「蜀漢」を含むwiki一覧 - 3ページ

223年 - なんでもある Wiki

293031できごと[編集]1月 - 魏(曹魏)の皇族で文人の曹植が「洛神賦(中国語版)」を著す。6月10日(章武3年4月24日) - 蜀(蜀漢)で初代皇帝・劉備が崩御。旧暦5月 - 劉備の崩御に伴い、その子・劉禅が即位し、諸葛亮が丞相として補佐に当たる。旧暦11月 - 諸葛亮の

関羽 - 日本通信百科事典

美髭公の関羽関羽(かんう、? - 219年10月14日[1])は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。祖父は関審(菅審/管審)[2]、父は関毅(菅毅/管毅)[3]。字は雲長。妻は胡氏[4]、義弟(妻の弟)は胡班[5]。子は関平・関興(安国)ら、孫は関樾[6]と関統・関彜兄弟[7

雍茂 - 日本通信百科事典

投獄された雍茂雍 茂(よう ぼう/よう も、? - 219年/220年)は、蜀漢(蜀)の官吏。前漢の什仿(什邡)粛侯の雍歯[1]の末裔で[2]、益州属国(建寧郡)を支配した雍闓の族兄弟にあたる[3]。 生涯[]梓潼郡[4]の人[5]。はじめは劉璋に仕え[2]、後に劉備につかえて主

馬超 - 日本通信百科事典

“孤高の将軍”と謳われた馬超の石像馬超(ばちょう、175年/176年 - 222年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は孟起、安平悼王の劉理[1]の岳父にあたる。干支は卯年。戦国時代の趙の将軍の馬服君・趙奢・趙牧[2]父子、前漢の都尉の馬通[3]、後漢の伏波将軍の馬援(

陳式 - 日本通信百科事典

“陳寿の祖父”の陳式陳式(ちんしき/ちんしょく、生没年不詳)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は未詳。別称は「陳戒」[1]、または「陳成」とも表記される[2]。子は陳某(馬謖の参軍)、孫は陳寿、曾孫は陳苻・陳莅[3]・陳階[4]ら。彼個人の伝記はなく、多くが『蜀書』諸葛

高翔 - 日本通信百科事典

高翔(こうしょう)とは、古代中国の人物。約4名ほど存在する。高翔 (漢) : 蜀漢(漢)の部将。南郡[1]の人[2]。高詳[3]/高祥[4]とも呼ばれる。諸葛亮に従って、魏延・呉班とともに、魏の司馬懿を撃退する戦功を挙げて、督前部・右将軍に任じられて、玄郷侯に封じられた。最終的に

陳寿 - 日本通信百科事典

陳寿(ちんじゅ)とは、中国の人物。約4名ほど存在する。「陳壽」とも呼ばれる。陳寿 (漢) : 蜀漢(蜀)の官吏。『三国志』の著者。陳寿 (洪熙期) : 明の官吏。徳安府(随州)随県(現在の湖北省随州市)の人。世祖永楽帝の時代に漢王の朱高煦(永楽帝の次子)に睨まれて、逮捕投獄されて

高定 - 日本通信百科事典

虎の武将。崇黒虎の命で、同僚の沈岡とともに北伯侯の崇侯虎(崇黒虎の兄)の妻の李氏とその娘を捕らえた。高定元[1] : 別称は高定。三国時代の蜀漢(蜀)南部の寧州に属する越嶲郡のタイ系叟族の酋長。朱褒とともに雍闓に造反に呼応して、孟獲を擁立した。後に雍闓と仲違いして、配下の鄂煥(顎

魏勃 - 日本通信百科事典

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇帝(嬴政)あるいは、その末子の二世皇帝(嬴胡亥)に謁見して、鼓琴を披露したことが

三國志シリーズ - ゲーム情報ウィキ

989年、正史『三國志』の日本語訳が筑摩書房より刊行され、1993年に文庫化されて入手が容易になったことなどから、ゲームファンの間で、演義は蜀漢の人物に好意的に記述されていることが知られるようになった。そして、演義で悪役や端役のためゲームでも評価が低くなっている魏や呉の人物のファ

黄皓 - 日本通信百科事典

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立した。蜀漢が滅亡すると、魏の部将の鄧艾は彼が跋扈政治した廉で誅殺を命じた。しかし

シュノサウルス - ジュラシック・パーク Wiki

いこう5 ジュラシックパーク・ビルダー6 Jurassic World™: ザ·ゲーム7 関連項目概要[]シュノサウルス基本情報種族恐竜別名蜀漢のトカゲ食性草食繁殖卵生息地中国体高15m全長9.5m体重3t登場作品ゲームジュラシックパークⅢ 恐竜に会いにいこうジュラシックパーク・

黄忠 - 日本通信百科事典

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では、147年生まれの老将で、221年に夷陵の戦いで、呉の潘璋と戦って75歳で戦死す

魏延 - 日本通信百科事典

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要[]南陽郡義陽県[1]の人。庶民出身で(後述)、はじめは劉表の一兵卒となるが機会

黄奎 - 日本通信百科事典

文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の族子、黄射の族兄弟という[1]。生母は来氏で、蜀漢(蜀)の執慎将軍・来敏の外甥で、来忠の外従兄にあたる[1]。 概要[]江夏郡安陸県[2]の人。孝廉に推挙されて、郎中となった。 192年

後主 - 日本通信百科事典

後主(こうしゅ)とは、中国の君主の尊号である。三国時代の蜀漢(蜀)の懐帝・劉禅(安楽郷思公)の尊号三国時代の呉(孫呉)の孫皓こと孫彭祖(帰命煬公)の尊号五胡十六国の成蜀の李勢(チベット系巴氐族の酋長)五胡十六国の後涼の呂隆(チベット系氐族出身)五胡十六国の西涼の李歆五胡十六国の西

彭ヨウ - 日本通信百科事典

す。本来の表記は『彭羕』です。容貌魁偉な彭羕彭羕(ほうよう、179年? - 215年?/180年? - 216年?)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の政治家。字は永年[1]。目次1 概要2 彭羕の隠された事項3 脚注4 関連項目概要[]馬超を唆す彭羕広漢郡[2]の人で、身の丈は

章武 - なんでもある Wiki

章武(しょうぶ)は、三国時代、蜀(蜀漢)の昭烈帝劉備の治世で使用された元号。221年4月 - 223年4月。蜀は延康や魏の元号である黄初の正統性を認めず、建安が26年まで使われた。プロジェクト 紀年法元年4月:劉備が成都にて帝を称し、蜀(漢)政権を樹立。漢朝正統を自認。3年4月:

劉タン - 日本通信百科事典

劉タン(りゅうたん)とは、漢の宗族で、約2名ほど存在する。劉琰 : 字は威碩。蜀漢(蜀)の官僚。魯郡[1]の人。魯共王の劉余(劉餘)の後裔で、劉某の父(仔細は劉琰を参照のこと)。劉惔 : 別称は「劉恢」、字は真長。晋(東晋)の官僚。沛郡相県[2]の人。後漢の沛献王の劉輔[3]の後

劉タン_(漢) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、蜀漢の劉琰について記述しています。その他の人物については「劉タン」をご覧ください。このページに本来の項目名が表記できない機種依存文字があるため、仮名・略字または代用文字を用いて封印しています。本来の表記は『劉琰』です。風雅な劉琰劉琰・劉炎(りゅうたん/りゅ

劉シン_(漢) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、蜀漢の劉㻣について記述しています。その他の人物については「劉諶」をご覧ください。このページに本来の項目名が表記できない機種依存文字があるため、仮名・略字または代用文字を用いて封印しています。本来の表記は『劉㻣』です。妻子を巻き込んだ独善的な劉㻣劉㻣(りゅう

劉余 - 日本通信百科事典

陽節侯の劉恬・瑕丘節侯の劉政・公丘夷侯の劉順・郁桹侯の劉驕[1]・西昌侯の劉敬の父。後漢末の天文学者の劉洪(字は元卓)と荊州牧・劉表[2]と蜀漢(蜀)の車騎将軍・劉琰の遠祖。魯王に封じられて、「共王」(『漢書』王子侯表では、「恭王」)と謚された。劉余 (江夏王)[3] : 後漢の

劉シン - 日本通信百科事典

劉㻣・劉諶(りゅうしん)とは、漢(蜀漢)の皇族と非皇族。約2名ほど存在する。劉㻣 : 劉備の孫、劉禅と張皇后(孝懐皇后)[1]との間の子。劉璿(劉濬)・劉瑶(劉揺)・劉琮(劉綜)・劉瓚(劉瓉/劉讃)の異母弟、劉珣(劉恂)・劉璩(劉琥/劉虔)の異母兄、崔妃[2]との間に3人の子を儲

劉亮_(叔朗) - 日本通信百科事典

曖昧さ回避この項目では、蜀漢の劉備の弟・劉亮について記述しています。北魏(代魏)~西魏の部将・劉亮については「劉道徳」をご覧ください。劉備の弟・劉亮の肖像劉亮(りゅうりょう、? - 187年?)は、蜀漢(蜀)の皇族に属する人物で字は叔朗[1]という。彼は『三国志』には登場せず、『

劉公仲 - 日本通信百科事典

蜀攻略中に戦死した劉公仲劉公仲(りゅうこうちゅう、197年? - 214年?)は、蜀漢(蜀)の皇族。「公仲」は字であり、諱は不詳。彼の事項は『元本』[1]にある。劉備の次男で、生母は甘夫人(皇思夫人/昭烈皇后)であり、劉禅と劉永の同母兄である。妻の姓は不詳、劉理[2]の父と伝わる

劉イン - 日本通信百科事典

(劉囘)の孫、南頓県の令の劉欽(光文帝)の子、劉仲(劉嬉)・世祖光武帝(劉秀)の兄、哀王の劉章・北海靖王の劉興・汝陽恭敦王の劉彦[1]の父、蜀漢(蜀)の劉備の7世の祖。一族の劉稷とともに、同族の更始帝(劉玄)によって誅殺された。その死後、末弟の光武帝によって斉王に封じられて、「武

劉巴 - 日本通信百科事典

劉巴(りゅうは)とは、漢(後漢)の宗族で、蜀漢(蜀)の政治家・部将。約2名ほど存在する。劉巴 (尚書令) : 蜀漢の政治家。字は子初。零陵郡蒸陽県[1]の人。楚戻王[2]の劉英の7世の孫[3]、六侯[4]の劉种の6世の孫[3]、劉度の玄孫、劉拘の曾孫、蒼梧郡太守の劉曜の孫、江夏郡

劉度 - 日本通信百科事典

漢の世祖光武帝(劉秀)の曾孫、楚戻王[1]の劉英の孫、六侯の劉种の子、劉拘の父、蒼梧郡太守の劉曜の祖父、江夏郡太守・盪寇将軍の劉祥の曾祖父、蜀漢(蜀)の劉巴の高祖父[2]。父の後を継いだ。劉度 (後漢) : おそらく、漢の宗族出身。威宗桓帝(劉志)の代に荊州刺史として、赴任した。

劉展 - 日本通信百科事典

劉展(りゅうてん)とは、漢の宗族(広義の皇族・宗室)、あるいは非皇族で、約3名ほどいる。劉展 (徳公) : 字は徳公。蜀漢(蜀)の皇族で、烈祖穆帝(繆帝)・劉備の従弟で、劉敬の子。187年の『田野の戦い』で、従兄弟の劉亮(劉備の弟)と劉徳然らと戦死したと伝わる[1]。劉展 (曹魏

劉勝 - 日本通信百科事典

侯の劉伝富・安険侯の劉応・安道侯の劉恢・澎侯の劉屈氂の父。中山王に封じられて、「靖王」と謚された。子沢山で、孫も含めて120人の家族がいた。蜀漢(蜀)の劉備の遠祖とするが諸説があり、定かではない。劉勝 (平原王) : 後漢の和帝(劉肇)の庶長子、殤帝(劉隆)の兄。生まれつき病弱で

劉囂 - 日本通信百科事典

(鄧騭)・鄧鳳父子の末裔。↑ 『元本』(『元大徳九路本十七史』、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書)より。↑ 蜀漢(蜀)の鄧芝の従弟にあたる。この記事は 『劉囂』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一覧です

劉イン_(斉王) - 日本通信百科事典

主)。早く父を失い、当時10代後半だったとされる劉縯は一家の大黒柱となる。子は斉哀王の劉章・北海靖王の劉興[5]・汝陽恭敦王の劉彦[6]ら。蜀漢(蜀)の烈祖穆帝(繆帝)・劉備の先祖に当たると伝わる[7]。目次1 概要2 劉縯に関する隠された事項3 脚注4 関連事項概要[]南陽郡蔡

先主皇后 - 日本通信百科事典

先主皇后(せんしゅこうごう)とは、中国の皇后。約2名ほど存在する。いずれも先主の号を持つ帝王の皇后を指す。先主寇皇后(先主鴻皇后) : 蜀漢(蜀)の烈祖穆帝(劉備)の皇后で劉封の生母とされる。後漢の侍中の寇栄の孫娘、寇寵の娘、寇猛の姉妹にあたる。先主王皇后 : 諱は順。南唐の烈祖

劉敬 - 日本通信百科事典

の劉光、広戚節侯の劉将・寧陽節侯の劉恬・瑕丘節侯の劉政・公丘夷侯の劉順・郁桹侯の劉驕の弟。西昌侯に封じられた。劉子敬 : 諱は敬、字は子敬。蜀漢(蜀)の烈祖穆帝・劉備の叔父、東郡范県の令・劉雄の次子、劉弘の弟。子は劉展。甥の劉備が幼いときに大きな桑を見て「僕は大きくなったら、(桑

姜維の概要 - basyoku and kyoui

次北伐の際に蜀に降伏し、その際に諸葛亮から推挙され、倉曹掾・奉義将軍の官を与えられている。 諸葛亮死後の蜀における軍事的なトップであり、蜀漢が滅ぶその瞬間まで戦い続けた。

諸伏高明 - 名探偵コナン Wiki

6]-鈴木次郎吉諸伏高明警部[5]-怪盗キッド-キッド[7]名前の由来「諸伏高明」とあだ名の「所轄のコウメイ」は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師である諸葛孔明 (しょかつこうめい) から。家系図詳細は「諸伏家」を参照ノート: *は故人を意味する。諸伏氏.jpg諸伏氏

弓長警部 - 名探偵コナン Wiki

(漫画: 988-989; アニメ: 909-910)人間関係毛利小五郎弓長は、毛利小五郎が火災犯係にいた頃の上司。名前の由来名前の由来は、蜀漢の将軍、政治家の張飛。下の名前は決まっていないが、原作者青山剛昌のイメージは「飛男」(とびお)[6]。脚注注釈出典↑ 1.01.11.2

カイ祺 - 日本通信百科事典

は不詳である。『三国志演義』には登場しない。荊州牧・劉表の参謀であった蒯越[1]の族子、蒯良[2]の従弟、蒯鈞[3]の従父、もしくは大叔父、蜀漢(蜀)の丞相・諸葛亮の姉婿[4]であった。概要[]南郡中廬県[5]の人である[6]。208年に族父の蒯越と従兄の蒯良とともに、曹操に帰順

先主 - 日本通信百科事典

先主(せんしゅ)とは、中国の君主の尊号である。 蜀漢(蜀)の烈祖穆帝(繆帝)・劉備の尊号南唐の李昪(烈祖)の尊号関連項目[]先主寇皇后(先主鴻皇后)先主皇后この記事は 『先主』 のための曖昧さ回避ページです。下記は同じタイトルを共有しているページへのリンク一覧です。下記の曖昧さ回

何祗 - 日本通信百科事典

張嶷の昔なじみの何祗像何祗(かし、生没年不詳)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の政治家。字は君粛。子の名は未詳。彼の伝記は『蜀書』「楊洪伝」が引く『益部耆旧伝』の雑記にある。「何祇」とも呼ばれる。概要[]蜀郡郫県[1]の人。親友の張嶷同様に寒門出身だったが、寛容で気さくな人柄だ

傅士仁 - 日本通信百科事典

傅士仁像傅士 仁[1](ふし じん、生没年不詳)は、蜀漢(蜀)の部将。姓は傅士[2]、諱は仁[2]。字は君義。傅士某の父、前梁の豫州刺史の傅士哲の遠祖といわれる[2]。概要[]広陽郡[3]の人。彼の伝記は『蜀書』楊儀伝/関羽伝および、『呉書』呂蒙伝が引用する『呉書』(韋曜(韋昭)

中国 - 日本通信百科事典

本の地域も含まれて多様な定義があり「中華」とも呼ばれる。古代中国で、「中原」を意味した国々のこと(例 : 漢および、『三国志』の魏・呉・蜀(蜀漢)など)。近代の清までこの定義が常用された。中華民国 : 1912年から1949年まで中国大陸を統治した国家と、現在の国家(台湾)。中華

トウ芝 - 日本通信百科事典

。甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する諸葛亮と孫権に信頼された鄧芝像鄧芝(とうし[1]、172年?[2] - 251年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は伯苗。後漢の元勲の鄧禹の孫で上蔡侯[3]・護羌校尉の鄧訓(鄧禹の六男)の子である鄧隲(鄧騭)[4]の末裔、父の名は未詳

ホウ統 - 日本通信百科事典

『龐統』です。甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する龐統像龐統(ほうとう、177年 - 213年/178年 - 214年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の軍師・参謀。字は士元。父の名は不詳、子は龐宏[1]、弟は龐林[2]、従父は龐徳公[3]、族弟は龐山民[4]、従子は龐渙[5]ら。

劉弘 - 日本通信百科事典

人。長沙定王の劉発の子の安衆康侯の劉丹の後裔、後漢の司空となるが、実績を挙げなかったために董卓に強引に罷免された[4]。劉弘 (官吏) : 蜀漢(蜀)の先主・劉備と劉亮(武邑湣公)の父、東郡范県の令・劉雄の子。劉敬(劉子敬)の兄、劉展(劉敬の子)の伯父。地方官僚だったが、劉備が幼

劉曜 - 日本通信百科事典

) : 零陵郡蒸陽県[2]の人。後漢の楚戻王[3]の劉英[4]の玄孫、六侯の劉种の曾孫、劉度の孫、劉拘の子、江夏郡太守・盪寇将軍の劉祥の父、蜀漢(蜀)の劉巴の祖父。蒼梧郡太守となった。劉曜 (曹魏) : 魏の軍営令史。東莱郡牟平県(現在の山東省煙台市福山区)の人。後漢末の兗州刺史

張飛 - 日本通信百科事典

虎髭の張飛張飛(ちょうひ、? - 221年7月)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将。字は益徳[1]、父母の名は不詳、子は張苞・張紹・後主の劉禅の后である敬哀皇后(諸葛瞻夫人・費恭夫人・関統(関羽の孫)夫人の母)・同じく張皇后[2]、孫は張遵(張苞の子)・張益(張紹の子)[3

孟獲 - 日本通信百科事典

南中(西南夷)の英雄の孟獲像孟獲(もうかく、生没年不詳)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の御史中丞、かつては西南夷(南中)の豪族連合の盟主だった[1]。字は不詳。李恢の昔なじみという。父は漢族で現地の豪族の孟節[2]と言い、母は古代タイ系の酋長との娘とされ、妻は金環[3]。族弟