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ザーリアー朝の王冠
ザーリアー朝・ザリアー朝(独語:Salier-Haus、1024年 - 1125年)とは、中世ドイツによる神聖ローマ帝国の王朝である。「ザーリアー家」、「ザリアー家」としても常用される。
また、「ザリエル」とは舞台ドイツ語の発音で、現在標準ドイツ語では上記の通りである。別称は「フランケン朝」(フランケン家)とも呼ばれる。
イタリア語は「ザーリャ」または「サーリャ」(Salia)、フランス語は「ザリエリ」(Saliéri)、英語は「ザリアン」(Salian)と表記される。
ザーリアー朝(ザリアー朝)はフランケン人の王朝で、かつてフランク王国(フランク帝国)を築いたカロリング朝=カロリンガー朝(Karoling-Karolinger)の分家であると、いう。
ザーリアー朝の出自は諸説がある。それによると、9世紀ごろに勃興していたライン川中域の貴族の家系だといい、特に900年にヴァラホ家(Walaho-Haus)ことヴェルナー家(Werner-Haus)は、ホルンバハ(Hornbach)にある私有修道院を一族とされるザーリアー朝の人物を長として叙任しているという記録が記された資料がある。その出自はツヴェンツィボルト=ツヴェンツィポルト(Zwentibold-Zwentipold)の系統とする説を有力とする。
すくなくとも、ザーリアー朝の姓名による由来の起源地は不詳だが、ドイツ西部アーヘンを中心とするライン川中域にあるホルンバハの貴族だったことは確かである。
カール1世大帝を祖とするカロリング朝のフランク王国の藩屏国のうちドイツを支配した東フランク王国はルートヴィヒ1世(カール1世大帝の3男)を祖として、その末裔であるアルヌルフ2世(カールマン2世の庶子)の庶子で、ヴァラホ家のヴェルナー3世の娘(アルヌルフの前妻か愛妾)を生母として、東フランク王国の最後の王・ルートヴィヒ4世(幼童王・小児王)の妾腹の兄でもあるツヴェンツィボルト=ツヴェンツィポルト(Zwentibold-Zwentipold)がロタリンギア王(中フランク王、後のロートリンゲン)を兼ねるようになり、リウドルフィング朝(Liudolfing)のザクセン公・オットー1世貴顕公(または栄光公)の娘のオーダを娶った[1]。
900年にツヴェンツィボルトが31歳の若さで亡くなり、長男のザーリ(Sali)がまだ2歳だったため、ロタリンギア王はツヴェンツィボルトの嫡弟(ザーリの叔父)の東フランク王国の最後の王・ルートヴィ4世が兼ねた。911年に後にルートヴィヒ4世が17歳で亡くなると、外甥でルイトポルト家のバイエルン公アルヌルフと対立したコンラーディン家(コンラディン家/コンラート家)のコンラート1世(若王、生没年881年 - 918年、在位905年 - 918年(フランケン公)&911年 - 918年(ドイツ王)、トューリンゲンのラーンガウ伯・コンラート(オード(Odo I)またはウード(Udo I)1世の子)とグリズムート(グリスモント・グロスモントとも。アルヌルフの娘)の子)がドイツ王=東フランク王&ロタリンギア王となり、ザーリは従父であるヴァラホ家のヴェルナー4世(祖母の甥)の養子なり「ヴェルナー5世」と改称した。後にヴェルナー5世は前名の「ザーリ」にちなんで「ザーリアー朝」の祖となった、という説である。
いずれにせよ、ザーリアー朝はアーヘン周辺を中心とするライン川中域にあるホルンバハ~フランケン地方北西部を拠点としたフランケン貴族であり、カロリング朝の系統とするのは否定できない見方がある。
実質的なザーリアー朝の祖であるヴェルナー5世(前名はザーリ(Sali))は父であるロタリンギア王のツヴェンツィボルト(ツヴェンツィポルト)が逝去すると、ヴァラホ家出身の祖母(ツヴェンツィボルトの生母)を持ったことから、従父のヴェルナー4世[2](祖母の兄・ヴェルナー3世の子)の養子となり、「ザーリ」から「ヴェルナー5世」に改称した。同時にリウドルフィング朝の公女である生母のオーダ と生き別れたのである。カロリング朝の忠実な与党であったヴァラホ家は先祖代々、世襲したヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯&シュパイアーガウ伯であった。ドイツ王・コンラート1世若王の娘・ヒッカを娶り、フランケン公・エーベルハルト3世(885年 - 939年、コンラート1世若王の弟、妻はヴァラホ家のヴィルトルート[3]))が嗣子がないまま没すると、コンラート1世若王の姪婿の身分で、広大なフランケン地方[4]を支配するフランケン公となり勢力を拡大し、前名の「ザーリ」にちなんでザーリアー家の祖となった。
918年、コンラート1世若王が亡くなり、東フランク王・アルヌルフの外孫でリウドルフィング家(ザクセン朝)のハインリヒ1世捕鳥王[5]が継いだ。922年にロタリンギア王国のうち東部は東フランク王国(ドイツ王国)に西部は西フランク王国(フランス王国)に併呑されて消滅した。
917年にヴェルナー5世はドイツ諸侯の利害に巻き込まれたためにヴォルムスガウ伯&シュパイアーガウ伯を退位させられた。しかし、918年に岳父のコンラート1世若王の爵位であるフランケン公の地位を相続できた。ヴェルナー5世は935年に37歳の若さで逝去した。その子のコンラート1世赤毛公はまだ弱冠15歳で、亡父の爵位を相続した。944年に成長したコンラート1世赤毛公は、亡父の遺志を継いで、自身の外祖父でもある亡きドイツ王・コンラート1世若王と対立したリウドルフィング家のハインリヒ1世捕鳥王の子であるオットー1世大帝(ザクセン公としてはオットー2世、ザクセン公・オットー1世貴顕公/栄光公の孫)の娘・ロイガルト(リウトルト)を娶った。さらにロートリンゲン公を兼ねるようになり、英傑だったために、ますます勢力を拡大した。
しかし、953年にコンラート1世赤毛公は、ドイツ諸侯と結託した義弟のシュヴァーベン公・ロイドルフまたはリウドルフ(オットー大帝の太子)とともに反乱を起こしたため、激怒した岳父のオットー大帝はこれを鎮圧し、長男のロイドルフ(リウドルフ)を廃嫡し、末子のオットー2世をシュヴァーベン公に封じて、同時に太子とした。女婿のコンラート1世赤毛公はロートリンゲン公およびフランケン公を剥奪され、ロートリンゲン公はオットー大帝の弟のケルン大司教のブルーノに与えられた。コンラート1世赤毛公はヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯&シュパイアーガウ伯のみとされ、蟄居謹慎を受けた。
955年、謹慎中のコンラート1世赤毛公は、アジア系遊牧民族であるウゴル系のマジャール人(ハンガリー人)を率いたアールパード朝のハンガリー公&大酋長(ジュラ)のタクショニュ(アールパードの孫)がバイエルン地方を占領したため、岳父・オットー1世大帝が親征した。だが、アウクスブルク付近のドナウ川支流レヒ川(Lech)川流域にあるレヒフェルト(Lechfeld)で、タクショニュ率いる多勢のマジャール人の騎馬隊の挟撃のために窮地に陥った岳父のオットー大帝の情報を聞いて、自ら逸早く岳父の援助に駆けつけた。コンラート1世赤毛公は奮戦中に35歳の若さで壮絶な戦死を遂げたが、この戦いでオットー1世大帝はタクショニュ率いるマジャール人を撃退した(『レヒフェルトの戦い』)。
コンラート1世赤毛公とロイガルトと間の子・オットー1世老公(もしくはオットー2世)は守成型の君主で、父の戦死後はまだ8歳だったが、亡父の功績により外祖父のオットー1世大帝の計らいで、ヴォルムスガウ(ヴォームスガウ)伯&シュパイアーガウ伯のみではなく、フランケン公としての世襲を許された。後にバイエルン公のハインリヒ(ルイトポルト家[6])の娘のユーディトを娶り、978年にケルンテン公となるも、ドイツ諸侯との利害に巻き込まれて982年に退位した。初老に達した995年に再びケルンテン公に即位した。しかし、シュパイアーガウ伯を兼ねた長男のハインリヒ2世が父よりも先だって、1000年に36歳の若さで早世したため、彼は次男のローマ教皇・グレゴリウス5世[7]に亡きハインリヒ2世とエルザス=ロートリンゲンのメッツ伯・リヒャルト(マートフリーデ家=Matfriede-Haus)[8]の娘・アーデルハイトとの間に生まれた嫡孫のコンラート4世(神聖ローマ皇帝としては「コンラート2世」)の後見役を委ねて託した。
1004年にケルンテン公のオットー1世老公は57歳で亡くなり、三男のコンラート2世がケルンテン公として後を継いだ。1011年にコンラート2世が38歳で亡くなると、その子のコンラート3世が後を継いだ。1039年コンラート3世が嗣子がないまま亡父と同じく38歳の若さで亡くなると[9]、従子のハインリヒ3世(コンラート4世の子)がケルンテン公を兼ねた。
その一方、ザクセン朝のリウドルフィンガー家のドイツ王・オットー3世(オットー大帝の孫、オットー2世の子)が嗣子がないまま1004年に亡くなり、バイエルン公のハインリヒ3世(オットー大帝の弟・バイエルン公ハインリヒ1世の孫)が、族兄弟(はとこ)のオットー3世の後を継いで、神聖ローマ皇帝になるも、1024年に嗣子がないまま逝去し、ついにザクセン朝のリウドルフィング家は断絶した。
そこで、ドイツの有力諸侯たちはオットー大帝の外玄孫のコンラート4世を推戴した。コンラート4世は神聖ローマ皇帝としては「コンラート2世」となり、かつてのカロリング朝の血筋を引くロタリンギア王のツウェンツィボルトの系統であることもあり、多くのドイツ諸侯は彼の即位に異論はなかった。
ブルグント王のコンラート3世(古ヴェルフェン家)の娘ゲルベルガとシュヴァーベン公のヘルマン2世(コンラーディン家)との間の娘であるギーゼラと結婚した神聖ローマ皇帝のコンラート2世(コンラート4世)はシュヴァーベン・ブルグント(ブルゴーニュ)・ロートリンゲン(ロレーヌ)などを併呑して、ドイツを支配した。子のハインリヒ3世黒王も父以上の卓越した手腕で、バイエルン・ツィロル・ザルツブルク・ケルンテン[10]などを併呑&領土を拡大した。
北ドイツのゴスラー生まれのハインリヒ3世の子・ハインリヒ4世は、40歳で急逝した父の後をわずか7歳で継いで、シュパイアーガウ(シュパイアー)の居城で生母のアークネスの摂政を受けたが、ハインリヒ4世自身は母とともに幼君と侮ったドイツ有力諸侯に翻弄された屈辱の日々を受けた。しかし、成長したハインリヒ4世は亡父の念願だったローマ教皇が統治するイタリアの征服を目論んだ。しかし、従祖父でもあり後見役だったローマ教皇のヴィクトーア2世(ケルンテン公のコンラート2世の次男でヴェルツブルク大司教・ブルーノ2世)が逝去すると、ザーリアー朝を目の敵とするグレゴリウス7世としてローマ教皇になったイルデブランド[11]は彼のイタリア支配を阻み、これを破門した。
さらにドイツ国内でも義兄(姉婿)のラインフェルト家であるシュヴァーベン公のルドルフとルクセンブルク家のヘルマン対立王らがグレゴリウス7世(イルデブランド)と結託するなどの不穏の動きが出たため、1077年1月、窮地に陥った28歳のハインリヒ4世は妻のベルタ(サヴォイア伯・オッドーネの娘)と4歳になる次男のコンラート6世(長男のハインリヒ5世は夭折)を連れて、自ら北イタリアのカノッサに赴いた。当地で、トスカーナ女伯のマチルデの仲介を経て、グレゴリウス7世に跪き、破門を解かれた。解かれるまで1月25日から3日間もかかったという。これが有名な『カノッサの屈辱』である。
やがて、窮地を脱し勢力を盛り返したハインリヒ4世は、反撃に出た。まずは義兄(姉婿)のシュヴァーベン公のルドルフ(ラインフェルト家)とヘルマン(ルクセンブルク家)ら対立王の軍勢を蹴散らし、これに驚愕したグレゴリウス7世はイタリア南部のサレルノに逃亡して、当地でさみしく客死した。ハインリヒ4世も父・ハインリヒ3世黒王に劣らない、神聖ローマ帝国の「覇王」であった。
しかし、1098年に次男のドイツ王・コンラート6世共治王が1095年に子を産まない理由で一方的に離縁されて恨みを抱いた父の後妻&継母でもあるキエフ公国の公女・プラセーデ[12]はローマ教皇の後盾を得て、ザーリアー朝の与党だったヴェルフェン=エステ家のバイエルン公のヴェルフ2世肥満公・ハインリヒ1世黒公(ハインリヒ3世獅子公の祖父)兄弟と手を組んで、反乱を起こし父・ハインリヒ4世の退位を迫って攻撃した。そのため、このため皇帝派=ギベリン(Gibellin)と教皇派=ゲルフ(Gelf)の対立とも呼ばれた。
この報に激怒したハインリヒ4世は軍勢を率いて、これを壊滅してわが子・コンラート6世を廃嫡し、幽閉した(1101年にコンラート6世は嗣子がないまま29歳で逝去した)。また、プラセーデを生家のキエフ公国に強制帰還させ、三男で末子のハインリヒ5世をドイツ王とした。だが、1105年、このハインリヒ5世も廃嫡された兄と同様に、再びヴェルフェン=エステ家のヴェルフ2世肥満公・ハインリヒ1世黒公兄弟と組んで反乱を起こして、父・ハインリヒ4世を捕らえて、これを幽閉した。次男と三男の相次ぐ親不孝ぶりにショック&大打撃を受けて憔悴したハインリヒ4世は1106年8月7日に57歳で逝去した。
父から帝位を強奪したハインリヒ5世だが、ローマ教皇と叙任権闘争で激論するも、1122年の『ヴォルムス協約』(ヴォルムスガウ協約)が成立し、教会勢力を軸とする『帝国教会政策』が崩壊し、ドイツ以外の僧職叙任権はローマ教皇の権利となり、以降からドイツ諸侯の地方分権化が強化され、ドイツは封建化が進んだ。
1125年、ハインリヒ5世の母方の従父でヴィッツィン家のマイセン辺境伯・コンラート1世がズュッペリンゲンベルク家(ズップリンブルク家とも)のザクセン公のローター3世と手を組んで反乱を起こした。激怒したハインリヒ5世はこれを迎え撃ったが、大敗したため帝位を放棄して、ネーデルラント=フランドル(現在のオランダ)のユトレフト[13]に逃亡して、反撃の機会を得れず嗣子がないまま、40歳で客死した。ついにカール大帝の血筋を引く名門・ザーリアー朝は断絶し、ホーエンシュタウフェン朝のシュヴァーベン公・フリートリヒ2世に嫁いだ姉・アークネスが産んだ子のコンラート3世(次男)が、当代の英傑だったため神聖ローマ帝国の皇帝に推戴された。
『カノッサの屈辱』を受ける前のハインリヒ4世一家
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