登録日:2022/09/12 (月) 15:50:00
更新日:2024/06/27 Thu 10:28:02NEW!
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サラブレッド 故馬 名馬 年度代表馬 20世紀のアメリカ名馬100選 g1馬 アメリカ競馬名誉の殿堂入り 二冠馬 芦毛 芦毛の怪物 競馬 競走馬 種牡馬 歴代アメリカ最強馬候補 頑丈 無事之名馬 黄金の70年代 海外馬 スペクタキュラービッド スペちゃん(アメリカダートのやべーやつ) 79年クラシック世代 ボールドルーラー系 70年代最後の大物 spectacular bid
Spectacular Bidとは、アメリカでかつて生産・調教された元競走馬・種牡馬。
名馬・スターホース・三冠馬・無敗三冠馬・馬のような何かが綺羅星の如く現れては駆け抜けていった、アメリカ競馬の絶頂期とすら評される黄金の1970年代最後の大物であり、物の本や人によっては最大の大物に挙げることすらある芦毛の怪物である。
データ
生誕:1976年2月17日
死没:2003年6月9日(27歳没)
父:ボールドビダー
母:スペクタキュラー
母父:プロミストランド
生産国:アメリカ合衆国
生産者:ウィリアム・G・ギルモア夫人&ウィリアム・M・ジェイソン夫人
馬主:ホークスワースファーム
調教師:グローバー・“バディ”・デルプ
主戦騎手:ロニー・フランクリン(ベルモントステークスまで)、ウィリアム・シューメーカー(ベルモントステークス以後)
生涯成績:30戦26勝[26-2-1-1]
獲得賞金:278万1608ドル
主な勝鞍:シャンペンステークス、ローレルフューチュリティ(ここまで1978年)、フロリダダービー、フラミンゴステークス、ブルーグラスステークス、ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、マールボロカップハンデキャップ(ここまで1979年)、チャールズ・H・ストラブステークス、サンタアニタハンデキャップ、カリフォルニアンステークス、アモリー・L・ハステルハンデキャップ、ウッドワードステークス(単走、ここまで1980年)*1
受賞歴:エクリプス賞最優秀2歳牡馬(1978年)、同最優秀3歳牡馬(1979年)、同年度代表馬(1980年)、同最優秀古馬牡馬(1980年)
血統背景
父ボールドビダーはボールドルーラー産駒の1頭。バックパサーと並び、1960年代中期にハンデキャップ戦線の雄としてその名を馳せた実力馬である。
種牡馬としてはケンタッキーダービー馬キャノネイドなどの活躍馬を出し、ボールドルーラー後継の1頭として活躍と成功を収めた。
母スペクタキュラーは10戦4勝とそれなりの戦績で繁殖入りしステークスウィナーにこそなれなかったが、好走そのものは多かったようだ。
母父プロミストランドは77戦21勝のタフネスホース。勝鞍はどちらかといえばハンデキャップ寄りで、スペクタキュラービッドの尋常ならざるタフネスはこの祖父から受け継いだのでは、という見方もある。
種牡馬としての成績はまずまずといった感じだが、サンデーサイレンスの母父アンダースタンディングを輩出したことで血統史に名を残している。
総合的に見ると、「牡系は素質抜群だが、牝系がやや地味で見どころに欠ける」というのが当時の血統評価となろうか。
生涯
誕生〜デビューまで
母スペクタキュラーの馬主だったギルモア夫人とジェイソン夫人母娘により、ケンタッキー州のバックモンドファームで生産された。
その馬体は確かに芦毛だったのだが、「鋼鉄色」とか「軍艦色」と後に呼ばれるようにわずかに黒みがかったもの。そのせいでか、どうもさえない風体に見られることもあったらしい。
1歳になると、生産者母娘にキーンランドセレクトセールに出品……されようとしたんだが、血統やらなんやらの基準を満たしてなかったらしく不許可。???「よう後輩、お前もこっち来いよ」
ということでファシグティプトン社の競り(一般部門)に出され、ホークスワースファームのマイヤーホフ夫妻(夫がハリー、妻がテレサ)に落札された。落札額3万7000ドル、現代円換算で1600万円ちょいといったところか。
シアトルスルーの1万7500ドルよかマシだが、後のGⅠ二桁勝利馬につく価格としては格安にもほどがある。まあ、良血高額馬でもとことんクソザコと化したりするのが競馬だし、高けりゃいいってもんでもないのだが。高い方が一応期待値も実数値も上がるけど。
ところで、セレクトセールに出せなかった格安馬から無敗三冠馬だの世代最強馬だのとレジェンドレア級が馬ガチャ単発素引きでホイホイ出てるわけだが……関係者はどう思ってたんだろね(ゲス顔)
マイヤーホフ夫妻にお買い上げされた彼は、夫妻のツテでピムリコ競馬場に厩舎を構えるグローバー・デルプ調教師のもとで鍛えられることになった。というかデルプ師が彼を買うのを勧めた方が先だったらしい。
メリーランド州で荒馬乗りとして名を馳せたデルプ師は管理馬を厳しく鍛え上げることでも有名で、スペクタキュラービッドを「彼は競馬界に身を置く者にとっては最上級の馬だよ」と評したが、それだけにヌルく鍛える気は微塵もなかった。
結果、当時としてはそこまでさえてない血統と風体の芦毛の若馬は、バッキバキに鍛え抜かれてデビューすることになる。
2歳時〜怪物の胎動……胎動?既に覚醒済みでは?〜
1978年6月、ピムリコ競馬場のダート未勝利戦において、見習いのロニー・フランクリン騎手(なんと当時18歳)を鞍上にデビュー。のっけからコースレコードにあと0秒4まで迫る、人馬ともにルーキー離れした好タイムで快勝。
3週間後の同コースで一般競争に出ると、今度は2戦目にしていきなりコースレコードタイを叩き出し、2着に8馬身差つけて蹂躙。
8月、モンマスパーク競馬場に乗り込みタイロステークス(当年は出走馬が多く分割開催)でステークスデビュー。しかしここではスタートで後手を踏み、勝ち馬に6馬身以上離される4着。生涯唯一の複勝圏外となってしまった。
続いてデラウェアパーク競馬場でドーバーステークスに出走、またしても後手を踏み2馬身半差の2着と連敗を喫する。
しかしここで何かスイッチが入ったらしく、連敗の屈辱をバネに一気に飛躍する。
1ヶ月間を空け、9月後半にアトランティックシティ競馬場に移動し、ワールズプレイグラウンドステークスで重賞初挑戦。ベルモントフューチュリティを勝ったクレスティドウェイヴを向こうに、1分20秒8という、およそダート7ハロンで2歳馬が出すもんじゃないタイムで15馬身差にねじ伏せ虐殺。
さらに2週間後の10月、ベルモントパーク競馬場のシャンペンステークスでGⅠデビュー。セクレタリアトの2年目産駒にして世代最高クラスの素質と名高い、ジェネラルアセンブリーを相手取ることに。
ここで陣営もさすがにフランクリン騎手では荷が勝ちすぎると見たか、ジョン・ベラスケス騎手に鞍上交代。するとテン乗りもなんのその、世代最優馬(当時)に2馬身差以上つけて完勝。GⅠ初挑戦を見事な勝利で飾った。
続いてメドウランズ競馬場でヤングアメリカステークスに凸、ここでもベラスケス騎手が続投。直線突入前に不利を受け、幾度かボコったストライクユアカラーズとの叩き合いにもつれ込むが、ド根性でクビ差抜け出し勝利をもぎ取る。
さらに9日後、10月末のローレル競馬場のメインイベント・ローレルフューチュリティに出走。ここでフランクリン騎手が鞍上復帰し、ジェネラルアセンブリーとの再戦となった。が、8馬身半差つけるフルボッコで格付け完了。ついでにコースレコードも叩き出した。
続けて中1週でキーストーン競馬場のヘリテージステークスに出陣。馬なりのままで後続を6馬身差にねじ伏せ圧勝し、このシーズンを終えた。
結局、2歳時の戦績は9戦7勝5連勝1レコード1レコードタイ。……待って、こいつ本当に2歳馬?(震え声)
その問答無用すぎる蹂躙ぶりから、文句なしで最優秀2歳牡馬に選出。この戦績なら当然だろうなぁ、としか。
なお、さすがに年度代表馬までは獲れなかった。同年のクラシック&古馬戦線はシアトルスルーとアファームドの新旧三冠馬コンビがヒャッハーしまくる地獄絵図だったからね、しかたないね。
3歳前期〜激進する鋼鉄の二冠馬〜
暖かいフロリダで冬を越し、1979年2月、ガルフストリームパーク競馬場のハッチソンステークスで始動する。陣営としては休養明けのひと叩きで、レース勘取り戻させるつもりだったのだろうが……
まさかの終始馬なり&最後はキャンター(駆け足)で4馬身差完勝というとんでもないことをやらかす。休養明けとは。
12日後のファンテンオブユースステークスも終始馬なりのまま、8馬身半差蹂躙。「誰が乗っても勝てんじゃねーの?」はもはや禁句
続くフロリダダービーではフランクリン騎手が盛大にやらかし、「馬の乗り方忘れてんじゃねーかテメー」クラスのクソ騎乗を披露。最初のコーナーで前の馬のケツに自分から突っ込み躓きかけると、3角で内を突こうとしてミスりまたしても躓く。
その分取り戻そうと4角で大外に持ち出して一気にまくり、ようやく先頭に立って4馬身差勝利。1ハロンくらい余計に走ってねーか、これ。蛇行して余計に走らされて4馬身差勝ちとかイミフなんですがそれは
このクソオブクソ騎乗にはデルプ師もガチギレ、公衆の面前で「ロニーのばか!ばか!うんこ!あいつを殺す気か!!」と痛罵。残当。
なお、フランクリン騎手が「他の騎手に妨害受けたんで……」と言い訳かましたんで余計にキレた模様。火に油注いでどーする。
さすがに20になるかならんかの若手騎手をボッシュートというのは不憫に感じたのか、首の皮一枚繋がったフランクリン騎手はこの後も続投。
次走フラミンゴステークス(ハイアリアパーク競馬場)では向こう正面からのロンスパというゴルシみたいな所業をかまし、後続を12馬身差殲滅。ついでにフロリダ州の年初開催を完全制圧してしまった。
これにはデルプ師も「スペクタキュラービッドの三冠達成を阻止できるのは神の御業だけやな!」と、自信満々で盛大にフラグを立てるついでに他陣営に中指立てつつケンタッキー州に突撃。
ケンタッキーダービーまでわずか9日に迫った状態でブルーグラスステークス(キーンランド競馬場)に参加すると、最後方から向こう正面でまくりあげて7馬身差圧勝。まさかの2戦連続ロンスパゴリ押しである。なぜ勝てるし。
なお、当年ここまでで稼いだ2着馬との累計馬身差は驚異の36。こいつとレースする意味あんの?
そんなわけでチャーチルダウンズ競馬場、ケンタッキーダービー。今回は実力馬陣営からも出走回避が相次ぎ、ダービーに全力出すアメリカとしては珍しく、わずか10頭立ての開催となった。
スペさんは単勝1.6倍と断然の1番人気に推されたのだが、デルプ師はオッズが不満だったらしく観衆に「もっとガッツリ賭けてくれ!」と叫んでたりする。何してんのテキ。
スタートが切られるとまたしても後方から向こう正面で進出していき、4角途中で一気に先頭までまくりあげて独走。そのまま3馬身近く差をつけて完勝した。
拠点ピムリコに戻っての二冠目プリークネスステークスは、ビビり倒した他陣営が尻込みして5頭立てで開催されたが、これも5馬身半差つける大楽勝でコースレコードに迫る好タイム。
ここまで2歳時の敗戦以降12連勝。あまりに強すぎて「10ハロンまでならセクレタリアトより強いんじゃねーの?」とまで言われる始末。ホントおかしなことやってんなスペさん。でもあんなUMAよりやべーのは今後現れなくていいと思うの
破竹圧巻の二冠達成、馬主も厩舎もメリーランド州にある(スペさん自身はケンタッキー州出身だけど)ということで、メリーランドの英雄としてさらに称賛を浴び、ボルチモア市長(ピムリコ競馬場所在市)からボルチモア名誉市民の推薦を受けた。
なお、フランクリン騎手はレース後に「(三冠は)イケます」と自信満々のコメント。
ベルモントステークス〜それぞれの挫折〜
ニューヨーク州はベルモントパーク競馬場で開催されるベルモントステークスは、ダート12ハロンのクラシックディスタンス。これまで最長10ハロンのスペクタキュラービッドに対し、勝ち目があるとすれば長距離戦の当レースと見たか、出走馬がちょびっと増えて8頭立てとなった。
シアトルスルーやアファームドに続く三冠馬爆誕を夢見たファンの皆さんの期待はいやが上にも高まり、単勝1.3倍の断然1番人気。
しかし好事魔多し。レース当日の朝になって左前脚からの出血が確認されてしまう。厩舎内に落ちてた包帯止めの安全ピンを踏んづけてしまい、それが蹄を抉るように食い込んだのだ。
傷そのものはやや深いが小さかったようで、止血消毒はすぐ済み、エプソム塩*2の桶に脚を浸す応急治療が施された。
出走回避も検討されたが三冠の重みは抗しえず、デルプ師は負傷を鞍上に伝えた上で出走を決断する。が、これがまずかった。フランクリン騎手は「初めてカエルの解剖する新米研究員みたいだった」と評されるほど動揺し真っ青になってしまったのだ。
まあ無理もない。見習いの身でうだつの上がるように見えない馬を任され、気楽に経験積もうとしてたら、そいつはよりによって速い・強い・賢い・超強い・比較対象がUMAレベルで強い、な控えめに言ってぶっ飛んだバケモノで、あれよあれよと三冠にリーチをかけやがった。
しかも間の悪いことに、他の騎手と殴り合いした直後にこれだ。元々三冠のプレッシャーもあっただろう。ろくなキャリアもないのにクソ強チートホースに乗ることに他者の嫉妬もあっただろう。ましてや彼は、まだハタチにすらなってないのだ!
ただでさえ神経をヤスリがけどころか100トンハンマーされてるところに、負傷した愛馬で出走?SAN値直葬しなかっただけでも御の字だろう。重ねて言うが、ロニーはまだハタチにすらなってない、スペクタキュラービッドのおかげでケツから殻が取れかけたような騎手なのだ。
そんな風にフラグを積み上げまくって迎えたベルモントステークス。逃げ馬が先手を取ってかなりのハイペースに持ち込み、それをかわした本馬もハイラップを維持したまま先頭をひた走る。
が、さすがに傷の痛みと消耗、さらに長距離戦経験がほぼない鞍上が焦りやメンタルデバフなどからペース配分誤ったのもあり、4角でわずかに脚色が衰え失速。内を突いたコースタルにかわされると、ゴール直前でさらにクビ差かわされ3着敗戦。連勝記録は12で止まり、3年連続三冠馬誕生もならなかった。なに?「セクレタリアトなら勝ってた」?アレに勝てるの初代様かエクリプス*3かキンチェム*4くらいしかおらんやんけ
この敗戦後、フランクリン騎手はスペクタキュラービッド主戦の座をボッシュートされたが、別にこのレースとは特に関係ない。というのもあろうことか、ロニー坊やはオクスリキメた挙げ句単純所持で逮捕されてしまったのだ。
この逮捕がヤクキメ初犯ではあるが、彼がいつからキメてたのかは定かではない。動機には想像つくが。もうヤツの鞍上でSAN値ゴリゴリにされたことしかあるまい。
その後も彼は騎手を続けたものの、一度キメたコカインの魔の手からは逃れられず、何度も摘発されてジョッキークラブの堪忍袋がパージ。ついに1992年に騎手免許剥奪処分を受けて競馬界を去った後、復帰することなく2018年に病没した。
なお、スペクタキュラービッドはこのときの傷が細菌感染、感染症で軽く死にかけた……はずだったが、蹄の傷周りから膿出しする手術を受け、ゆっくり養生したのがよかったのか、わずか2ヶ月で戦線復帰しやがりましたとさ。同世代馬を擁する他陣営が手で顔を覆ったのは想像に難くない。お前ホントに元死にかけなわけ?
3歳後期〜ぶっちぎり新旧チート雄野郎、最初で最後の直接対決〜
やらかしたロニーから名手ウィリアム・シューメーカー騎手*5に主戦交代し、8月末にデラウェアパーク競馬場で開催された一般競争で戦線復帰。GⅠでも蹂躙しまくる奴が一般競争に出て負けるわけがなく、後続を17馬身ぶっちぎるついでにコースレコード叩き出して鏖殺。
次走、中1週でベルモントパーク競馬場のマールボロカップハンデキャップ*6に出走。2着ジェネラルアセンブリーに5馬身、3着コースタルにさらに1 1/4馬身差を叩きつけ、特にコースタルに対しては念入りにお礼参りした形となった。
約4週間の短期休養を挟み、ジョッキークラブゴールドカップに出走。このレースは1世代上の三冠馬アファームドも出走表明しており、当代チートと先代チートの激突に恐れをなしてほぼ総員出走回避。
ワンチャン狙いのギャラントベストとかいうグレード未勝利馬を除けば、雪辱に燃えるコースタルと、役者そのものは粒揃いのレースとなった。マジでギャラントベストさん何しに来たん?
なおこのレース、前年にシアトルスルーとアファームドがエクセラーという伏兵にまとめて撃破された三冠馬ホイホイである。「アファームドなら奴を倒せるのでは?」「いやいやアファームドとて彼には……」などと、競馬ファンは大いに盛り上がった。
レース本番は逃げるアファームド、それをつつくスペクタキュラービッド、両馬をマークするコースタル、果敢に逃げるも3角で圏外落下するギャラントベストさんという形で進む。
直線向いてスペクタキュラービッドが幾度となく競りかけるのを都度突き放してアファームドが完封、3/4馬身差に破れた。
スペクタキュラービッド「クッソォォォォォォッ!届け!届け!!届けェェェェェェッ!!!」
アファームド「[[三冠馬をッ、無礼るなァァァァァァッ!!>十傑集]]」
※マジでこんなフキダシ付きそうな激戦でした
脚色そのものは彼の方が良かったのだが、アファームドの「他馬に決して抜かせない」とまで言わしめた驚異の粘り腰とド根性が上手だったということだ。
スペクタキュラービッドも「ようやく対等に戦ってくれる奴が来た!」と歓喜絶頂だったことだろう。当のアファームドはこれがラストランだったんですがね
一応補足しておくと、アファームドはシアトルスルーに負けてることで過小評価されがちなきらいがあるが、当時最後の三冠馬であると同時に、ハイパーチート騸馬ケルソから世界賞金王の座をもぎ取った果てしなくやべーやつである。
スペクタキュラービッドも大概クソチートだしシアトルスルーなんか無敗三冠馬というマジキチクソチートだが、それに挟まれてるアファームドも大概狂ったガチチート枠なのだ。
というか3年連続で歴代アメリカ最強馬ランク上位常連がポップするとか、この時期のアメリカ競馬マジどーなってんだ。アレか、三冠馬どうしの激突が見たかったからとかいう競馬の神のワガママか?
閑話休題。
さらに中1週でメドウランズカップハンデキャップに参加するが、GⅠでも勝負にならなくなりつつあるのにGⅡでは集団いじめられにしかならず、レースレコードのおまけ付きでサクッと完勝。
このレースを最後に79年シーズンは休養に入り、12戦10勝で成績が確定。アファームドに年度代表馬こそ譲ったものの、最優秀3歳牡馬のタイトルを満票獲得した。まあ「他に相応しい奴おる?」って言われても無言で横に首振るしかない程度にはぶっちぎりだったし……
4歳時〜超軼絶塵の芦毛の怪物〜
この年は主戦場を東海岸から西海岸に移し、1月初頭のマリブステークス(サンタアニタパーク競馬場)から始動。最後は馬なりで流す余裕すら見せつけつつ、ダート7ハロンを1分20秒きっかりのコースレコードでぶち抜いて圧殺。またしても集団いじめられが開催されてしまった。
中1週で迎えたサンフェルナンドステークスは最後方から向こう正面で仕掛け、一気にまくって4角途中から先頭を譲らず完勝。
2月初頭のチャールズ・H・ストラブステークスは最後方から徐々に進出しつつ、直線で全頭まとめてねじ伏せ(なお4頭立て)、ついでとばかりに1分57秒8と、ダート10ハロンのワールドレコード叩き出す激走で完勝。なお、これで俗に言うストラブシリーズを史上4頭目の完全制覇。
約1ヶ月間を開けたサンタアニタハンデキャップでは約59kgの斤量、生涯唯一の着外敗戦を喫した時と同じ二度目の不良馬場と、本来なら厳しい条件が重なった。
しかし、どうもアファームドとの激戦で完全覚醒してしまったスペクタキュラービッドにとってこの程度の不安要素は誤差だったらしく、4角先頭で後続をねじ伏せるお決まりのレースで5馬身差圧勝。
2ヶ月休養し、ハリウッドパーク競馬場に移動してのマーヴィン・ルロイハンデキャップは約60kg背負って7馬身差圧勝。
中2週で参戦したカリフォルニアンステークスは、約59kg背負ってコースレコード付きの4馬身差ちょいで完封。
ここから東海岸に戻り、アーリントンパーク競馬場でのワシントンパークステークスはまたしても集団いじめられが発動、2着馬との約8.6kgのハンデ差を10馬身ちぎる殲滅で終了。
約1ヶ月後のアモリー・L・ハスケルハンデキャップ(モンマスパーク競馬場)は名牝グローリアスソングとの激突となったが、ハンデ差を一蹴。直線での叩きあいを制し2馬身差弱で完勝した。
次走として当初はマールボロカップハンデキャップが予定されていたが、ちょっと斤量が酷すぎるので回避*7。ウッドワードステークス(ベルモントパーク競馬場、定量戦)に出陣することに。
当年のこのレース、スペクタキュラービッドを除けば3頭が登録していたのだが、最も戦いになると目されていた牝馬ウィンターズテイルが直前で故障してしまい、無念の(かどうかはともかく)回避。
となると同馬にしばき倒されたばかりのテンパランスヒルは強さを見せねばならんので回避、残るドクターパッチズもまだ勝ち目のある他の定量戦に流れてしまう。
他の陣営?「まだワンチャン勝ち目があるハンデ戦ならともかく、定量戦で約束された集団フルボッコを食らえと?」とばかりにハナからスルーしたけど何か?
てなわけで単走となってしまったウッドワードステークスだが、それでもスペクタキュラービッド見たさに多くの観衆が詰めかける。
米国最大規模のベルモントパーク競馬場をただ1頭のみが駆け抜け、他に馬場にいるのは一般通過鳥類さんのみというクッソシュールな光景が現出したが、こんなんでもGⅠはGⅠなので全米中継された。というか普通に通過ラップ表示や実況解説もされた。
ゆる〜く走って直線で申し訳程度に加速し、2分2秒2で勝利……いやこれ勝利って言っていいのか?いやでも一応勝鞍だし勝ちか。とにかく勝った。
彼のダート9ハロン最速タイムに比べればクソみたいなタイムだが、それでも大観衆からは拍手喝采が送られた。まあ単走勝利って絶対王者の証みたいなとこあるしね
その後はジョッキークラブゴールドカップの雪辱を果たすべく牙を研いでいたが、ベルモントステークス当日の古傷が悪化し出走回避、そのまま引退した。
当年の成績は9戦無敗、全200票中9割を獲得して年度代表馬に選出されると、当然のように最優秀古馬牡馬にも選出された。
ついでに獲得賞金額もアファームドの樹立したワールドレコードを更新した。
なお後年、ブラッドホース誌の20世紀のアメリカ名馬100選で第10位にランクインしているほか、アメリカ競馬名誉の殿堂入りした。
種牡馬時代
当時のレコードとなる2200万ドルでシンジケートが組まれ、1981年からクレイボーンファーム*8で種牡馬入りした。
種付け料も15万ドルと強気のお値段だったが、初年度産駒のスペクタキュラーラヴがベルモントフューチュリティを勝ったことでさらに跳ね上がる。
なお、その後GⅠ馬どころか活躍馬すらろくに現れず、種付け料はマッハで急落していった模様。
種牡馬11年目の1991年に売却され、ニューヨーク州のミルファーファームに移動。晩年の種付け料は3500ドルまで落ちており、もっぱら競技用馬の繁殖に供用されたという。
一応勝ち上がり率は6割弱をキープとまずまずの部類であり、産駒の獲得賞金総額はシンジケート総額にやや赤字程度には稼いでいた。
人口に膾炙されるほど大失敗ではなかったが、間違いなく期待未満ではあったし、何より大物を出せなかったのが痛かったと言えようか。
とはいえブルードメアサイアーとしては成功を収めているし、案外セクレタリアトみたく牝馬を経由してからが本番だったのかもしれない。
一方、馬産家からの人気はともかく競馬ファンからのそれは終生衰えることはなく、世界中からファンレターが届いてたそうな。ちなみに好物はハムだったとか。いや肉食うんかいお前。
カメラを向けられるとポーズキメて不動で待つという、シアトルスルーやどこぞの皇帝様みたいな逸話も残っている。
27歳を迎えた2003年も元気に種牡馬をやっていたが、6月9日に心臓麻痺で死去。遺体はミルファーファームに埋葬された。なお、同年10月には後を追うようにシューメーカー騎手も死去している。
競走馬としての評価
一言で言うならやべーやつ。これに尽きる。
真面目に解説すると、5つの異なる距離帯で7回コースレコードを叩き出したマジモンの怪物。
連戦よし、重斤量よしという時点で既にぶっ飛んだ耐久力だが、そこに怪物的なスピードとパワーが加わるのだから、そりゃもう他陣営からしたら匙投げ遠投記録挑戦ものだろう。
おまけに逃げてよし、先行してよし、差してよし、追い込んでよし、まくってよしの完全自在脚質まで備えている。どないせえと。
ラビットでペースを乱そうにもラビットごと潰され、スローに落として逃げ切ろうにも後方からぶっ飛んできて終了。まぐれで勝とうなんざ、それこそロトが当たるようなもんだろう。ましてや正攻法で勝てとか言われても……
なお、10ハロン以内ならセクレタリアトより強いんじゃね説は当時からあったが、今でもこれは議論の的なんだそうな。
追記・修正は生涯勝率80%超えの方にお願いします。
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▷ コメント欄
- 「あまりの獰猛ぶりに肉やったら喰いそうな奴と評された三冠馬の親父殿」はいるけれど、「マジで貰ったハムを喰うほど好きだった名競走馬」がいたとは…… -- 名無しさん (2022-09-12 20:39:08)
#comment(striction)
*2 いわゆる硫酸マグネシウム、温泉に含まれるアレで温浴効果がある。患部付近を温めて温浴効果で治癒力向上を促す意図があったと思われる
*3 「唯一抜きん出て並ぶものなし」でおなじみ、ほぼ全てのサラブレッドの父祖たるサラブレッド・ジ・オリジン。生涯18戦無敗、うち単走8回。なお、当時のレース体系は長距離を何度も走り、最低2〜3回先着しなければ勝ちと認められないヒートレースが主流で、この馬も例によってヒートレースを7戦してストレートで全勝……つまり実質の勝利数は最大で11+7×3=32となる。マジモンのウルトラチートホースとしか言いようがない。全ての馬に対して「強すぎ/偉大すぎてすまんな」なんて言えるのはこの御方くらいのもんだ
*4 19世紀の神話的名牝。54戦無敗は無敗記録としてはワールドレコード、連勝記録としてもシルバーレコードとなる。勝利距離は950m未満〜4200mとまさに距離適性万能、76.5kgというマジキチすぎる斤量でも勝利、2日連続出走して連勝と、なんかもう色々とおかしなことしかしていない。なお、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は彼女の熱烈なファンとしても知られ、レースで勝つたびに馬主を祝福していたそうな
*5 通算8833勝、米国三冠競争11勝を挙げたレジェンドジョッキー。ラフィット・ピンカイ・ジュニア騎手に破られるまで通算勝利数のワールドレコードホルダーでもあった。なお、同じウィリアム繋がりのウィリアム・ジョン・ハータック騎手とはあまり仲がよろしくなかった模様。またこの2人、どちらも現役時代のノーザンダンサーに騎乗したという共通点があったりする
*6 フィリップ・モリスの代表取締役にして無類の競馬バカだったジャック・ランドリ氏が「金ならいくらでも出すからセクレタリアトとリヴァリッジのガチバトルをかぶりつきで観させろ!!」と、25万ドルポンと出して創設したレース。1987年まで存続した
*7 前年のアファームドも同じ理由で回避してた
*8 ハンコック一族の総本山的なサラブレッドファーム。生産馬も大概GⅠ組がぞろぞろいるが、それ以上に繋養種牡馬がチート揃いのやべーやつら。というかハンコック一族が欧州から良血馬……特にナスルーラとプリンスキロを輸入してなければ、北米競馬は一山いくら程度の競馬後進地帯と化してたわけで、北米競馬界の皆さんはハンコック一族に足向けて寝られなかったりする
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