関羽

ページ名:関羽

美髭公の関羽

関羽(かんう、? - 219年10月14日[1])は、『三国志』に登場する蜀漢)の部将。祖父は関審(菅審/管審)[2]、父は関毅(菅毅/管毅)[3]。字は雲長。妻は胡氏[4]、義弟(妻の弟)は胡班[5]。子は関平・関興(安国)ら、孫は関樾[6]と関統・関彜兄弟[7]ら、曾孫は関敝[8]、玄孫は関朗[9]。元の姓は菅[10]で、元の名は長生[11]だった。長い髭をたくわえた任侠的な人物として知られていた。『春秋左氏伝』を愛読して、その内容を暗記できたという[12]。身の丈は9尺[13]という長身であった。

目次

概要[]

河東郡解県解良村常平郷[14]の人。関羽の故郷は、塩の特産地[15]だったので関羽の生家は闇塩を営んでいたと思われる。若いときに暴利を貪り、貧民を苦しめた商売敵の豪商を殺害したため、官吏に追われて妻子とともに出奔した。

189年に、後漢の大将軍の何進[16]が、丹陽郡の賊を討伐するために、都尉の毌丘毅[17]を派遣し、関羽は同郷の毌丘毅に従軍した。丹陽郡で毌丘毅の従事となった劉備は母方の従弟の簡雍(耿雍)・張飛田豫田予)・傅士仁[18]らを率いており、劉備と邂逅した関羽は彼に惚れてしまい、そのまま劉備の配下となった。

以降の関羽は、劉備の古参の片腕存在として活躍した。翌191年に劉備が兄弟子である中郎将・都亭侯の公孫瓚の推挙で、平原の相になると張飛とともに別部司馬となった。

198年、曹操が劉備とともに呂布を滅ぼした際に呂布の部将の秦宜禄(秦誼)未亡人の妻の杜氏が呂布の側室となったが、関羽は曹操に嘆願して「自分の側室にしたい」旨を伝えた[19]。関羽が執拗のために曹操も承諾した。だが、実際に会った杜夫人が美貌と判断した曹操は理由を設けて、いつのまにか自分の側室にしてしまった。これを聞いた関羽はあまりのことに唖然したという[20]

199年、劉備が都の穎川郡許昌県[21]に滞在したときに、後漢愍帝[22](劉協)の狩猟行幸の際に劉備に同伴した関羽は、曹操の主上(愍帝)に対する態度が不遜だったために、これを見て激怒した関羽は劉備に対して「曹操は陛下に対して無礼な振る舞いをしており、いずれは漢王朝の禍根となる人物です。今のうちに葬るべきです」と進言した。しかし、劉備は「今は実力者の曹操を殺害すると、世の中は混沌とした乱世となり、国家のために利益でない」といって、これを採り上げなかった[23]

200年に曹操配下の徐州刺史代理の車胄(車冑)を劉備の命で、張飛とともにこれを殺害した。間もなく臨淮郡下邳県の守将となり、劉備の家族の守備に就いた。しかし、曹操の襲撃に敗れて、旧友の徐晃・張遼の説得で曹操に降り、厚遇された。

しかし、関羽は曹操が袁紹との戦いで、袁紹の部将の顔良に包囲された曹操配下の東郡太守・劉延を救援し、ついでに顔良を討ち取ると、その功績で漢寿侯となった。しかし、関羽は「義理」を果たしたと称して、曹操に辞して劉備の家族とともに袁紹の陣営にいる劉備のもとに立ち去った。曹操もあえてこれを追わなかった。

後に劉備が頼った荊州牧・劉表が亡くなったとき、関羽は江陵郡に駐屯して数百艘と一万騎を率いていた。そして劉表の長男の劉琦(劉琪)が江夏郡太守となったので、これと提携して、長阪陂で曹操に追われた劉備を救助した。この功績で後に襄陽郡太守・盪寇将軍に任じられた。

211年、劉備が益州にむかうと、関羽は南郡に駐屯した。劉備が益州を占領すると、荊州全体の軍事総督となり、半独立の勢力となった。あるとき新参の馬超が豪勇と聞いた関羽は「あの鼻たれ小僧(馬超)と、この俺のどっちが強いか、勝負せい!」とわめいた。これを聞いた諸葛亮は「馬超は豪勇ですが、かつての彭越・黥布(英布)の類に過ぎません。美髭公(関羽)は、やはりご盟友の張飛将軍以上の英傑であり、この勝負宣言は無効であります」と関羽をなだめる書簡を出した。これを見た関羽は優越感となり、家臣たちにこれを公開したのである。

216年、関羽は勝手に荊州を平定するために孫権の承認がないまま、無断で軍勢を動員したので、激怒した孫権は呂蒙を派遣して、荊州南部を占領させた。これに対して、関羽も激怒して応戦した。しかし、魯粛の調停で事なきを得た。

219年に、劉備が蜀の漢中王になり、前将軍となった。しかし、古参とはいえない黄忠と同列と聞いた関羽は「わしはあんな老いた氏素性もわからんやつと同列にはならんぞ!」とわめいたので、諸葛亮が「関羽将軍が収まりますまい」と劉備に上奏して言った。しかし、劉備は「関羽は古参だ。このわしがよく知っておる。剛直な費詩を派遣して、わしの言葉を伝えるから大丈夫だ」と言った。こうして、費詩と面会した関羽は、「将軍は地位のために挙兵なされたのではないでしょう。まして後将軍・黄忠と地位を比較すること自体が滑稽であります」と費詩に厳しく諭され、そのまま前将軍として拝謁した。

一方、関羽は呉の孫権から「わたしの息子に、美髭公のご令嬢を賜りたい」と使節を出した。しかし関羽は「わしの勇ましい娘をあんな犬ころの小倅には譲れない!」と一蹴したため、激怒した孫権は曹操と同盟を結んで、呂蒙に関羽討伐を命じた[24]

間もなく、関羽は曹操を討伐する「北伐」のために軍勢を動員した。襄陽郡付近の有力な山賊の首領である梁郟や陸渾らを買収して関羽は彼らに印號を授け、決裁権を委ねさせた。

また、南陽郡宛県の土豪の侯音は衛開とともに、魏の軍役労務が過酷だったため、ついに反乱を起こして関羽と内通した。関羽は両人に呼応した。南郡の襄陽および曹仁(曹操の族弟)が籠城する樊城を包囲する予定だったが、一足先に曹操が派遣した于禁と龐悳が曹仁とともに、侯音と衛開を攻め滅ぼしたのである。また、曹操が関羽の勢力を恐れて、潁川郡郟県(襄県)の摩陂まで自ら軍勢を率いて駐屯したほどだった。同時に、煽動に巧みだった後漢の西曹掾・魏諷は張泉(張繡の子)ら高級官僚の子弟らとともに洛陽で反乱を起こし、関羽に呼応したが、これも魏諷の同僚で長楽衛尉・陳禕が留守居の曹丕[25]に密告して露見された。ただちに曹丕は司馬懿・劉曄[26]らに命じて鎮圧させ、魏諷・張泉らは捕らえられて市場で処刑され晒し首となった。そのため、驚愕したさすがの曹操は遷都を建議したほどであった。

こうなると関羽の矛先は于禁・龐悳で、于禁を捕虜として、部将の呂布[27]に命じて、自分の左肘を貫通させた龐悳を捕らえた。関羽は龐悳に降伏を促したが、龐悳がこれを拒んだのでこれを斬った。以後はそのまま樊城にいる曹仁を水攻めで包囲した。

このとき自分の左肘が龐悳から受けた矢が貫通させたことが要因で悪化して破傷風を起こしたので、ある名医を呼びだした[28]。関羽は荊州議曹従事・王甫と囲碁をしながら、顔色を変えずに過酷な治療を受け続け、完治させたと伝わる。その後、関羽は別動隊の将に呂布を命じて、潁川郡郟県の摩陂にいる曹操を討伐させた。

しかし、問題もあった。前述の通り関羽は自尊心が高く、特に名士階級に辛辣に当たるなど見下したので、江陵にいる麋芳[29]、公安にいる傅士仁ら劉備古参の部将たちと食糧輸送で悶着を起こしたのである。関羽は「あのふたりは、わしが嫌いなので、わざと食糧輸送を遅らせておるのだ。わしが凱旋したときには、お上(劉備)に申し上げて、ただちに厳重な罰の制裁を加えてやるぞ!」と物騒なこと言った。

同時に関羽は勢いに乗じて、房陵・上庸を統治したばかりの劉封(劉備の子)と孟達に援軍を請うため、主簿の廖化を何度も派遣した。しかし、劉封と孟達は関羽の不寛容さに懸念して建前として「服属させた房陵郡の山中にいる土豪の動揺を与えないことや軍勢の編成が整っていない」という理由でこれを拒んだ。怒りに満ちた廖化が帰還すると、このことを関羽に報告して、以来から関羽は劉封と孟達を恨むようになった。

こんなときに呂蒙は虞翻を派遣したため、「助け舟」という思いで麋芳・傅士仁、さらに従事の潘濬も関羽嫌いのために呉に降った。このとき、王甫は劉備に援軍を請うために成都に向かった[30]

こうして、味方と拠点を失った関羽は悪いことに、曹操が派遣した徐晃と趙儼の軍勢と激突するも、樊城から曹仁が満寵・牛金を率いて討って出たため挟撃を受けた[31]

同時に郟県にある摩陂を攻撃中の呂布も曹操に撃破されたため、大敗した関羽は呂布の軍勢と合流して、南郡当陽県にある麦城に籠城した。絶望した関羽は「もはや、これまで…」と覚悟して、麦城を出たが、南郡当陽県漳郷[32]で呉将・潘璋の配下である司馬の馬忠の手勢によって、子の関平・都督の趙累・義弟の胡班・呂布・廖化とともに捕らわれたのである。まもなく当陽県臨沮で、哀れな関羽は長男の関平とともに斬首された。60余歳だったという[23]。建安24年冬10月14日のことだった[33]。その首の曹操のもとに送られ、丁重に葬られて漢の寿壮穆繆侯として謚された[34]

余談になるが、翌冬11月に呂蒙の副将を務めた孫皎[35]が、わずか32歳で急死した。翌々冬12月17日に重病を押して関羽を滅ぼした呂蒙も43歳で病死した[36]

次男の関興がその後を継いだ。少年時代から優れた人物で、諸葛亮はその才能を評価した。20余歳で侍中・中監軍に任命されたが、数年後に30歳前後で亡くなり、諸葛亮はその訃報に嘆き悲しんだという。嫡子の関統が幼くしてその後を継ぎ、後主・劉禅の娘を娶り、虎賁中郎将となった。しかし息子がいなかったので、その死後、異母弟の関彜(関夷)がその後を継いだ[37]

陳寿は「関羽は下層出身の部下を労わったが、同僚・上司に対しては傲岸不遜で毒舌を撒き散らしたのが禍いしたのだ」と酷評している。

はるか後世になって、関羽は明()の太祖洪武帝の朱元璋によって、「武成王」と諡された。

関羽の場合は、壮大なスケールから程遠いが、かつては織田信長と豊臣秀吉にその器量を惚れこんで、官位で買収しようと試みたが幼なじみで主君の徳川家康に対する忠義(節義)を貫き、これを断ったことがあり、晩年はその家康の密命を受けて、伏見城で石田三成の猛攻撃を受けて、自ら捨駒による囮として壮絶な戦死を遂げた鳥居元忠(彦右衛門)とある意味、比較される人物である。

関羽の隠された事項[]

『東観漢記』・『元本[38]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとにして下記のように推測検証をしてみる。

  • 郷里の常平郷の民間伝承または野史では関羽の生年が159年または160年の旧暦6月24日となっていること[39]
  • それによると、河東郡の郷士の子という下層階級(庶人)に生まれ、闇塩商売を家業としたこと
  • 彼は家業の一方、『党錮の禁』で下野した元官吏を師に仰いで、『春秋左氏伝』などの勉学にも励み、計算に巧みで文武に優れた若者だったこと
  • 177年、名士の胡華の娘の胡氏(胡固)と結婚し、胡班の義兄となり、178年、長男の関平が生まれたこと
  • 黄巾の乱のころ、商売敵の闇塩豪商は常平村では干魃が続き、飲み水にも欠く状態を利用して暴利をむさぼっていたこと
  • ある一人の女が豪商に嬲られたため自殺した。激怒した関羽は、ある日その豪商の自宅に乗り込み、その一族郎党を誅殺したこと
  • そのため、累が及ばないように祖父の関定と父の関寧、岳父の胡華、義弟の胡班らを安全な場所に避難させたこと
  • 同時に自分は次男の関興[40]を身籠った妻の胡氏と長男の関平とともに郷里を出奔したこと
  • 189年ころ、張純討伐に挙兵した劉備と出会い、認められてその筆頭部将となったこと[41]
  • 関羽が性格的に不寛容であるのは、長年の間に主君の劉備に「他所者」[42]ということで、ある意味「冷遇」?をされ続けており、同じ境遇の諸葛亮と共感を持っていたからだという[43]

以上である。

結論

関羽は劉備より年長で、曹操より年少であろうと思われる。

脚注[]

  1. 『元本』(『元大徳九路本十七史』)。
  2. 関審は156年に68歳で没したという(『前将軍関壮穆侯祖墓碑銘』)。
  3. 字は道遠という。清代に発掘された関羽の墓碑をもとにして判明されたという(銭静方著『小説叢考』)。
  4. 諱は「胡固」とする(『三国志演義』では「胡金定」)。
  5. 河東郡の土豪・胡華(桓帝劉志)の議郎を勤めた)の子という。
  6. 関平の子、趙雲の外孫にあたる。なお、関樾の末裔である関朝泰(関羽の52世の孫)は、清の雍正帝によって1732年7月に五経博士に任命され、当陽で関帝廟の祭祀を奉らせた(『中国地方志集成』(江蘇古籍出版社/2001年)が引用する清の光緒3年刻本『続修江陵県志』六十五巻内の巻五「壇廟」「関帝廟」より)。同時に関朝泰が当陽県の関羽の廟の祭祀を許された(『世宗憲皇帝実録』)。
  7. ともに関興の子。
  8. 関彜の子。
  9. 関敝の子
  10. または管とも。
  11. 寿生とも呼ばれる。
  12. 『江表伝』
  13. 約184㎝
  14. 現在の山西省運城市臨晋県常平村
  15. 前漢の『塩鉄論』より。
  16. 何咸の父、何晏の祖父。
  17. 子は毋丘興。魏の部将・毋丘倹は孫に当たるという(『元本』(『元大徳九路本十七史』))。
  18. 名が仁、字は君義。はるか後世に梁(南朝)の傅士哲が存在し、彼は傅士仁の末裔とみられる(『梁書』羊侃伝)。
  19. 秦宜禄は同郷の河内郡太守の張楊のもとに赴いて、その対処を相談したと、述べている(盧弼著『三国志集解』)。
  20. 王隠著『蜀記』、孫盛著『魏氏春秋』
  21. 現在の河南省許昌市許昌県
  22. 魏からは献帝と諡された。
  23. 23.023.1 『蜀記』
  24. ただし、孫権は関羽に縁談を持ち込みながら、密かに呂蒙に命じて荊州全域攻略させるために、関羽に覚らせないためにゆっくり兵を進めさせた。しかし、この報を聞いた関羽は激怒し、孫権に対して「この狢(ムジナ)めが!」と罵倒したため、慌てた孫権は呂蒙に撤退を命じて、謝罪したと述べている(裴松之が引く『典略』)。
  25. 曹操の第3子。
  26. 後漢の阜陵質王・劉延(世祖光武帝の子)の末裔。成悳侯・劉普の子、太子・劉渙の同母弟にあたる。
  27. 呂奉先と別人、周倉と同人物という。
  28. 三国志演義』では主治医は華佗=華旉となっているが、彼は207年~208年ごろに曹操に誅殺されたので誤りである。
  29. 麋竺・麋夫人の弟で、劉備の外戚筋にあたる。
  30. 後に王甫は劉備の親征に従って、呉の陸遜と戦って戦死を遂げた(『夷陵の戦い』)。
  31. 徐晃は関羽と同郷の河東郡楊県の人で、青少年時代から仲が非常に良かった。かなりの距離を置いて談笑し、政治・軍事の話題は触れなかった。しばらくすると趙儼の目配せで徐晃は表情を変えて「者ども、関羽の首を奪った者には賞金千斤を取らすぞ!」と叫んで、攻撃を命じた。関羽はあまりのことに驚愕して「兄弟よ、これは何事ぞ!」と反論した。しかし徐晃は「関大兄よ!これは公の事で私情は挟めないことのなのだ!」と言ったと伝わる(『蜀記』)。
  32. 現在の湖北省宜昌市当陽県
  33. 『蜀書』関羽伝では冬12月某日、ある説では馬忠の軍勢によって関羽は息子の関平とともに討ち取られて戦死したとも伝わる。
  34. または、忠義侯(南宋の蕭常と元の郝経の『続後漢書』(別称『郝経』))。
  35. 孫権の従弟。
  36. 『三国志演義』では、呉の皇族・孫皎と呂蒙らの目前に関羽の怨霊が現れて「わしの首を返せ~…」という、“関羽の崇り”で呪殺されたという設定となっているが、明らかに誤りである。
  37. 関羽に討たれた龐悳の子・龐会はすでに老将だったが、鄧艾・鍾会の蜀漢討伐に従軍し、蜀漢が滅亡すると老いた龐会は老骨に鞭を打って、亡父の仇である関羽の子孫である関朗・関康之・関攀らを皆殺しし、そのため関羽の系統は途絶えたという(『蜀記』)。
  38. 正式には『元大徳九路本十七史』と呼ばれ、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。
  39. 今泉恂之介著『関羽伝』より。また、『三国志演義』では162年生まれとする。
  40. 関興自身は十数年後に生まれた説もある。
  41. 『典略』
  42. 関羽自身が「非涿郡出身」という意味を指す。
  43. 関羽自身が「反劉封派」として諸葛亮と共通しているという。

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