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ドイツの国旗
ドイツ連邦共和国(独語:Bundesrepublik Deutschland)こと、通称ドイツ[1][2]は、ヨーロッパ中部~東西部に位置する連邦共和制国家である。首都はベルリン。1945年の『第二次世界大戦後』にアメリカの支援を受けたドイツ連邦共和国(西ドイツ)とソビエト連邦(ロシア)の支援を受けたドイツ民主共和国(東ドイツ)に分割されたが、1989年11月の『ベルリンの壁崩壊』により、翌1990年10月に再統一された。
北はデンマーク、東はポーランド・チェコ[4]、南はオーストリア[5]・スイス[6]、西はフランス・ルクセンブルク・ベルギー・オランダと国境を接する。また、北部は、北西側が北海、北東側はバルト海に面する。同時に地形的に北ドイツ低地・中部ドイツ低地・南部ドイツ高地に3区分される。
北ドイツはオランダとポーランドの間に広がり、標高約50mで、北海・バルト海に面し、小丘陵を成す洪積世の氷河堆積物に覆われる。
中部ドイツは標高600~700mで、西部にライン山地[7]がある。同時に南西部のライン池溝帯に沿ってシュヴァルツヴァルト・オーデンヴァルトなどの山地がある。東部はハルツ山脈・ツューリンガーヴァルト・エルツ山地などがある。肥沃なロームの土壌に覆われる。
南部ドイツは標高1000m以上で、東西に伸びるアルプス山脈が周辺にあり、氷河湖が多い。最高峰はツークシュピッツェ(2963m)がある。主要河川はライン川・ネッカー川・マイン川・エルベ川・オーダー川・ナイセ川・ヴェーザー川・ドナウ川[8]などがある。
気候は西部が西海岸であり、東部は大陸性である。
住民は大部分がドイツ人であるが、その他にドイツ化した西スラヴ系のソルブ人・カシューブ人・イタリア人・ギリシャ人・トルコ人(オグズ・トルコ人)・旧東欧[9]の移民や、アフリカ系の黒人や少数のユダヤ人[10]とインド人などがいる。そのため宗教は北部や東部や中南部ではプロテスタントが、南部や西部や東南部ではカトリックが多い。その他にイスラム教と少数のユダヤ教も存在する。
ドイツの気候は緯度としては日本の北海道とほぼ同じかやや北方であるが、メキシコ暖流(湾流)の影響で比較的に温暖である。全体的の気候は西岸海洋性気候であり、旧西ドイツの地域は土壌が豊かでやや温暖であるが、旧東ドイツの地域は大陸性であり、土壌があまり豊かではなく、寒暖の差が激しい。同時に北ドイツはメキシコ暖流の影響で、ルクセンブルク・オランダ・ベルギー・フランス北部・イギリス・アイルランド同様に冬季は雪の積量が少なく、南ドイツはアルプス山脈の影響で、オーストリア・スイス・リヒテンシュタイン・スロヴェニア・ハンガリー・チェコ・スロヴァキア・ルーマニア・ポーランド同様に雪の積量が多い。ただし、ドイツ語圏の周辺の南北の気候の差はない。
平均的にドイツの気候は、冬の季節が長くどんより曇りが多く晴天の日々が少なく日中の時間が少ない。そのため朝は7時過ぎに日が昇り、4時前には日が暮れて最高気温が0℃前後であり、最低気温は氷点下の-10℃を超えることも珍しくなく、オランダやフランスとイギリスと比較すると雪が多く降り積もることがあり。オルカーン(Orkan)という冬の嵐が来襲することもある。春になると日中の時間が長くなり、ほぼ日本と同じ形で季節の変わり目になる。夏になると朝は3時半過ぎに日が昇り、9時前に日が暮れる感じになり、晴天の日々が多く、ただし日本のように梅雨はなく湿度が低く、雨が降っても「にわか雨」のようなものであり、大抵のドイツ人は傘を持参しないことが多い。同時に最高気温が25℃前後であり[11]、日本のようにエアコンがない施設機関・住宅が多い[12]。秋は9月になると急速に冷え込んで、日中時間が徐々に短くなり、10月に入ると初雪が降ることも珍しくない。11月になると完全に冬季に入り、4月の半ばまで続くのである。
そのために、低温少湿であるドイツの気候は高温多湿の日本と比較すると、冬は特別に寒さが厳しく、夏は比較的に涼しいといえる。
旧西ドイツは『第二次世界大戦』以降にアメリカの支援を受けて、1950年代に目覚ましく経済を復興するのに成功し、その10年間に工業生産は2倍を越える伸びを示した。EC[13]の発足に加盟して、通貨統合などをリードした。1960年代に大規模な貿易黒字国になったが、経済繁栄のために労働力不足のために、トルコからトルコ人(オグズ・トルコ人)などの外国からの労働者が増大し、そのために、政府間協定で導入された外国人労働者(ガストアルバイター)の募集中止された1973年には、300万人前後に及んだ。同時にトルコ人の中にはドイツに定住するケースが増大し、その後も旧東欧諸国から移民も加えて、宗教・民族などの政治問題・社会問題に発展してしまった。そのため外国人移民を排斥する『ネオナチ』のグループが過激な行動を起こしていった。
とくに、2014年あたりから中近東のシリアの政権などから迫害を受けた大量のアラブ系とイラン系などの難民がドイツをめざして溢れるようにやって来たために、旧東ドイツ地域から発生した極右の『ペギータ』が台頭して、過剰な難民排斥を唱えて、現政権を脅かす存在となり、現在までにおよぶ問題と化している。
1970年代に2回におよぶ石油危機で大きく揺れた西欧先進諸国の中で、インフレ抑制と当時の金貨であったマルクの安定に成功し、西ドイツの経済力の強さを示した。ただ、1980年代にはアメリカのように消費大国となり、その余波でライン川などが汚染されて、社会問題となり『緑の党』などが発足され、投資を惜しまずに山林・河川などの自然環境を改善することに尽力し、ドイツが再統一されると汚染は一部を除いて改善された。
その一方、東ドイツでは『第二次世界大戦』以降の破壊と戦後の分裂による工業面での打撃が西ドイツよりも大きかった。しかし、ソビエト連邦の援助を受けて、社会主義国として逸早く土地改革・需要工業部門の国有化を断行した。同時に社会主義経済の建設に踏み出して、数次の5年間・7年間計画を経て、チェコと並ぶ東欧圏での先進国となった。その後、時代の変遷に追いつかず「社会主義経済の弊害が」表面化し、1990年のドイツ再統一時点での東西の格差が生じていた。
ドイツの東西再統一後、旧東ドイツ経済の再建に尽力しているが、東から西への多数の労働力が移動し、東部では旧式の設備のみが残された地域もある。2013年も首都のベルリン周辺を除いて、経済成長率や失業率も西部と比較すると、東西ドイツ人の間による「心の壁」の支障が根強く、未だに改善されてないケースが残っている。
『ドイツ連邦共和国基本法』に基づく連邦共和国であり、13州(ラント)3市[14]から成る。
1990年の東西統一は基本法23条に基づき、旧西ドイツが旧東ドイツを併合する形で構成された。元首は大統領で、連邦議会議員と州議会で選出された同数の代表から成る連邦集会で選ばれる。権限は形式的・礼義的なものに限定されている。国会は連邦会議[15]と連邦会議[16]から成る二院制であるが、実質は連邦議会の一院制である。
政党の構成は保守であるキリスト教民主同盟(CDU[17])・ドイツ社会民主党(SPD)・中道の自由民主党(FDP)などが旧西ドイツ以来の主要勢力である。その一方、前身の旧東ドイツ時代のドイツ社会主義統一党から構成された民主社会党(PDS)などがある。また、1980年に発足し環境問題に取り組んだ緑の党や、『ネオナチ』の支持を受けた移民排斥を唱えるドイツ共和党(REP[18])といった極右勢力も台頭している。
政治動向としては、1982年10月に就任し、保守・中道[19]の連立内閣を率いるヘルムート・コール首相は、1998年9月まで西ドイツ初代首相のコンラート・アデナウアーによる14年間の内閣を補佐して担当した。しかし、同年に選挙でドイツ社会民主党のゲアハート・シュレーダー率いる野党に大敗した。同党は緑の党と連立政権を組んだ。しかし、2005年の10月の総選挙でドイツキリスト教民主同盟を率いるアンゲラ・メルケルに大敗し、ゲアハート・シュレーダーは辞任した。
さらに、戦乱でシリア系の難民に紛れた「イスラム国」のテロリストがベルリンやムュンヒェンで、銃を散弾する行為が表面化するにしたがい、近年に結成された政党のフラウケ・ペトリー女史党首率いるドイツのための選択肢(AfD)が、反難民・反移民・イスラム教とユダヤ教などの弾圧を唱えて、ドイツをはじめとするドイツ語圏の諸国に徐々に支持を拡大しているという。
2021年12月に16年におよぶ首相をつとめたメルケルが辞任して、後任にオーラフ(オラーフ)・ショルツが就任した。
2022年3月にロシアのヴラディーミル・プーティンが、「東スラヴ諸族の結束を取り戻す!」と称して、西方の隣国のウクライナに侵略戦争を起こした際に、時のオーラフ・ショルツ首相はNATOと連盟して、今までロシアから受けていた「ノルドストリーム」による天然ガスの契約を破棄して、これに激怒したプーティンは「もし、再度に天然ガスを購入したいのならば、ユーロではなくロシアルーブルで支払え」と宣言して、ドイツとは険悪の関係となった。
中央アジア西部にいたアジア系遊牧民族のトルコ系フン族[20]がヨーロッパ方面に西進したことが原因で、北欧を原住地とするゲルマン系の民族が民族大移動し、紀元前からヨーロッパ各地に定住した大陸ケルト人などの先住民族を駆逐したり、同時に大陸ケルト人とラテン人とともに混血を繰り返すうちに原ドイツ人諸部族が形成された。メロヴィング朝を経て、カロリング朝のカール1世大帝がフランク王国を築いた。しかし、843年にフランク王国は東フランク・中フランク・西フランク王国などに分裂して、現在のドイツの大部分を構成した東フランク王国が形成された。
後にカロリング朝の嫡流が断絶してリウドルフィング家(ザクセン朝)のオットー大帝がローマ教皇によって、戴冠を受けて神聖ローマ帝国が誕生した。以降からザーリアー朝[21]・ホーエンシュタウフェン朝などが続いたが、ローマ教皇の政治的介入によってドイツの統一は困難であった。
13世紀以降からはドイツ諸侯の選帝権制度によって、皇帝の権限は弱まっていたのである。15世紀以降からオーストリアのハプスブルク朝が君臨したが、プロテスタントとカトリックによる宗教戦争やヴァレンシュタインが活躍した『三十年戦争』を経て、ハプスブルク朝の男系が断絶して、ハプスブルク朝のマリー・テレーゼの夫であるフランツ・シュテファン1世を祖とするハプスブルク=ロートリンゲン朝(ロートリンゲン家)が誕生すると、ホーエンツォレアン家のブランデンブルク=プロイセン王国が台頭して、ハプスブルク=ロートリンゲン朝の権威は揺らいできたのである。フランスの皇帝と称したイタリア系であるナポレオン・ボナパルトが東進すると、神聖ローマ帝国は消滅し、ハプスブルク=ロートリンゲン朝はオーストリア帝国もしくはオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝と称したのである。
1815年の『ウィーン会議』の結果、ドイツ連邦が成立した。1848年の『三月革命』は失敗したが、ブランデンブルク=プロイセン王国の政治家であるオットー・フォン・ビスマルク[22]の台頭で、ブランデンブルク=プロイセン王国は強大化し、『普墺戦争』でハプスブルク=ロートリンゲン朝のオーストリア帝国を撃退すると、ヴォルフォン=エーファーシュタイン家[23]のハノーファー王国などドイツ諸侯国をブランデンブルク=プロイセン王国の傘下にして、1871年にオーストリア帝国を除いたドイツ帝国が成立した。しかし、ホーエンツォレアン家のドイツ帝国はハプスブルク=ロートリンゲン朝のオーストリア帝国と組んで、『第一次世界大戦』でイギリス・フランス・ロシアなどの連合軍を戦って大敗したため、ドイツ帝国は崩壊した。
1919年に国民によるヴァイマー共和国が成立した。しかし共和国としては未熟だったために、1933年にアドルフ・ヒトラーによるナチス政権が樹立された。『第二次世界大戦』の1945年にヒトラーが自殺して、ドイツが降伏すると、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソビエト連邦によって占領されて、その分割統治が実施された。
1949年に西部と北部と南部の占領地区はアメリカ・イギリス・フランスの統治下となり、後に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立された。東部の占領地区はソビエト連邦の統治下となり、東ドイツ(ドイツ民主共和国が)が樹立された。以降から冷戦によるアメリカとソビエト連邦による『ベルリン問題』がたびたび国際紛争の問題となった。1969年のヴィリー・ブラント[24]率いる社民党首班政権の下では、東ドイツとソ連などの関係改善をはかる東方外交が展開され、1972年に東西ドイツの国交を樹立する基本条約が結ばれた。
1989年の東欧諸国で発生した民主化運動である『東欧革命』およびアメリカとソ連の冷戦の終焉で、東西ドイツの統一の流れが一気に盛り上がった。1990年10月3日に『ベルリンの壁崩壊』によるドイツ統一が実現された。1999年にユーロ(EU)圏始動に備えて、前1998年にはヨーロッパ中央銀行が、ドイツ中部の経済都市であるフランクフルト・アム・マインに設立された。
2020年に新型コロナの感染者がドイツ語圏に国々に増大して、1日おきに数万人が感染して、2021年までに合計が数万人ほど亡くなっており、現在も緊急事態は収容されていない。
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