ハプスブルク朝

ページ名:ハプスブルク朝
曖昧さ回避この項目では、神聖ローマ帝国の男系貴族について記述しています。マリー・テレーゼとフランツ・シュテファン1世夫妻を祖とする神聖ローマ帝国の女系貴族については「ハプスブルク=ロートリンゲン朝」をご覧ください。

ハプスブルク朝の家紋

ハプスブルク朝[1]独語:Habsburg-Haus)は、スイス北部のバーデン地方を発祥とするドイツ南部のアレマン人貴族で、代々神聖ローマ皇帝を出した家系として有名である。「ハプスブルク家」とも呼ばれる。

目次

概要[]

ハプスブルク家は5世紀に遡り、534年ごろにスイスのバーゼルやジュラに進出したエルザス(アルザス)の地方貴族で、アレマン化した東フランク人・西ゴート人・ブルグント人出身ともいわれ、ブルグント公であったアマルガー(Amalgar)の子のアーダルリヒ1世(Adalrich I)・エルザス公のアーダルリヒ2世(Adalrich II)またはアーダルリクス(Adalricus)あるいはエツィキョ(Eticho)父子を祖とする[2]「エツィキョーン家」(Etichon-Haus)[3]の分家といわれ[4]、エルザス家(Elsaß-Haus)は同族である。

1020年ごろにエツィキョーン家の分家筋のエーギスハイム家(Egisheim-Haus)出身のノルトガウ伯のフーゴ3世の子のブライスガウ伯のグントラム金満公(Guntram der Reiche)が、スイス北東部アールガウ地方[5](バーゼル近郊)のライン川上流域にある古城の「鷹の城」意味する「ハービヒツブルク」(Habsburg)をを建設してこれを拠点として、後に「ハビヒツブルク」が訛って「ハプスブルク家」あるいは「ハプスブルク朝」が由来になった説が有力と考えられている。実質的には、グントラムの孫のルドルフ1世(ヴェルンツェル)が住み着いたといわれている。嗣子がないまま逝去したルドルフ1世(ヴェルンツェル)の弟のクレットガウ伯のラートボートの末裔が城を受け継いで、1090年に「ハプスブルク伯」と称したことから始まるという。

なお、スペインの「スペイン・ハプスブルク朝」も存在するために、スペイン語ではアブスブルゴ朝(Casa de Habsburgo)と呼ばれる。同時にイタリア語ではダスブルゴ朝(Casa d'Asburgo)とも呼ばれる。

歴史[]

グントラムが亡くなると、その子のランツェリン1世(ランドルト1世、Lanzelin I(Landolt I))が後を継いだ。ランツェリン1世が亡くなると、その子のヴェルナー1世が継いだ。しかし、ヴェルナー1世に嗣子がないために、その弟のクレットガウ伯のラートボート(Radbot)[6]が後を継いで、彼の代に「エツィキョーン家」一門の「エーギスハイム家」から分かれて「ハプスブルク家」と改称した。ラートボートが亡くなると、その子のオットー1世の後を継いだ。しかし、オットー1世に嗣子がなく、その弟のアルプレヒト1世が後を継いだ。しかし、アルプレヒト1世にも嗣子がなく、その弟のヴェルナー2世が後を継ぎ、ハプスブルク伯となった。ヴェルナー2世が亡くなると、その子のオットー2世が後を継いで、ハプスブルク伯および上エルザス伯となった。オットー2世が亡くなると、その子のヴェルナー3世が後を継いだ。ヴェルナー3世が亡くなると、その子のアルプレヒト3世が後を継いだ。アルプレヒト3世が亡くなると、その子のルドルフ2世老公が後を継いだ。ルドルフ2世老公が亡くなると、その子のアルプレヒト4世が後を継いだ。

アルプレヒト4世が亡くなると、その子のルドルフ4世(ルドルフ1世)が後を継いだ。1273年にルドルフ4世チェコのボヘミア王であるプシェミスル家のオタカレル2世(Otakarel II)とオーストリアの支配権を巡って『マルヒフェルトの戦い』で、オタカレル2世を討ち取って、1282年にオーストリアを支配して、神聖ローマ帝国の皇帝(ドイツ王)に選出され、ルドルフ1世と称した。彼が亡くなるとオーストリアは長男のアルプレヒト1世と三男のオーストリア公のルドルフ2世に与えて、共同統治をさせた。

しかし、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国南東部に勢力圏を広げたため、発祥地のスイスでは徐々に領地を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に拠点を移すようになった。1308年にアルプレヒト1世は財産問題の抗争の件に絡んで、甥のヨーハン・パリツィーダ(ルドルフ2世の子)によって暗殺された後に、後を継いだアルプレヒト1世の次子でドイツ王のフリートリヒ3世美王と第3子のオーストリア公のレオポルト1世兄弟[7]が共同君主の地位を得たのを最後に帝国の君主位からは遠ざかり、勢力は一時衰えた。しかし、ハプスブルク家の一族はオーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世建設公(フリートリヒ3世美王の弟のアルプレヒト2世賢公の子)が岳父の神聖ローマ皇帝のカール4世(ルクセンブルク家)によって「オーストリア公」に任命された。

1438年に、ルドルフ4世建設公の弟のアルプレヒト3世の孫であるアルプレヒト5世(アルプレヒト2世)が後を継いだ。アルプレヒト2世が1440年に亡くなると、又従弟(族弟)のフリートリヒ3世がドイツ王になってからは、王位をほぼ世襲化することに成功して、1508年にその子のマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を認められなかったために、独断で神聖ローマ皇帝と自称した。その後、ハプスブルク家は「ハプスブルク朝」と称した。

マクシミリアン1世はヨーロッパ諸国との婚姻関係によって、ハンガリーの王国・オランダとベルギーのブルゴーニュ領ネーデルラント・スペイン王国とイタリア南部のナポリ王国・シチリア王国などを継承した。マクシミリアン1世の孫のカール5世の代にはハプスブルク朝はヨーロッパの一大帝国として実現させた。当時のスペインは中南米を植民地として支配していたため、カール5世のスペイン王のカルロス1世として、スペインの領土も含む「日の沈まぬ」大帝国であった。さらにカール5世の弟のフェルディナント1世がハンガリー王・ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク朝は東欧における領土の版図を飛躍的に拡大した。

カトリックの擁護者としてプロテスタントと戦ったカール5世は、1521年に祖父のマクシミリアン1世の所領を弟のフェルディナント1世と分割した。また、亡父のフィーリプ1世美王[8]や生母のカスティーリャ女王のフアナを通じて相続した所領は1556年に長男のフィーリプ2世(フェリペ2世)に与えて継がせた。こうしてハプスブルク朝はスペイン・ハプスブルク朝とオーストリア・ハプスブルク朝[9]に分かれた。

このために、1549年に取り交わされた協定でカール5世の弟のフェルディナント1世の系統がオーストリア・ハプスブルク朝として、神聖ローマ皇帝位を世襲することになった。

スペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)[]

スペイン・ハプスブルク家ことスペイン・ハプスブルク朝[10]は、1580年から1640年までポルトガル王国を兼務して、中南米などの植民地を含めて、「日の沈まぬ帝国」を実現させた。

特にフェリペ2世(フィーリプ2世)の治世に、繁栄期となるが、『アルマダの海戦』でイギリスのエリザベス女王が派遣した艦隊に大敗して、以降からのスペイン・ハプスブルク朝は徐々に衰退してしまった。さらに、『八十年戦争』や『フランス・スペイン戦争』(『西仏戦争』)に敗れてヨーロッパの覇権を失った。

また、一族のオーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親結婚のためか、代々病弱な王が続いた[11]

フェリペ2世の子のフェリペ3世[12]、孫のフェリペ4世を経て、曾孫で病弱なカルロス2世が嗣子がないまま、1700年に逝去したことによって、ついにスペイン・ハプスブルク朝は断絶した。

以降はフランスのブルボン朝[13]のルイ14世の孫であるフェリペ5世が『スペイン継承戦争』を経て、ようやく「スペイン・ブルボン朝」の祖となったのである。

オーストリア・ハプスブルク朝(後オーストリア家)[]

オーストリア・ハプスブルク家ことオーストリア・ハプスブルク朝は、「後オーストリア家」とも呼ばれ、シュタイアーマルク家[14]の最後の君主であるフィーリプ1世美王の子の子でカール5世の弟であるフェルディナント1世を祖とする系統である。1648年に筋金入りのカトリックであるフェルディナント2世が派遣した傭兵隊長のヴァレンシュタインや同族のスペイン・ハプスブルク朝も参戦し、対立したプロテステントのスウェーデン王のグスタフ・アドルフ2世などが活躍した『三十年戦争』の終結とともに結ばれた『ヴェストファーレン条約』によって弱体化した。

しかし、1683年にフェルディナント2世の孫のレオポルト1世の代にトルコ系のオスマン帝国の第二次ウィーン包囲をフランス系貴族の将軍であるオイゲン・フォン・ザヴォイエン(プリンツ・オイゲン)の跳躍によって撃退させた後、ハプスブルク朝は勢力を取り戻し、1699年の『カルロヴィッツ条約』で、オスマン帝国を破りオスマン帝国支配下にあったハンガリーを奪還した。同族のスペイン・ハプスブルク朝が断絶した後の『スペイン継承戦争』では、ハプスブルク朝に支援を申し出た旧縁がある[15]ホーエンツォレアン家のブランデンブルク選帝侯のフリートリヒ3世に「ブランデンブルク=プロイセン王」の称号を認めるなど、神聖ローマ皇帝としての権威を示した。

だが、そのハプスブルク朝も1740年に、ヨーゼフ1世[16]・カール6世[17]兄弟が嗣子がない病没したため、ついに断絶した。

上記のように断絶したハプスブルク朝は神聖ローマ皇帝としての地位を喪失し、オーストリアはカール6世の長女のマリー・テレーゼ[18]が相続したが、ホーエンツォレアン家のブランデンブルク=プロイセン王やヴィッテルスバハ家のバイエルン王が皇女のマリー・テレーゼによるオーストリア相続を認めないという旨を宣言して、オーストリアを支配下にする動きを見せた。しかし、マリー・テレーゼはヨーロッパ諸国にブランデンブルク=プロイセン王・バイエルン王の行為を非難する演説をして、数年かかってマリー・テレーゼはドイツ中西部とフランス中東部の国境の貴族であるロートリンゲン家(ロレーヌ家)のフランツ・シュテファン1世を婿に迎えて、夫のフランツ・シュテファン1世とともにハプスブルク=ロートリンゲン朝の家祖となり、オーストリアおよびハンガリーの支配を維持することができた[19]

ハプスブルク朝の各系統[]

エルザス家[]

エツィキョーン家の嫡流で、エルザス(アルザス)地方はノルトガウとズントガウに二分されたが、両方がエツィキョーン家の強固な支配下となり、この系統はエルザス家(アルザス家)と呼ばれた。534年ごろに、スイス北部のバーゼルとジュラに進出した[4]

その一方、エルザス家がカロリング朝と対立関係にあったか否かという問題が議論されているが、協調関係と対立関係が頻繁に変化したと考えるのが自然である。カロリング家のカール・マルテルがアレマン地方に侵攻した際はエルザス家は反抗しているが、カール・マルテル死後の742年にアレマン公のトイデバルトがエルザス地方に逆侵攻した際にはピピン3世(カール・マルテルの子)と同盟している。

10世紀にエルザス家の最後の当主であるリウトフリトは、ピピン3世に従いてトイデバルトとの争いで、986年に壮絶な戦死を遂げている。彼の死後にエツィキョーン家の嫡流のエルザス家に直系の男子がなく、ついに断絶した。

ブライスガウ家[]

エツィキョーン家の分家筋で、ハプスブルク家の祖であるブライスガウ伯・上エルザス伯のヴェルナー1世と祖とする。アルプレヒト4世・ルドルフ4世(ルドルフ1世)父子の代に実質上として「エツィキョーン家」一門の「エーギスハイム家」から「ハプスブルク家」と称すると、「ブライスガウ家」の家名は自然に消滅された。

ラウフェンブルク家[]

ブライスガウ家のルドルフ2世老公の子のルドルフ3世を祖とする。子のゴットフリート1世を経て、孫のルドルフ4世の子のペトルスが1349年に夭折して、断絶した。

キーブルク家[]

ラウフェンブルク家のルドルフ3世の子のエーバーハルト1世を祖とする。彼は断絶したキーブルク家の娘を娶ったため、キーブルク家を相続した。子のハルトマン1世、孫のエーバーハルト2世、曾孫のハルトマン3世を経て、1414年に玄孫のオイゲン2世(エーゴン2世)の代で断絶した。

パリツィーダ家(パッリチーダ家/イタリア・ハプスブルク家/ダスブルゴ家)[]

ブライスガウ家のオーストリア公のルドルフ2世の子のヨーハン・パリツィーダを祖とする系統とされる。ヨーハン・パリツィーダは伯父のアルプレヒト1世を暗殺したため、追跡からのがれるためにイタリア北部のトスカーナ州のピサ[20]を拠点とし、「パッリチーダ家」「イタリア・ハプスブルク家」こと「ダスブルゴ家」とも呼ばれた。同時に、甥のパリツィーダに暗殺されたアルプレヒト1世の系統であるシュタイアーマルク家(中オーストリア家)とは同族でありながら、仇敵関係にあった。代々の君主はロドルフォ(Rodolfo)、あるいはジョヴァンニ(Giovanni)と称した。

1740年にアルプレヒト1世の系統であるカール6世が嗣子がないまま逝去すると、ハプスブルク朝の廷臣たちは、イタリアにいるヨーハン・パリツィーダを祖とするパッリチーダ家(イタリア・ハプスブルク家)のロドルフォとジョヴァンニ兄弟をカール6世の養子として、ハプスブルク朝および神聖ローマ帝国(ドイツ王)として迎える協議を検討したが、カール6世の娘のマリー・テレーゼをはじめとする卿グループが「そもそも、パッリチーダは「骨肉殺し」を意味するもので、いくらハプスブルク朝の遠縁筋である男系といえども縁起が悪い」という理由で、却下されたという。まもなく、パッリチーダ家のロドルフォとジョヴァンニ兄弟が嗣子がないまま逝去したので、完全にハプスブルク朝の男系は途絶えたといわれる。

前オーストリア家[]

オーストリア公のアルプレヒト2世(アルプレヒト1世の子)の子のアルプレヒト3世を祖とする。子のアルプレヒト4世、孫のアルプレヒト5世、曾孫のアルプレヒト6世(ボヘミア王も兼務したハンガリー王のラディスラウス・ポストゥムス6世(Ladislaus Postumus VI))が1457年に18歳の若さで早世したため、断絶した。

シュタイアーマルク家(中オーストリア家)[]

オーストリア公のアルプレヒト2世の子のレオポルト3世を祖とする。前オーストリア家が断絶すると、一族として継承してこの系統は前述のフィーリプ1世美王まで続くハプスブルク朝の嫡流である。そのために「中オーストリア家」とも呼ばれる。

ツィロル家[]

ハプスブルク朝の嫡流であるシュタイアーマルク家(中オーストリア家)のレオポルト3世の子のフリートリヒ4世を祖とする。子のジークムントは1480年に嗣子のヴォルフガングに先立たれて、1496年に彼の逝去で断絶した。

ホーエンベルク家(ブルガウ家)[]

オーストリア・ハプスブルク朝(後オーストリア家)のフェルディナント1世の子のフェルディナント2世[21]を祖とする。その子のカール6世(ブルガウ辺境伯)を経て、カール6世の長男のカール7世と次男のフェルディナント3世がホーエンベルク家(ブルガウ家)を継承して、この家系は1726年に断絶した。

脚注[]

  1. 現地では、ハープスブルク朝と発音される。
  2. ヴァントルツカ『ハプスブルク家』32頁
  3. エツィキョーネン家(Etichon(en)-Haus)/エティヒョン家/エティヒョーネン家とも呼ばれる。
  4. 4.04.1 踊『スイスの歴史』17頁
  5. 現在のアールガウ州周辺。
  6. 兄のランツェリン2世/ランドルト2世(ライキェナウ修道院守護のヴェンツエル(Wenzel/Wentzel)とも)の後を継いだ。
  7. 長兄のボヘミア王のルドルフ3世は早世した。
  8. 同時にカスティーリャ王のフェリペ1世端麗王とも呼ばれる。
  9. 後オーストリア家とも呼ばれる。
  10. エスパーニャ・アブスブルゴ、スペインでは通常はカサ・デ・アウストリアと呼ばれる。
  11. ヨーロッパの王朝の断絶における近親婚(英語)
  12. フェリペ3世の異母長兄のカール6世(カルロス2世)は、父に婚約者のエリザベート・ド・ヴァロワを奪われ幽閉されて、24歳の若さで獄死した。
  13. カペー朝(ロベール家の系統)の分家で、ヴァロワ朝と同族である。
  14. 前オーストリア家を継承した家系。
  15. ホーエンツォレアン家のニュルンベルク城伯のフリートリヒ3世(フランケン家およびブランデンブルク=プロイセン家の祖)とハプスブルク朝の実質的な祖のルドルフ1世は懇意関係にあった(菊池『神聖ローマ帝国』137~139頁)。
  16. ヨーゼフ1世には、唯一の嗣子のレオポルト・ヨーゼフがいたが、彼は父に先立って夭折した。
  17. 実質的にはカール7世である。
  18. マリア・テレジアとも呼ばれる。
  19. 以降は、ハプスブルク=ロートリンゲン朝を参照のこと。
  20. 北イタリア語では、ピーザとも発音される。
  21. 神聖ローマ皇帝のマツィアス1世の岳父でもある。

参照文献[]

  • 『スイスの歴史』(踊共二著/河出書房新社/2011年)ISBN 978-4-309-76173-2
  • 『神聖ローマ帝国』(菊池良生著/講談社現代新書/2003年)ISBN 978-4061496736
  • 『ハプスブルク家』(アーダム・ヴァントルツカ(江村洋訳)/谷沢書店/1981年)ISBN 978-4924347045

関連項目[]



特に記載のない限り、コミュニティのコンテンツはCC BY-SAライセンスの下で利用可能です。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。


最近更新されたページ

左メニュー

左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...

2ちゃんねる_(2ch.net)

曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...

2ちゃんねる

2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...

黄皓

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...

黄忠

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...

黄奎

黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...

麻生氏_(筑前国)

曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...

麻生氏

麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...

鹿島氏

鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...

鷹司家_(藤原氏)

曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...

鷹司家_(源氏)

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...

鷹司家

曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...

鷲尾氏

鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...

鳩時計

ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...

鳥山氏

鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...

魏書

魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...

魏延

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...

魏勃

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...

魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...

高間慎一

高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...