劉永_(魯王)

ページ名:劉永_(魯王)
曖昧さ回避この項目では、蜀漢の諸侯王について記述しています。前漢および後漢の皇族・宗室については「劉永」をご覧ください。

“鬼っ子”と謳われた劉永

劉永(りゅうえい、207年? - 263年~271年以降)は、『三国志』に登場する蜀漢)の皇族。字は公寿。幼名は阿房(後述)。子の名は未詳[1]、孫は劉玄、曾孫は劉晨(劉咎)、玄孫は劉臻、6世の孫は劉郁、7世の孫は劉安国。

烈祖穆帝(繆帝)劉備の少子で、生母は甘夫人(皇思夫人/昭烈皇后、後述)、異母兄は劉封[2]、同母兄は劉公仲後主懐帝劉禅、異母弟は安平悼王・劉理(後述)、甥は甘陵王・劉琳劉林、劉封の子)、太子兼梁王・劉璿と北地王・劉㻣(ともに劉禅の子)ら。

目次

概要[]

原籍は幽州・涿郡涿県楼桑里[3][4]だが、荊州・南陽郡新野県[5]で誕生した。

208年に『長坂坡の戦い』で、趙雲に護衛を受けて、母の甘夫人と兄の劉禅とともに危機を逃れた(後述)。209年、生母の甘夫人が若くして逝去し、南郡に埋葬された。

219年秋、父・劉備が蜀王(漢中王)になると、劉禅は臨邑侯に封じられ、劉永自身は武邑侯に封じられ、叔父の劉亮の後を継ぐ形となったという[6]

221年夏6月、帝位に就いた劉備は司徒・許靖を派遣し、劉禅を太子にさだめ、梁王に封じられ、劉永自身は魯王に封じられた。

勅命書に言う「少子永よ、汝は「魯」と言う東方の蒼き地域の王となり、漢の藩屏としてこれを支えて、民に安堵を与えて愛される王となることを命じる」というものであった。

230年、劉永の子(諱は不詳)が魯の太子として認められた(後述)。

彼は剛毅の性格をしていたため、侍中の陳祗(許靖の外従孫)と折り合いが悪く、陳祗亡き後は宦官の中常侍・黄皓と対決した。そのため黄皓の讒言で、劉永は兄に疑われて嫌われしまい僻地に左遷され、10余年以上も参内を許されなかった。

263年、蜀漢が魏の鍾会・鄧艾の遠征軍によって滅亡すると、晋公・司馬昭の命で、兄一家とともに洛陽に向かい、奉車都尉に任命され、父祖の地である涿郡の永楽郷侯[7]に封じられた(後述)。

以降の劉永の消息は未詳だが、子は父より先立ったらしく、孫の劉玄が祖父の後を継いだという。

晋の皇族の内訌による『永嘉の乱』(307年~312年)で、劉備・劉禅の末裔らは、南下したトルコ系遊牧民族の南匈奴[8]・鮮卑[9]の侵略で皆殺しされた。

唯一、生き延びた劉玄は子の劉晨とともに、かつて父祖が統治した巴蜀にチベット系遊牧民族の巴氐族の李氏が支配した成蜀前蜀)に逃命して、叔父・劉禅の爵位であった安楽郷侯に封じられた。

後年に東晋の将軍の劉裕[10]の討伐を受け、成蜀は滅んだ。成都で史家で文人かつ官僚でもあった孫盛は従軍したため、劉玄と目合わせたという[11]

まもなく滅んだ成蜀の最後の王・李勢は劉玄ら旧臣とともに東晋の首都・建康に連行された。

以降は、劉玄が逝去し、子の劉晨が後を継ぎ、劉晨が亡くなると、子の劉咎が後を継いで、劉備の系統は劉永の血筋として在続しているという。

劉永に関する隠された事項[]

『東観漢記』・『元本[12]・林国賛の『三国志裴注述』などを総合した本田透『ろくでなし三国志』によると、以下になる。

  • 劉永の幼名は秦の咸陽にある阿房宮にちなんだ「阿房」といわれる
  • 劉永は字の「公寿」を連想すると、劉禅の1歳年下の同母弟で、生母は甘夫人という
  • 異母兄の劉封と同様に剛毅かつ勇猛果敢で、生まれたばかりの嬰児・劉永の奇っ怪な容貌を見た父・劉備は驚愕して「こ、これはわが家に禍を呼ぶ“鬼っ子”だ!捨てよ!!」と叫んだという
  • しかし、母の甘夫人と趙雲の懸命な嘆願でこれを取り消させたといわれる
  • だが、『長坂坡の戦い』で趙雲に救助された劉永は兄・劉禅とともに「この小癪な小童どものせいで、わしは良将(趙雲)を失うところであったわ!」と叫び、地面に投げ捨てされかけたが趙雲が懸命に受け止めたために事なきを得た
  • 以降も、父・劉備に対する複雑な感情で接し、劉永は父を好ましいと思わなかったという
  • しかし、異母兄の劉封は彼に優しく接し、また劉禅に飽き足らない法正魏延らも、劉永を頼もしく思っていたという
  • 同時に文治派の諸葛亮劉琰らからは劉封とともに警戒され、亡父・劉備の遺品である笛[13]を吹いて気を紛らわせたという
  • 異母弟とされる劉理は実は甥(兄の子)とされる[14]
  • 「230年に甘陵王に改封され、264年に奉車都尉に任命され、郷侯に封じられた」とあるが、甥もしくは従孫の武邑侯・劉輯(劉理の次男)も「奉車都尉に任命され、郷侯に封じられた」とあるので、ここでは取り上げない[15]
  • 実際の劉輯は騎都尉に任命され、某郷侯に封じられたのが真相と思われる[16]
  • 劉永の諡号は「烈公」と伝わり、彼の子は劉晨、孫は劉咎と伝わる

結論

父の劉備および同母兄の劉禅さえも嫌われ、左遷された理不尽な人生を過ごし、おそらく長命したと思われるのは越後中将・松平忠輝[17]と共通している部分が多いと思われる[18]

脚注[]

  1. おそらく王偏がある諱。
  2. 劉封は、劉泌(寇泌)と甘夫人との間の子とする説もある。そのように解釈されれば、劉封は劉永の異父兄ということになる。
  3. 現在の河北省保定市涿州県林家屯郷大樹楼桑村。涿県の酈亭という所には楼桑里という所があり、劉備の故郷だという(隋の酈道元著『水経注』巻12、巨馬河)。
  4. 先祖は兗州・東郡臨邑県(現在の山東省徳州市臨邑県)という(『劉備出自考』(津田資久(国士舘大学教授)/国士舘人文学第3号/2013年)でも、この説を支持している)。
  5. 現在の河南省南陽市新野県
  6. 『元本』(『元大徳九路本十七史』)
  7. 諡号は烈公と伝わる。
  8. 屠客部攣鞮氏族および虚連題氏族⇒趙漢劉氏
  9. 慕容部⇒鮮卑燕
  10. 後の宋漢の高祖武帝。
  11. 『蜀世譜』(東晋の孫盛著)
  12. 正式には『元大徳九本路十七史』と呼ばれ、元の大徳10年に池州路儒学によって刊行された『三国志』関連文献書。
  13. 呂布を滅ぼしたばかりの劉備が許都に滞在したときに、曹操から賜ったものだという。
  14. 実際は劉備の次男で、劉禅の同母兄の劉某(字は公仲、197年?~218年?)の子という(『元本』(『元大徳九路本十七史』)、劉封および劉禅の項目を参照のこと)。
  15. 蜀書』劉永伝より。ある説では、魯は呉蜀同盟において、共同作戦で魏を攻めた時に呉が領有権を主張している土地で、蜀漢の皇族が「魯王」と称するのは政治的に好ましくなかったために、劉永は「甘陵王」に改封されたという。
  16. この曖昧さは諸葛亮崇拝者の陳寿の誤植か意図的な改竄と思われる。
  17. 高田松平家家康の6男。
  18. または、秀忠の同母弟の松平忠吉も含むという。

関連項目[]



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