カイ祺

ページ名:カイ祺
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劉封によって非業な死を遂げた蒯祺像

蒯祺(かいき、? - 219年)は、後漢末三国時代にかけてのの部将。字は不詳である。『三国志演義』には登場しない。

荊州牧・劉表の参謀であった蒯越[1]の族子、蒯良[2]の従弟、蒯鈞[3]の従父、もしくは大叔父、蜀漢)の丞相・諸葛亮の姉婿[4]であった。

概要[]

南郡中廬県[5]の人である[6]。208年に族父の蒯越と従兄の蒯良とともに、曹操に帰順し、『赤壁の戦い』[7]以降から、荊州北部の南陽郡・南郡を支配した曹操から荊州西北部の房陵郡太守に任命された[8]

219年、蜀王(漢中王)であった劉備は参謀の法正の進言で、劉備の子である劉封を総大将として、副将に孟達および房陵郡と隣接する漢中郡[9]太守・魏延が劉備の命で東進して、劉封配下の援軍の将として蒯祺がいる房陵郡を討伐した。

そのとき、諸葛亮は劉備に進言して姉婿の蒯祺を捕虜にして、蜀漢の部将として帰順させるべく計らった。孟達は諸葛亮の盟友であり、その意向を受けて総大将の劉封には内密に蒯祺に降伏勧告の使者を出したが、意外なことに蒯祺は帰順を拒んだ。

間もなく、孟達の行為を聞いた劉封は激怒して、一方的に孟達に房陵城の猛攻撃を厳命した。諸葛亮の意向を知っていた孟達は劉封を懸命に諌めたが、怒りが収まらない劉封は孟達の諌言を聞き容れず、やむなく孟達は房陵城を陥落させてしまった。房陵城に入城した劉封は魏延に命じて、捕虜となった蒯祺をはじめ、諸葛亮の姉である蒯祺夫人を含むその一族を皆殺しにした[10]

劉封の行為に驚愕した孟達は直ちに急使を派遣して、諸葛亮にこのことを知らせた。義兄が劉封の厳命で処刑されたことを知った諸葛亮は劉封を激しく恨み、憎悪しその報復をすると誓ったのである。219年夏のことだった。

劉封らはさらに上庸郡太守の申耽・申儀兄弟を討伐した。申兄弟が全面降伏し、妻子を人質に差し出したので、こうして荊州西北部全域は蒯祺一族の犠牲を含めて平定されたのである。

間もなく、劉封は父・劉備から上庸・房陵・西城の三郡[11]の統轄を任され、副軍将軍に累進した。

もともと、劉封は諸葛亮および、その盟友の孟達とは折り合いが悪く、220年に劉封の理不尽な行為に激怒した孟達は魏の曹丕のもとに奔走して降り、蜀漢に反旗を翻したのである。激怒した劉備は子の劉封に孟達討伐を命じたが、劉封はかえって孟達に敗北して蜀郡成都県[12]に逃げ戻ったのである[13]

このとき、諸葛亮は姉婿の蒯祺の仇を討たんために「封はわが君が(わが義兄の)蒯祺を生かして捕虜にする君命に背きました」そして、引き続き「封は生来剛毅のため、次世代(劉禅)では制御できないでしょう。ここは死を賜るべきです」と劉備に進言した。そのために劉封は自決して果てた。ようやく、諸葛亮は姉婿の蒯祺の仇を討ったのであり、劉封の弟・太子の劉禅の補臣としての地位を確立して、蜀漢の重鎮になったのである。

脚注[]

  1. 前漢の説客・蒯通=蒯徹の末裔と称した。
  2. 蒯越の兄の子とする説もある。
  3. 蒯欽とも、蒯良の孫。
  4. 盧弼の『三国志集解』が引用する『襄陽耆旧記』
  5. 現在の湖北省荊州市江陵県あたり
  6. 西晋以降は南郡北部は分岐されて襄陽郡となる(現在の湖北省襄陽市)。
  7. 『江表伝』では『烏林の戦い』
  8. その時期は不詳であるが、荊州西部を支配した劉備は南陽郡・南郡中西部を分割し、夷道、狠山、夷陵の三県を領した宜都郡と定めた。また、隣接する房陵県は本来は漢中郡に属していたが、荊州牧・劉表が晩年に支配すると、南陽郡・南郡中西部に編入させて、蒯祺をその太守とした。後に曹操が南陽郡・南郡北部を支配すると、蒯祺はそのまま曹操に仕えたと見られる。同時に、蒯祺ははじめから劉表に反旗を翻して独立したとする記述もあり、真偽の程は不明である(北宋の司馬光の『資治通鑑』が引く張勃の『呉録』)。
  9. 西晋以降は南鄭郡と改称された。
  10. その一方、の陸遜が房陵郡太守の鄧輔と南郡太守の郭睦を討ち破ったとする記述がある(『呉書』陸遜伝)。
  11. 主に南陽郡・南郡中西部の郡境地域を指す。
  12. 現在の四川省成都市双流県
  13. 劉封の項を参照のこと。

関連項目[]



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