに殺害された。

1538年に美濃長井氏の惣領家で、美濃国守護代でもある美濃斎藤氏の当主の斎藤利良が亡くなると、規秀は頼芸の命でその後を継いで、斎藤利政と改名した。その後の利政は越前国にいた頼芸の兄の政頼(頼武/頼建)の軍勢を撃退した。1541年に利政は頼芸の弟の頼満を毒殺し、次第に勢力を拡大した。翌1542年に主の頼芸を襲撃して、これを追い出して、美濃国を制覇した。1547年に利政に反感を持って攻撃した頼芸の弟の揖斐光親[7]とその家臣である長屋景興[8]を滅ぼした。まもなく、利政は秀龍と改名し、晩年は出家して道三入道と号した[1]

しかし、道三は実父の存在を疎ましく思い、抹消を試みていたらしく、自らは京で北面の武士をつとめた松波基宗(左近将監)[9]の落胤と称したという[10]。実際の道三の出自は豊臣秀吉の実父である針売りの商人の木下弥右衛門と同じ階層と思われる。

脚注[]

  1. 1.01.11.2 『岐阜県史』編纂の古文書『六角承禎条書写』・『筒井寛聖氏所蔵文書』所収の大永6年6月付「東大寺定使下向注文」・『秋田藩採集古文書』所収の大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」など。
  2. 現在の京都府乙訓郡大山崎町松浪大字
  3. 現在の岐阜県美濃加茂市加茂野町今泉大字
  4. 海音寺潮五郎の著書『武将列伝』では、「道三は武芸ではなく智謀で出世した人であるから、この逸話自体が与太話で怪しい」と、これを疑問視している。
  5. 藤原北家利仁流である美濃国守護代の斎藤利藤の末子。
  6. 美濃斎藤氏一門の美濃長井氏の当主。
  7. 族父の揖斐基信の婿養子。
  8. 碓井姓鎌倉氏流相模長江氏の後裔。
  9. 藤原北家真夏流の日野家一門の烏丸家の系統である裏松家の庶家である松波家の当主。
  10. 『美濃国諸旧記』・『美濃明細記』・『土岐斎藤由来記』など。

関連項目[]



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