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ハプスブルク=ロートリンゲン朝の家紋
ハプスブルク=ロートリンゲン朝(独語:Habsburg-Lothringen-Haus、仏語:Maison de Habsbourg-Lorraine)は、ドイツのハプスブルク朝の女帝のマリー・テレーゼとフランツ・シュテファン1世[1](ロートリンゲン家)夫妻を祖とする神聖ローマ帝国の家系である。「ハプスブルク=ロートリンゲン家」とも呼ばれる。
ハプスブルク朝の最後の君主であるカール6世は嗣子に恵まれずに、そこで長女のマリー・テレーゼをドイツ中西部とフランス中東部の国境にあり、8世紀に遡るフランス系ドイツ貴族であったパリ伯・メス伯の爵位を持ったジラール家(Girardides de Lorraine)[2]の祖であるエティション(Étichonids)、またはアティック(Athich)ことジェラール(Gerard)[3]の後裔で、シャトノワ家(Maison de Châtenois)祖で、メス伯のジェラール4世(Gerard IV)の子であるアダルベール(Adalbert)・ジェラール5世(Gerard V)兄弟の末裔であるロートリンゲン(ロレーヌ)家のフランツ・シュテファン1世と結婚させて、新たに「ハプスブルク=ロートリンゲン朝」として創設させて、「ハプスブルク朝」の名を残しているが、どう考えても別系統の王朝なので、そのことは紋章にも表れており、そこには神聖ローマ帝国の双頭の鷲とともにロレーヌの公章も描かれている。
フランツ・シュテファン1世とマリー・テレーゼの間には5人の男子がいたが、次男のカール・ヨーゼフは成人に達せずに早世し、長男のヨーゼフ2世と5男のマクシミリアン・フランツには嗣子がなかったため、3男のレオポルト2世の系統と4男のフェルディナント1世の系統のみが家系として継続した。フェルディナント1世の系統は19世紀に断絶しており、現存する系統はいずれもレオポルト2世の系統である。
また、歴史上で著名な末娘のマリー・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ(マリー・アントワネット)[4]は、フランス王国のルイ16世[5]に嫁いだ。
ハプスブルク=ロートリンゲン朝の本家にあたる。神聖ローマ皇帝・オーストリア公の他にハンガリー王・ボヘミア王も兼ねていた。神聖ローマ帝国は1806年に解体し、フランツ2世は帝位を降りたが、これに先立って1804年からオーストリア帝国(南ドイツ帝国)の皇帝のフランツ1世を称しており、以後はオーストリア本家が皇帝としてオーストリア=ハンガリー帝国の滅亡まで継承された。これらの帝位および王位はフランツ・シュテファン1世とマリー・テレーゼの夫妻から最後のカール1世まで7代にわたって継承されたが、直系継承されたのは3度だけである。
フランツ・シュテファン1世とマリー・テレーゼの長男のヨーゼフ2世は父から帝位を、母からオーストリア公およびハンガリーとボヘミアの王位を継承したが、嗣子がなく、トスカーナ公を継承していた弟のレオポルト2世が代わって帝位および王位に就いた。レオポルト2世からフランツ2世(フランツ1世)、フェルディナント1世までは直系継承が続いたが、嗣子がないフェルディナント1世が1848年の3月革命で退位すると、弟フランツ・カール(帝位を辞退)の長男のフランツ・ヨーゼフ3世[6]が即位した。なお、フランツ・ヨーゼフの弟のマクシミリアン1世はメキシコ帝国の皇帝となったが、メキシコの自由主義勢力によって銃殺刑に処せられた。
フランツ・ヨーゼフ3世の下、1867年にオーストリア帝国は、『アウスクライヒ』体制下によるオーストリア=ハンガリー帝国に再編される。オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる点はそれまでと同様であったが、軍事・外交・財政を除いてはオーストリアとハンガリーの2つの政府が独自の政策を行なうという体制であった。フランツ・ヨーゼフ3世は唯一の息子であった皇太子のルドルフ1世が、愛人のマリー・アレクサンドリーネ[7]とともに拳銃で自殺すると、甥のフランツ・フェルディナント4世を皇位継承者としたが、彼は、1914年のユーゴスラヴィアの『サラエヴォ事件』で、ボスニア系セルビア人の青年のガヴリロ・プリンツィプの凶弾によって妻のゾフィー・ホテクとともに暗殺され、これがきっかけとなって『第一次世界大戦』が勃発した。大戦中にフランツ・ヨーゼフ1世は87歳で逝去し、暗殺されたフランツ・フェルディナント4世の甥のカール1世[8]が帝位を継ぐが、大戦末期の1918年に帝国は滅亡し、オーストリア共和国が成立するとともに、ハンガリーやチェコスロヴァキア[9]を始めとする多くの国々が独立した。カール1世はスイスに向かうも、拒否されポルトガル領マデイラ島に亡命し、1922年に37歳の若さで病死した。
カール1世の長男のオットーは、当時6歳足らずで皇太子の地位を失った20世紀の終わりにドイツ選出の欧州議会議員を務めた。オットーは2011年に98歳で死去したが、ハプスブルク=ロートリンゲン家(ハプスブルク=ロートリンゲン朝)の家長の座は2006年に高齢を理由として、長男のカールに譲っている。カールも欧州議会議員を務めたが、こちらはオーストリアの選出である。
イタリアのトスカーナ公国は、元来メディチ家が統治していたが、1737年に同家が断絶するとロートリンゲン家のフランツ・シュテファン1世がフランチェスコ2世として継承した。しかし、トスカーナはハプスブルク=ロートリンゲン朝の本領とは独立して統治される[10]ことになり、フランツ・シュテファン1世の次男のレオポルト2世へ、レオポルト2世が帝位を継いだ後は、その次男のフェルディナンド3世へと公位が継承された。フェルディナンド3世をもってトスカーナ家の始まりとする。
トスカーナ家の歴代の君主は「良きトスカーナ人たる」ことを努めたが、それでもイタリア統一運動『リソルジメント』の波には勝てず、フェルディナンド4世が1860年に廃位され、住民投票の結果、サルデーニャ王国へ併合されてトスカーナ家は地位を失った。トスカーナ公国の首都フィレンツェは統一イタリア政府の暫定的首都になった。トスカーナ家はその後、オーストリア本家を頼ってオーストリア貴族として存続し、家系は帝国の滅亡後も現在まで続いている。
モデナ公国は、元来エステ家[11]が統治していたが、1803年にエルコレ3世が嗣子を残すなく没して断絶した。エルコレ3世はフランツ・シュテファン1世の4男のフェルディナント1世を相続人指名し、また娘のマリーア・ベアトリーチェ・デステと結婚させていた。フェルディナント1世はオーストリア=エステ大公と称して、新たなモデナ家としてオーストリア=エステ家を興すが、『ナポレオン戦争』のさなかにあって公位を継ぐことができないまま1806年に没し、息子のフランチェスコ4世が1814年に再興されたモデナ公国の公位に就いた。しかし、モデナ公国も『リソルジメント』の最中に巻き込まれて、1860年にサルデーニャ王国に併合された。
公国を追われたフランチェスコ5世には嗣子がなく、名目上のものとなったモデナ公位はオーストリア本家のフランツ・フェルディナントが継承した。しかし、フランツ・フェルディナントはエステ家の血を引いておらず、この継承はそれを根拠としないものだった。フランツ・フェルディナントが暗殺された後は、甥のカール1世へ、カール1世の皇帝即位後は次男のローベアト(ループレヒト)へと公位は継承された。
現在のモデナ公こと、オーストリア=エステ家のローレンツはローベルトの息子であるが、ベルギー王女のアストリッドと結婚して王室の一員となっており、ベルギー王子の称号も持っている。
ポーランド南西部のシレジア南東部にあったテシェン公国[12]は、ポーランド貴族のピャスト家の分家のシロンスク・ピャスト家によって治められていたが、エルジュビェタ・ルクレツィア女公が1653年に没した後、ボヘミア王としてのハプスブルク朝の君主の支配下に入った。しかし、ハプスブルク朝の最後の君主のカール6世の時代に、ロレーヌ公(ロートリンゲン公)のレオポルト・ヨーゼフ[13]に譲られ、レオポルト・ヨーゼフの死後は息子のフランツ・シュテファン1世(カール6世の女婿)が受け継いだ。
フランツ・シュテファン1世が皇帝に即いたことで、テッシェン公は再び皇帝位と統合されるが、トスカーナ公と同様にハプスブルク=ロートリンゲン朝の本領とは別に相続されることになり、フランツ・シュテファン1世の死後は長男のヨーゼフ2世を経て、その妹のマリー・クリスツィーナが、夫のザクセン選帝侯・ポーランド王のアウグスト3世の子であるアルプレヒト(アールベアト)・カジミール[14](ヴェッツイン家)と共同で受け継いだ。夫妻には実子がなかったため、マリー・クリスツィーナの弟である皇帝のレオポルト2世の3男のカールを養子として、公国を相続させた。カールは兄であるオーストリア皇帝のフランツ1世の治世に、オーストリア軍司令官として『フランス革命戦争』および『ナポレオン戦争』において活躍したことで知られるが、以後カールを祖とする家系がテシェン家となった。
この家系からは『第一次世界大戦』時にオーストリア=ハンガリー陸軍の最高司令官を務めたフリートリヒ、ポーランド国王候補にもなったカール・シュテファン、両シチリア王のフェルディナンド2世の妃のマリー・テレーゼ、スペインの王アルフォンソ12世の妃のマリー・クリスツィーナなどが出ている。
テッシェン公国は第一次世界大戦後にチェコスロヴァキアとポーランド第二共和国の間で分割されて消滅した。テッシェン家の血筋はその後も続いている。
貴賤結婚のためハプスブルク=ロートリンゲン朝の家名を許されなかった家系としては、レオポルト2世の9男で「アルプス王」と呼ばれたヨーハン1世と平民の娘アンナ・プロッフルの間の息子の家系であるメラン家がある。
上記の貴賤結婚のためハプスブルク=ロートリンゲン朝の家名を許されなかった皇位継承者のフランツ・フェルディナント4世と伯爵令嬢のゾフィー・ホテクの間の息子の家系であるホーエンベルク家が知られる。
レオポルト2世の7男のヨーゼフ・アントンは、早世した兄のアレクサンダー・レオポルトに代わって1796年にハンガリー副王(nádor)の地位に就いた。この家系もまたハプスブルク=ロートリンゲン朝の有力な分家の一つとなっており、ベルギー王のレオポルド2世の妃のマリー=アンリエット、『第一次世界大戦』後に新たなハンガリー王国の国王に一時擁立されたヨーゼフ・アウグストなどが出ている。この家系はヴァルブルク家と呼ばれる。
他に、レオポルト2世の10男でロンバルド=ヴェネト王国の副王となったライナー・ヨーゼフの家系があり、サルデーニャ王、のち初代イタリア王となるヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の王妃のマリーア・アデライデなどが出ている。この家系はライナー家/ザルヴァトーア家と呼ばれる。
ハプスブルク朝の最後の君主のカール6世のもう一人の娘で、マリー・テレーゼの妹マリー・アンネは、フランツ・シュテファン1世の弟のカール・アレクサンダー[16]と結婚した。カール・アレクサンダーはオーストリアの将軍として『オーストリア継承戦争』や『七年戦争』で活躍し、また夫婦でオーストリア領ネーデルラント総督を務めた。マリー・アンネは嗣子をもうけることなく早世し、カール・アレクサンダーはその後再婚しなかったため、両人の血筋は絶えている。
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