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劉備の弟・劉亮の肖像
劉亮(りゅうりょう、? - 187年?)は、蜀漢(蜀)の皇族に属する人物で字は叔朗[1]という。彼は『三国志』には登場せず、『元本』[2]のみに登場する人物。
それによると、烈祖穆帝(先主)。劉備の同母弟で、従兄弟は劉展(劉敬の子)、族兄弟は劉徳然(別名は劉義、劉元起(劉超)の子)、母方のいとこは簡雍[3]という。
涿郡涿県楼桑里[4]の人で、祖父の劉雄の代までは東郡臨邑県[5]の人という[6]。
幼くして、地方官僚だった父の劉弘が早世したため、兄の劉備と生母の簡氏(耿氏)とともに下僕を従えて、草鞋・筵を営みながら生計を立てた。兄が従兄弟の劉展と族兄弟の劉徳然とともに元九江郡太守の盧植の門下生になると、ともに学問を勤勉に学んでいたという。彼は兄と違い、大人しく慎み深い性格だったという[7]。
184年に兄が簡雍(耿雍)・張飛・田豫(田予)・傅士仁[8]とともに、昔なじみの中山国の豪商の張世平とその甥の蘇双の軍資金で挙兵すると、劉展・劉徳然・簡雍とともに親族として従軍して、校尉の鄒靖の指揮下で、黄巾党の軍勢と戦った。
また、兄の師である中郎将の盧植が鉅鹿郡広宗県[9]で黄巾党の教祖・天公将軍の張角と戦ったとき、兄・劉備の兄弟子である公孫瓚とともに救援したが、小黄門の左豊(宦官)の讒言で、更迭され後任に傲慢で有名な董卓が赴任すると、兄一行や公孫瓉とともに現場を立ち去り、故郷に戻ったという。
187年に、かつての中山郡太守である張純が、後漢の太尉・車騎将軍の張温の対応に不満を持って、同郷の張挙と同盟者のトルコ系烏桓(烏丸)の大人(単于)の丘力居とともに反乱を起こした。これを鎮圧するために青州刺史の龔景は自ら張純討伐に向かった。
その途中で平原郡の土豪の劉平[10]が龔景に目通りして、青州黄巾党を討伐で名を馳せた劉備を推挙した。龔景はそれを受け入れて、劉備と面談して劉備の素質を認めこれを従事とした。こうして再び、劉備らは挙兵して、関羽・張飛らを率いて動き出した。当然、劉亮ら親族も従軍した。
まもなく、劉備は張挙配下の程遠志[11]と鄧茂[11]の軍勢と田野県で戦って惨敗し、負傷したため死んだふりをして、命からがらに脱出した(『田野の戦い』)。しかし、この戦いで劉亮も親族の劉展・劉徳然らとともに戦死してしまったという。このために劉備は多くの親族を失って、好敵手の曹操や孫堅と異なり、一族の後盾が皆無だったという。
当然、劉亮は劉展・劉徳然とともに年若かったために、妻どころか子もいなかったために、劉備の家系である後漢の臨邑侯の系統は、唯一劉備のみだけだったという。
219年に、劉備が蜀で漢中王(蜀王)に即位すると、輔国将軍を追贈されて武邑侯に封じられて、「湣公」と謚され、甥の劉永[12]がその後を継いだ形になったという[13]。
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