登録日:2020/05/08 Fri 17:50:37
更新日:2024/05/17 Fri 13:08:24NEW!
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ジョン・ハンター(1728~1793・英)とは、解剖学者にして外科医。
スコットランドのイースト・キルブライド出身。
その天才的な才覚で、英国、そして世界の外科技術の向上に大きく貢献し、多くの人々の命を救った偉大な人物である。
……それと同時に、存命時からあまりの奇行の多さにより救って来た人と同じぐらいの数の人から恐れられてきた怪人物でもある。
18世紀イギリスの医療について
まず、ジョンが産まれた18世紀ごろのイギリスの医療についてだが、ハッキリと遅れていた。
これは単純に「昔だから遅れていた」というレベルではなく、ヨーロッパ全体で見ても明確に医療レベルは一歩も二歩も劣る国だった。
18世紀の医療レベルがどんなものかというと、かの有名な「解体新書」の初版出版がジョンの活躍と同時期の1774年。
その底本である「ターヘル・アナトミア」の原本がドイツで出版されたのは1722年とジョンが産まれる前のことである。
にもかかわらず、当時のイギリスではいまだに古代ギリシャのヒポクラテスの医療原理である四体液説(血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の平衡が崩れることで病気になるという説)を基本としていた。
そのため、現在の観点からはハッキリと有用性を否定されている瀉血や浣腸などの患者の体に大きな負担を強いる治療法がはびこっていた(通称英雄療法)。
また外科医の地位は内科医よりも低いものと見られており、外科は床屋が兼任するものとすらされていた。
だからといって内科医の技術が高かったかと言うとそんなこともなく、当時の彼らが処方していた薬でまともに効果があったのはマラリアの特効薬のキニーネと痛み止めのアヘンぐらいだったともされる。
そして、当時のロンドンは急速な都市化により大量の人口が集まっていたにもかかわらず、衛生施設はまともに整備されておらず、''あちこちに動物の死体が飛散し、おまるからぶちまけられた汚物が道路を汚染する''というすさまじい状況であった。
そのため、天然痘を始めとした疫病が民衆を汚染しており、人々の健康関心は急速に高まっていたが、医者の技術は前述の有様であり……
村の呪い師のおまじないから怪しげな民間療法、ヒポクラテス医学まであらゆるものがごっちゃになったすさまじいカオスな治療が繰り広げられていた。
そんな状況だったため、当時の平均寿命は37歳程度であり、ジョン自身も10人きょうだいの末っ子として生まれながらほとんどの家族を失っている。
そして、そんな時代に生まれてきたジョンはどんな人物だったかと言うと……
経歴
スコットランドの片田舎のハンター家の末っ子として生まれたジョンだが、当時の家庭環境は決して裕福ではなかった。
一応農家としては平均より恵まれている程度には余裕があったようだが、それでも生活は苦しかった。
彼の姉たちは若くして亡くなっており、このような家庭環境が彼を医療の道へと進ませた可能性は十分にあるだろう。
なお、一応教会などで最低限の学習は受けていたようだが、読み書きの成績は良好とは言えなかったようだ。
解剖学者として大成してからも、手紙の文法などはメチャクチャであり、どうも現代で言うところの学習障害のようなものを患っていた可能性が高い。
若い頃はしばらく大工として働き、手先の器用さから重宝されていたが、生憎仕事場が潰れてしまう。
そこで10歳年上の兄、ウィリアムを頼りロンドンに出たのがジョンが20歳の時のことである。
このウィリアムという人物も、当時の基準から言うとなかなかに常識から外れていた。
留学して当時としては先進的な医療技術を学んでおり、それを広めるためにロンドンで解剖学教室を開くことを計画していた。
この解剖学教室は、先進的な医療を学べるとして当時の学生からは極めて人気の高いイベントだったが、当然、そのためには遺体が必須となる。
しかし当然ながらイギリスは土葬が基本となるキリスト教国である。「遺体を解剖されると最後の審判の後復活できなくなる」という考え方が主流だったことから、生前に約束して自分の遺体を解剖学の標本として提供する人は皆無に近かった。
人気が高かったのは、絞首刑になった罪人の遺体で、公開処刑の日には「なんとしても遺体を確保したい解剖医」と「せめて遺体ぐらいは普通に弔ってやろうとする遺族」の間で激しい争奪戦が繰り広げられていた。
そんな環境なので、解剖学教室用の遺体も安定供給されておらず、ウィリアムは当初ジョンをこの遺体の確保要員兼解剖助手としてスカウトした。
そしてジョンはこの遺体確保についてすさまじく優秀な才覚を発揮する。
前述したような時代背景からこの当時のロンドンでは墓場泥棒が跳梁跋扈していたのだが、ジョンはこのアウトローたちとすぐに仲良くなってコネを作り出す手腕に非常に長けていたのだ。
遺体が埋葬されるとすぐさま墓場泥棒を調達し、腐敗する前に掘り起こして確保するジョンをウィリアムは重宝し、自分の技術を教え込んでいった。
ちなみにジョンの遺体確保能力は本当にずば抜けており、「妊婦の遺体が欲しい」などと要望されればすぐさま確保してきたほどだったらしい。いや、あくまで墓場泥棒の範疇にとどまっている……はずだけどね?まさか「直接」調達はしていないはずだけれども……
解剖助手としても、持ち前の器用さからウィリアムの技術を次々と吸収していき、やがて標本作成においてもウィリアムを上回る手腕を見せるようになっていく。
ウィリアムの講義の助手や講師そのものも務めるようになっていき、めきめきと解剖医としての才覚を発揮した。
この当時のジョンは、朝4時から起きて講座の準備をし、夜中まで遺体確保に走り回るという生活を送っていたらしい。
12年の助手生活で、数千体もの標本を作り上げたとも言われている。
またこの間に当時の高名な医学者であるウィリアム・チェゼルデンなどに師事し、実習生として生きた患者と関わることもできるようになっていった。
32歳の頃、肺炎を患い助手の座からは退き軍医として従軍することになる。
この頃から先進的な医学観に基づく医療を進めており、例えば当時の戦場では「銃創はできるだけ早く銃弾を取り出す」が常識とされていたのだが、
ジョンは「不衛生な戦場で銃弾を取り除く切開手術はかえって予後を悪くする。命に関わらない銃創なら、むしろそのまま放置した方がよい」と考えて実践し、実際に生還率を引き上げている。
一応言っておくと、細菌なんてものはそもそも概念すら存在しない時代である。直接細菌そのものを知っていたわけではないが、経験的に「不衛生な環境で手術を行うことのリスク」をジョンは知っていたのである。
退役後は歯科医として働きながら医者としての経験を積み、外科医としても徐々に名を高めていく。
そして1767年にはウィリアムと共に王立協会のメンバーとして認められ、1768年からは聖ジョージ病院の勤務外科医となり、実習生を導く立場となる。
当時、聖ジョージ病院の常勤外科医は4人いたが、実習生の3分の2はジョンの門下生だったと言われる。それほどに人気があったのである。
その後結婚したり、ウィリアムと仲違いしたりしながらも確実にジョンは功績を積み上げていった。
特にジョンが名を知られることになったのは、膝窩動脈瘤患者の治療だろう。
当時この病気は「足を切断する」以外に治療法が見つかっておらず、実質的に発症してしまえば足が間違いなく犠牲になる病気だった。
しかしジョンは、「血管のバイパスを迂回させる」という世界で初めての動脈瘤バイパス手術を行い、見事に足を残したまま治療することに成功したのだった。
そして無数の標本を集めた博物館を建てるも、65歳の時に狭心症で死去。死後に残されたのは大量の標本と多額の借金であった。
1万4千点とも言われた標本の多くは、戦火で焼けてしまったが、現在でも残された標本は「ハンテリアン博物館」として展示されている。
その弟子には、パーキンソン病を発見したジェームズ・パーキンソンや、天然痘のワクチンを開発したジェンナーなどがおり、個人としても教育者としても極めて大きな功績を残した人物である。
エピソード
- 徹底的な実践現場主義
とにかく解剖においても医療に置いても実践を何よりも重要視していた。
単に形や色をスケッチするだけでなく、なんと血や精液を舐めて味を確かめそれを記録するということもやっている。%%味も見ておこう%%
また、淋病の治療過程を確認するために自ら淋病に感染するという奇行にも走っている。
ちなみに解剖医としては切りまくっているが、外科医としては安易な手術に否定的で、できるだけ患者の治癒力に任せる方針だったようである。
- 超コレクター気質
とにかく珍しい症例や特異体質の人を見かけると、その遺体をコレクションしたくてたまらなくなるというオタク体質の人間でもあった。
その気質が最大限発揮されたのが、当時ロンドンのサーカスで働いていた巨人症の青年。
医者としての観察眼から彼が長くないことを見て取ったジョンは「死後遺体をくれないか」と持ち掛けるも当然のように青年は拒否。
青年は「絶対に掘り起こされないよう、自分の遺体は棺に入れて海に沈めてくれ」と友人に依頼して亡くなる。
しかし一枚上手だったジョンが葬儀屋を買収して棺の中には石を詰めてすり替えたため、めでたく巨人症の標本入手に成功したのだった。
ちなみにこれは当時の観点から見てもだいぶアウト気味な行為だったため、表立って公言することはなかったようである。
が、自慢したくてしょうがなかったためか、58歳のジョンの肖像画を見るとコッソリとこの巨人症の標本が描かれている。レアものを自慢しくなるオタクのサガ
- ドリトル先生のモデル
アールズコートに建築した別荘にはシマウマやライオン、ヒョウなどの珍獣・猛獣がたくさん飼われており、時にはそれが逃げ出して大騒動になったこともあった。
この「無数の動物と一緒に暮らす変わり者の医者」という逸話が児童文学、「ドリトル先生」のモデルになったと言われる。
- ジキル博士とハイド氏のモデル
高級住宅街のレスタースクエアに解剖教室と診療所を兼ねた自宅を建てている。
この建物が表通りに面した診療所は小奇麗だが、裏手に回るにつれてどんどん怪しい空気になっていき、裏通りからは夜な夜な遺体が運び込まれるという極めて不気味な建物になっており、それが極端な二面性を持つ医者が主人公の怪奇小説「ジキル博士とハイド氏」のモデルになったと言われる。
- ''ブラック・ジャックのモデル''(?)
医者としては貧乏な患者にも極めて高額な医療費をふっかけていたが、実際に患者がその金額を工面すると一部だけ受け取って残りは突き返す、というようなこともやっていたらしい。
一方で金持ちからはしっかりと高い医療費を受け取っており、まさにリアルブラックジャックを地で行く人物だったようである。
前述した膝窩動脈瘤患者の手術の代金も「死後、足の標本を提供すること」だけだったらしい。
- 進化論についての気付き
ダーウィンが「種の起源」を執筆する70年以上前でありながら、既に進化論について大ざっぱながら考察していた可能性も指摘されている。
ジョンが猿の仲間と人間の骨を並べた標本が、ほぼ完璧に進化論で考察される並びに従っていたのである。
どこまで気付いていたのかは不明だが、極めて革新的な考え方を持っていたのは間違いないだろう。
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▷ コメント欄
- ノブナガンで知ったなぁ -- 名無しさん (2020-05-08 18:00:04)
- ↑ 自分もノブナガンから知ったクチ。 いつの時代も、歴史に名を遺す奴は、必ずといっていいほどクレイジーな一面があると思う。 -- 名無しさん (2020-05-08 20:34:12)
- 決してマネしないでください。ていうので知ったな。絵柄で緩和してるけどフツーにヤベーひとだわ。 -- 名無しさん (2020-05-10 02:54:01)
- サイキックハーツの六六六人衆トリプルクエスチョンの元ネタがジョン・ハンターだって噂が -- 名無しさん (2020-05-12 03:56:51)
- 人格とやってることは完全に(当時の法律で)違法だし(当時でも現在でも)倫理的にNG -- 名無しさん (2020-06-02 13:43:02)
- 異種間での組織の移植等の実験もやっており、これがH.G.ウェルズの『モロー博士の島』、江戸川乱歩の『孤島の鬼』で引用されている -- 名無しさん (2024-02-21 21:41:25)
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