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大傭兵隊長の梟雄・ヴァレンシュタイン
アルプレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン/アルプレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァルトシュタイン(独語:Albrecht Wenzel Eusebius von Wallenstein, Albrecht Wenzel Eusebius von Waldstein, 1583年9月24日 - 1634年2月25日)は、ボヘミア=ベーメン(Böhmen)出身の『三十年戦争』で活躍したドイツの傭兵隊長である。
チェコ語では「アルブレヒト・ヴァーツラフ・オイゼビウス・ズ・ヴァルドシュテイナ」(Albrecht Václav Eusebius z Valdštejna)と表記される。旧姓はヴァルトシュタイン(Waldstein)だったが、後にヴァレンシュタイン(Wallenstein)に改姓した。
在りし日のヴァレンシュタイン
ボヘミア=ベーメン(現在のチェコ西部)のドイツ系[1]のプロテスタントの小貴族であるヴィルヘルム4世(チェコ語はヴィレーム4世(Vilém IV)、1547年 - 1595年)とマルケータ・ゼ・スミジツとの間の3男として生まれた。兄弟姉妹は兄のヨーハン・ゲオルク(チェコ語はヤン・イジー(Jan Jiří))とアダムスと姉のヘドヴィカ、マリー・ボフミーラとマグダレーナらで、妹はカテジーナ・アンナがいた。
10代のころにヴァレンシュタインは両親と多くの兄弟姉妹を失い、イタリアのヴェネツィア(ヴェネツィヤ)の近郊にあるパドヴァ大学(Università degli Studi di Padova)に留学し、カトリックに改宗してヴァルトシュタインからヴァレンシュタインと改名した。
しかし、彼は暴力事件に巻き込まれ退学し、ボヘミアに帰国したヴァレンシュタインはすすんで軍人となり、戦歴を重ねて士官時代に資産家の未亡人であるアンナ・ルクレツィエ・ネクヴァショヴァー・ズ・ランデカと結婚して、莫大な財産を受け継ぎ、ユダヤ人と組んで高利貸を営みながら、財産の蓄積に励んだ。
数年後、ボヘミアのユダヤ系の民間投資家であるヤーコプ・バッセヴィ・トロイエンブルクと結託して、その資金で自らの傭兵を募集し、傭兵隊長としての地位を確立することに成功した。
さらに。オランダのユダヤ系の民間投資家であるハンス・デ・ヴィッテの資金調達金がものを大きくいわせ、様々な軍備用具を買いそろえて、私兵である傭兵軍団を強化させたのである。
こんなときに従兄のマツィアス1世から譲位されたばかりの筋金入りのカトリックであるオーストリアのハプスブルク家のフェルディナント2世のプロテスタント弾圧に憤慨した、ボヘミア貴族による『ボヘミアの反乱』が1623年に起こったのである。
ボヘミア王であったフェルディナント2世はこの報を聞いて激怒しフランクフルトで、神聖ローマ帝国の皇帝として即位の儀式を終えると、ただちにボヘミアに向かって反乱軍の討伐に動いたのである。
この様子を見たヴァレンシュタインは蜂起し、現在のチェコ東部からスロバキア西部にあるモラヴィア=メーレン(Mähren)の金庫を略奪し、翌年にフランドル[2]で軍隊を募集して、そのままフェルディナント2世に仕官し、皇帝軍総司令官となったのである。
彼は「戦争は戦争で栄養分を吸い摂る」という発想で、彼独自のあくどい資金回収法の軍税制度を法定し、フェルディナント2世に申請し占領地から独断で微税権を把握することに成功し、プロテスタント諸侯の軍勢を撃退したのである。
さらに彼は、フェルディナント2世によって処刑されたボヘミアの貴族の莫大な領土を獲得し、彼の軍功を認めたフェルディナント2世からボヘミア北部のフリートラント侯(Friedlandt)に封じられた。同時にウィーン宮廷の有力貴族でフェルディナント2世の腹心であるカール・フォン・ハラハ[3]の4女であるマリー・エリザーベト・テレーゼ・カタリーナ・フォン・ハラハと再婚し、国家権力と結びついた。ふたりの間には長女のマリー・アルジビェタ(ルドルフ・カウニッツ夫人)と長男のアルプレヒト・カール(チェコ語はアルブレヒト・カレル(Albrecht Karel)、夭折)らを儲けた。
しかし、ヴァレンシュタイン軍税はフェルディナント2世からお墨付きをもらっており、苛斂誅求だったので各地域の宿営地の現地人に自軍の報酬としての軍税を要求した。さらに連隊長の募兵する軍資金として各地域の閲兵場にも軍税を強制した。これを否定する住民には酸鼻を極めた略奪殺戮の手段に出たので、住民は歎願して軍税の代わりに免除税を取り立てたのである。同時に軍勢に略奪を禁じさせたという。
ヴァレンシュタインは思い上がり、占領地以外のカトリックの地域にも軍税を強制したので、ヴァレンシュタインの跋扈に憤激した住民が、自分たちの君主であるプロテスタントおよびカトリックの諸侯に、このことを訴訟した。
これを聞いた、ドイツの各諸侯たちはヴァレンシュタインの跋扈に激怒したが、ユダヤ系のヴィッテの資金調達金がここにきて成果をあげて、ヴァレンシュタインの軍勢は巨大化し、神聖ローマ帝国の精鋭となったのである。こうしてヴァレンシュタインの軍勢は総勢12万5千人の順調な軍隊として形成され、民族別にはイタリア・フランドル・フランス・スペイン・ポルトガル・イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランド・ハンガリー・スロヴェニア・クロアチア・ボヘミア・モラヴィア・ポーランド・ルーマニア・ブルガリア・ウクライナ・ギリシャと雑多であった。
そのため、ドイツ系の軍勢は希少となり、言語も通じないので、突撃指揮は太鼓で合図された。ヴァレンシュタインはそのようなやり方でデンマークの王・クリスティアン4世をはじめ、ヴォルフォン=エーファーシュタイン家[4]のブラウンシュヴァイヒ公[5]のフリートリヒ・ウルリヒとクリスツィアン兄弟、傭兵隊長のエルンスト・フォン・マンスフェルト[6]など対抗するプロテスタントの諸侯の軍勢を蹴散らしたのである[7]。クリスティアン4世はデンマークに撤退した。
その前日にヴァレンシュタインは陣営でフェルディナント2世が派遣した軍監を見ながら「諸君!わたしはこの中の誰かを軍の生贄として殺して捧げなければならない。諸君よ理解したまえ!」と痛烈な皮肉をいった。これを聞いた軍監は薄気味の悪さを感じて、ヴァレンシュタインの陣営から急いで立ち去ったという。
このように好き勝手にやっているヴァレンシュタインに対して、カトリックおよびプロテスタントのドイツの諸侯は戦いが終わると、フェルディナント2世にヴァレンシュタインの跋扈を訴え出たのである。とくにヴァレンシュタインはドイツ諸侯を陪臣扱いしたため、ドイツ諸侯はヴァレンシュタインに対して「このボヘミアの成りあがり者めが!」と憤激していた。また、フェルディナント2世も以前にヴァレンシュタインに軍勢を動員する命令を出したのだが、ヴァレンシュタインは皇帝の使者に対して「皇帝軍の軍事権はこのわたしにある。皇帝の勅命といえど勝手に動員はできない」といって、凄味を見せて引き取らせた経緯があった。これを聞いたフェルディナント2世は激怒したが、ヴァレンシュタインの軍勢があまりにも強大なので、そのときは押し黙ったままだった。
だが、戦が終わるとドイツ諸侯のうち、カトリックの権威であるヴィッテルスバハ家のバイエルン選帝侯のマクシミリアン1世はホーエンツォレアン家のブランデンブルク選帝侯のゲオルク・ヴィルヘルム(ヨーハン・ジギスムントの子)らプロテスタントのドイツ諸侯と『ミュールハウゼン選帝侯会議』にて、協議を計らって、ヴァレンシュタインの爵位の剥奪と皇帝軍総事司令官の罷免をフェルディナント2世に強く迫った。
その一方、メクレンブルク=シュヴェリーン公のアドルフ・フリートリヒ1世とその弟のメクレンブルク=ギュストロー公のヨーハン・アルプレヒト2世が廃されて、代わりに度重なる功績を認められたヴァレンシュタインがメクレンブルク公に昇格して叙爵されることを建議されていたが、筆頭選帝侯のマインツ大司教がこれを激しく猛反対したのである。1度は建議したフェルディナント2世もヴァレンシュタインの跋扈やその雑多の軍勢の強大さに薄気味悪さを感じて、自分に代わって反乱を起こし、皇帝の地位を剥奪するのではないかと被害妄想に陥り、1627年~1628年冬にヴァレンシュタインの爵位を剥奪し罷免したのである。
これを聞いたドイツの諸侯は大喝采を浴びたといい、祭りのように騒いだという。罷免されたヴァレンシュタインは、郷里のボヘミアのエーガー[8]に引っ込んだのである。
ヴァレンシュタインの最期の場面(左は司教のゼニ(Seni))
しかし、1631年『ベールヴァルデ条約』によるフランスの支援を受けた「北方の獅子」ことスウェーデン王のグスタフ・アドルフ2世[9]は、精鋭であるスウェーデン軍を率いて、ドイツのプロテスタント諸侯と組んで、侵入した。これを聞いたフェルディナント2世は驚愕し、バイエルン侯の将軍であるヨーハン・ゼルクレース・グラーフ・フォン・ティリー(Johann Serclä(ae)s Graf von Tilly)を皇帝軍総司令官に命じて、迎え討たせたのである。
だが、英傑のグスタフ・アドルフの前には敵なしであり、9月18日に東部ドイツのライプツィヒ近郊の『ブライテンフェルトの戦い』でカトリックの諸侯の軍勢は次々と蹴散らされた。快進撃したスウェーデン軍は南ドイツのレヒ川(ドナウ川支流、アウクスブルク付近)まで進み、『レヒ川の戦い』で、名将・ティリーを重傷を負わせ[10]、ウィーンに向けて快進撃した。
これに驚愕したフェルディナント2世は名将・ティリーの訃報を聞いて、自らの執筆に手紙を3度も送った結果、同年冬にエーガーで蟄居中のヴァレンシュタインはこれに応じた。フェルディナント2世は再び皇帝軍総司令官に任命したが、爵位は戻さずかつ軍事権はフェルディナント2世自身が把握した。
ともあれ、進撃中のスウェーデン軍とヴァレンシュタインは対峙することになった。このときのヴァレンシュタインはかつてイタリアの梟雄でミラノ公国を簒奪した傭兵隊長出身のフランチェスコ・スフォルツァのようにドイツ国王になるシナリオを脳裏に過(よぎ)ったのである。翌1632年冬1月に皇帝軍総司令官として、グスタフ・アドルフを迎え撃ったのである。春4月にヴァレンシュタインはフェルディナント2世に「軍事権・和平交渉権・条約締結権・選帝侯位」を要求したのである。
フェルディナント2世はこの場では、すべて応じる素振りを見せたが、ひそかに実質的には皇帝自身が前述の権利を把握していたのである。この交渉に満足したヴァレンシュタインはただちに裏交渉の買収でボヘミアに駐屯したヴェッツィン家のザクセン侯のヨーハン・ゲオルク1世を撤退させたのである。同年夏7月にレーゲンスブルク近郊のシュバーヴァハでバイエルン侯のマクシミリアン1世と合流した。この報を聞いたグスタフ・アドルフは驚愕し、ウィーン包囲を解いて急いで北上した。
進撃のあまりに手薄となったグスタフ・アドルフはライプツィヒ近郊の小都市のリュッツエンでヴァレンシュタインの軍勢と激突することになった。同年の秋11月でこのときリュッツエンは濃霧に覆われた。同時にヴァレンシュタインは配下のパッペンハイム率いる1万の軍勢にザクセンの一都市のハレを襲撃させた。ところがこの報を聞いたグスタフ・アドルフは配下を派遣して、パッペンハイムの軍勢を撃退したのである。
ついに11月16日に、ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍とグスタフ・アドルフ率いるプロテスタント連合軍との戦闘がはじまった。とくに当日は桁外れの濃霧であり、グスタフ・アドルフは右翼に陣取って、左翼は友軍であり、フランス王国の宰相・リシュリューが雇った傭兵隊長のベルンハルト・フォン・ザクセン=ヴァイマー[11]が陣取っていた。ヴァレンシュタインの軍勢は旗色が悪く、午後になるとハレから敗走したパッペンハイムがリュッツエンに到着するも、彼は胸部に被弾されて戦死を遂げた。
しかし、夕方近くになると、異変が起きた。結果としては皇帝軍が大敗し、撤退した。だが同時にグスタフ・アドルフの愛馬が主人がいないまま戦場を駆け巡ったのである。皇帝軍の将校でイタリア人の傭兵隊長のピッコローニが、グスタフ・アドルフが落馬したのを目撃したのである。ピッコローニはこのことを皇帝軍の将軍でオランダ人のヘンドリク・フォン・ホルクに知らせた。ホルクはこれをヴァレンシュタインに知らせた。
スウェーデン軍に緊張が激震した。しかしスウェーデン軍は強く、グスタフ・アドルフの盟友である前述の傭兵隊長のベルンハルト(ヴェッツィン家出身)の総指揮で、ついに皇帝軍はリュッツエンから撤退した。まもなくグスタフ・アドルフの遺骸が発見された。右のこめかみに被弾された痕があった。また、背中や脇腹にも銃痕があった。このときのグスタフ・アドルフは39歳だった。
一方、敗走したヴァレンシュタインはザクセン侯のヨーハン・ゲオルク1世と交渉を続けた。しかし、ヴァレンシュタインも戦いに疲労感を覚えたため、今度は交渉権をメインとして自分の有利になるべく活躍した。自軍を無傷で保管した。ザクセン侯は傭兵隊長のハンス・ゲオルク・フォン・アルニム=ボイツェンブルクを派遣し、ヴァレンシュタインと交渉した。その内容は諸説があるが、父のグスタフ・アドルフの後を継いだスウェーデン女王のクリスティーナとその宰相のアクセル・オクセンシェルナ(ウクセンシェルナ)と和睦を結び、皇帝のフェルディナント2世がこれを認めなければ、離反も辞さないという内容というのが定説のようである。
また、前述のフランス王国の宰相・リシュリューが派遣した狡猾な外交官のフーキエールとも交渉し、密談を重ねた。内容ははっきりしないが、フェルディナント2世の不興を買うような事項だったらしい[12]。
翌1633年、秋11月にスウェーデン軍の友軍であるドイツ人傭兵隊長のベルンハルトが弟のエルラハとともに、バイエルン王国北東部のレーゲンスブルクに侵入した。バイエルン侯のマクシミリアン1世はボヘミアにいるヴァレンシュタインに援軍を要請したが、彼はこれを無視した。このため、ベルンハルトは易々とレーゲンスブルクを占領した。激怒したマクシミリアン1世はフェルディナント2世のこのことを直訴した。これがヴァレンシュタインにとって致命傷な出来事だったという。
同時に、ヴァレンシュタインは以前と異なり、今までの軍事権を剥奪され皇帝のフェルディナント2世の監視を受けたので、ツルカ・イロー・キンスキーなど3人のボヘミア人(チェコ人)の側近を除いて、権威を失ったヴァレンシュタインを見捨てた各傭兵隊長たちが多かったために、そのために援軍を出さなかった説もある。
どちらにしても、皇帝のフェルディナント2世は翌1634年冬1月24日にヴァレンシュタインの罷免を命じ、さらに出頭をも命じた。もしヴァレンシュタインが応じなかったら、暗殺せよと厳命したのである。果たしてヴァレンシュタインは応じなかったのである。
同年冬2月、ヴァレンシュタインはプラハ(ドイツ語はプラーク)を離れ、拠点であるエーガーに移った。同25日にヴァレンシュタインは部下のツルカ・イロー・キンスキーとともに皇帝直属のデフォー大尉[13]が率いる襲撃隊に暗殺された。ヴァレンシュタインの最期の言葉は「嗚呼…兵舎よ!」と叫んだという。享年52[14]。
さらに、ヴァレンシュタインのパトロンだった、オランダのユダヤ系民間投資家で銀行家のハンス・デ・ヴィッテはヴァレンシュタイン暗殺の訃報を聞いて、ヴァレンシュタインの没落が原因で資金難に陥ったことを苦にして自殺したのである。
ヴァレンシュタインの子のアルプレヒト・カールは幼くして夭折したため、ヴァレンシュタインの従弟であるヨーハン・クリストーフ(チェコ語はヤーン・クリシュトフ(Jan Kryštof))がヴァレンシュタイン家の後を継いだのである。
彼の死後、ドイツ語で「石」を意味する~stein(某シュタイン)は、ユダヤ人と組んで金融の亡者だったヴァレンシュタインの影響で、おもにアシュケナジム・ユダヤ人の姓として使用され、はるか後にナチスのヒトラー(ドイツ系ボヘミア(チェコ)人の家系)が、アインシュタインなどのユダヤ人挑発&弾圧に動いたことは有名である[15]。
ちなみに、ヴァレンシュタインの生涯を描いたシラー(シュィラー)の『ヴァレンシュタイン三部作』はドイツ史でも著名作である。
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