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曖昧さ回避 | この項目では、エーファーシュタイン家の分家(中・新ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク家)について記述しています。当家が仮冒した貴族については「ヴェルフェン家」をご覧ください。 |
ヴォルフォン=エーファーシュタイン家の紋章
ヴォルフォン=エーファーシュタイン家(独語:Wolfon-Everstein-Haus)は、北ドイツのザクセンのハーメルンの貴族であった(諸説あり)。単にヴォルフォン家・ヴォルフェン家(Wolfen-Haus)と呼ばれる場合もある。
その他にも様々な呼称があり、ヴォルフォン=エーフェルシュタイン家、ヴォルフェン=エーファーシュタイン家・ヴォルフェン=エーフェルシュタイン家(Wolfen-Everstein)、またはヴォルフォン=エーバーシュタイン家・ヴォルフォン=エーベルシュタイン家、ヴォルフェン=エーバーシュタイン家・ヴォルフェン=エーベルシュタイン家(Wolfen-Eberstein)とも呼ばれる。
その分家は、18世紀にロシア皇帝のロマノフ=ヴォルフォン=エーファーシュタイン家やイギリス国王のハノーヴァー朝(ハノーヴァー家)などを輩出した。
エーファーシュタイン(エーフェルシュタイン)家の分家で、家祖のマクヌス1世が妻の実家である「ヴェルフェン=エステ=ビュッテル家(ヴェルフェン家)」の一部を転訛して冠とした「ヴォルフォン=エーファーシュタイン家」と名乗り、自ら「ヴェルフェン家」の後継者と自称(仮冒)した。
そのため、中・新ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク家(Mitte-Braunschweig-Lüneburg、Neu-Braunschweig-Lüneburg)とも呼ばれ、元来がバイエルン貴族だったヴェルフェン=エステ=ビュッテル家(古ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク家)とはライバルであり、同時に婚姻関係にあった。
もともとはカトリックの教徒だったが、16世紀にマルツィン・ルターの影響で、敬虔なプロテスタントとなった歴代君主が多い。
ハーメルン伯・アルプレヒト3世(アルベルト3世)の孫であるオットー2世あるいはアルプレヒト5世(アルベルト5世)の孫で、アルプレヒト9世(アルベルト9世、1275年 - 1349年)の子であるマグヌス1世は子沢山であったゲッティンゲン家のアルプレヒト2世(アルプレヒト1世の次男、ハインリヒ1世の弟)の末娘(5女)のエリザーベト・ツェツィリエと結婚した(ゲッティンゲン家は1463年にオットー4世の代で断絶し、姻戚関係にあたるヴォルフォン=エーファーシュタイン家のブラウンシュヴァイヒ公のヴォルフェンブュッテル(ヴォルフォンブュッテル)=カーレンベルク家のヴィルヘルム1世勝利公(マグヌス1世の曾孫)がゲッティンゲン公を相続した)。
そのため、エーファーシュタイン家出身のマクヌス1世は「ヴェルフェン家」にちなんだ前述の新興の「ヴォルフォン=エーファーシュタイン家」および中・新ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク家と称してその家祖となり、ヴェルフェン=エステ=ブュッテル家出身である妻のエリザーベト・ツェツィリエの配偶者として、ザクセンを中心に徐々に勢力を拡大し繁栄していった。
しかし、マクヌス1世は妻のエリザーベト・ツェツィリエとの間の子は儲けなかったために離別したが、肝心の「ヴェルフェン家」の相続権を維持したまま、ブラウンシュヴァイヒ=リューネブルク公の地位をを継承した。そのために義兄(妻の兄)であるヴェルフェン=エステ=ブュッテル家のゲッティンゲン公・オットー2世とエルンスト1世兄弟と対決して、争う羽目になった。
その後、マクヌス1世はシュテンダール・アスカニアー家(アスカニアー家の分家)のブランデンブルク辺境伯・ハインリヒ1世の娘・ゾフィーと再婚して多くの子を儲けたので、マクヌス1世の系統は「ヴェルフェン家」の血筋は一滴も残さなかった。
マクヌス1世の系統は15世紀後半までに母系のグルーベンハーゲン本家およびゲッティンゲン家と「ヴェルフェン家」の相続権をめぐって苛烈に争った。しかし、ヴェルフェン=エステ=ブュッテル家のうち、1369年にツェレ家はヨーハン1世の孫・ヴィルヘルム2世の代で断絶した(ザクセン系のアスカニアー(アスカン)家のアルプレヒト3世(ヴィルヘルム2世の外孫(娘のエリザーベトの子)、オットー4世の子)が相続した)。そして、1596年にグルーベンハーゲン本家もフィーリプ2世の代で断絶し、マクヌス1世の系統である婚姻関係のヴォルフェンブュッテル(ヴォルフォンブュッテル)家のハインリヒ・ユリウスが相続したのである。
特にリューネブルク家のツェレ公のヴィルヘルム2世逝去後の相続争いは苛烈を極めて、1370年にアスカニアー(アスカン)家のアルプレヒト3世(ヴィルヘルム2世の外孫)は叔父のヴェンツェルとともにヴォルフォン=エーファーシュタイン家のマグヌス2世首輪公(マクヌス1世の子)と激突して、数年間の激戦の末に1373年7月25日にマクヌス2世首輪公を敗死させている(『リューネブルク継承戦争』)。しかし、長引く戦いに疲労したアルプレヒト3世はマクヌス2世の子のフリートリヒ1世・ベルンハルト1世兄弟と和睦して、ようやく終戦を迎えた。その後1385年にアルプレヒト3世は嗣子がないまま逝去して、叔父のヴェンツェルが引き継いだが、例の和睦で女婿となったベルンハルト1世が反乱を起こしたので、激怒したヴェンツェルは1388年にベルンハルト1世の居城であるツェレを包囲したが、その最中に突如急死した(ベルンハルト1世による暗殺説がある)。以降のリューネブルク公はベルンハルト1世が弟のハインリヒ2世寛大公と共同で統治し、その後はハインリヒ2世寛大公が中ブラウンシュヴァイヒ家のヴォルフェンビュッテル侯の家祖となったために、リューネブルク公はベルンハルト1世の系統が統治することになった。
1383年にヴォルフォン=エーファーシュタイン家の中リューネブルク公でヴォルフェンブュッテル(ヴォルフォンブュッテル)公でもあった前述のベルンハルト1世は、同族であるエーファーシュタイン本家でハーメルン伯のヘルマン7世(1374年 - 1413年)の本拠地であるエルツェンの占領を目論んだ。ヘルマン7世は同族のベルンハルト1世から領地を護衛するために、相続契約をパーダーボルン司教およびシャウムブルク=リッペ家と結んだ。この両相続人は、ヘルマン7世夫人であったイルムンガルトに対して、エルツェン城(Ärzen-Schloss=Schloß)を彼女の隠居所を認めて、エルツェン城を保管した。この相互防衛同盟はエーファーシュタイン本家の継承戦争を引き起こすことになった。そのため、ベルンハルト1世はシャウムブルク=リッペ伯家領を広く蚕食し、1408年に和平条約が締結された。同族のベルンハルト1世に屈したヘルマン7世は、4歳(あるいは2歳)の娘・エリザーベトをベルンハルト1世の子・オットー4世曲公(不自由公、オットー5世)への同族間の結婚を約束し、エルツェンはエリザーベトが嫁ぐための持参領とされた(1425年に結婚)。こうしてベルンハルト1世は同族のエーファーシュタイン本家のハ―メルン伯と中リューネブルク家との間の関係構築に成功した。
さらに、1408年にエーファーシュタイン本家のハ―メルン伯から離反した配下のホムブルク家(かつてはヴェルフェン=エステ家の与党だった)がヴェーザー川沿いのホルツミンデンに侵入してきた。16世紀初以降のホルツミンデンは分家筋のヴォルフォン=エーファーシュタイン家のヴォルフェンブュッテル侯の支配地となった(翌1409年にホムブルク家は嗣子がなく断絶した)。
エーファーシュタイン本家から分家したマグヌス1世の系統である本家の中ブラウンシュヴァイヒ家(Mitte-Braunschweig)のカーレンベルク本家(Calenberg)=ヴォルフェンブュッテル本家(Wolfenbüttel)またはヴォルフォンブュッテル本家(Wolfonbüttel)、さらに分家で中リューネブルク家(Mitte-Lüneburg)から分かれたハールブルク家(Harburg)・ギフホルン家(Gifhorn)および新ブラウンシュヴァイヒ家(Neu-Braunschweig)のダンネンベルク家(Dannenberg)・ベーフェルン(ベーファーン・ベーフェアン)家(Bevern)・エルス家(Öls)、新リューネブルク家(Neu-Lüneburg)のハノーファー家(Hannover)などが出た。しかし17世紀半ばごろに、ヴァレンシュタインと対峙したカーレンベルク=ヴォルフェンブュッテル本家のフリートリヒ・ウルリヒとクリスツィアン兄弟の系統が途絶えたため、分家であるリューネブルク公・ヴィルヘルム1世若公がその後を継いだ。
ヴィルヘルム若公の曾孫であるハノーファー選帝侯のゲオルク・ルートヴィヒ2世(Georg Ludwig II)は18世紀にイングランド王のジャージ1世となり、イングランドのハノーヴァー朝の祖となった。
新リューネブルク家のハノーファー選帝侯の系統は後にハノーファー国王となるも、ゲオルク・エルンスト・フリートリヒ・アレクサンダー・カール・エルンスト・アウグスト6世の代で、プロイセン=ブランデンブルクのドイツ帝国(ホーエンツォレアン家)によってハノーファー王国は廃された。1814年~1815年の『ウィーン会議』を経て、以降のハノーファー家はその孫であるエルンスト・アウグスト・クリスツィアン・ゲオルク4世が1913年にプロイセン帝国の臣下としてブラウンシュヴァイヒ公国を建国し、1918年~1919年の『ドイツ革命』で退位し、その子孫は貴族の末裔として現在までに至っている。
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