ダイナマイト・キッド

ページ名:ダイナマイト_キッド

登録日:2019/08/09 Fri 04:30:35
更新日:2024/04/19 Fri 10:58:15NEW!
所要時間:約 13 分で読めます



タグ一覧
プロレス プロレスラー 新日本プロレス 全日本プロレス wwe イギリス 爆弾小僧 ダイナマイト・キッド 肉体の表面張力の限界 昭和三団体制覇 ジュニアヘビー級




『ダイナマイト・キッド(The Dynamite Kid)』=本名トーマス(トム)・ビリントン(Thomas Billington)は、1958年12月5日生まれ、英国(イングランド ランカシャー州ゴルボーン)出身のプロレスラー。
80年代に新日本プロレス、全日本プロレス、そしてWWF(WWE)…etc.で活躍していた名レスラーであり、上背は無いものの見事にビルドアップされた肉体から繰り出される技の説得力は充分で、驚異的な身体能力と妥協なき攻撃的なスタイルは後年に於いても多くのレスラーに憧れや目標として名を挙げられた程。
日本ではリングネームを直訳した“爆弾小僧”のキャッチコピーで知られ、跳ねる様なファイトスタイルは“肉体の表面張力の限界”と例えられた。


従兄弟のデイビー・ボーイ・スミスとのコンビでも知られ、二人のタッグはWWFでの活躍を通じて“ブリティッシュ・ブルドッグス”の名で知られている。


00年代までには、試合中のアクシデントで負った障害や、ステロイド等の薬物使用が元で半身不随となり車椅子生活を余儀なくされていた(後述)。


2013年には自伝映画のイベント試写会に登場する等していたものの、2016年には脳卒中で倒れたことから介護施設に入っていた。


そして、2018年12月5日、奇しくも60歳を迎えたその日に没。
死に際して、現役時代に於ける最高のライバルと認め合っていた初代タイガーマスクこと佐山聡が哀悼のコメントを発し、主宰するリアルジャパンプロレスで別れの10カウントゴングが鳴らされた。



【人物】

出身地のランカシャーは“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”と呼ばれる、伝統的な欧州、英国レスリングの伝統が根付いている土地柄であり、少年キッドも元プロレスラーのテッド・ベトレーに師事した後に日本でも“蛇の穴”として知られる、欧州レスリングの名門ビリー・ライレー・ジムにも出入りするようになり、ランカシャー・スタイルとも呼ばれる打撃無しの純粋なレスリングとサブミッション技術に基づくシュート技術を身に付けた。


1975年に17歳でプロデビューを果たすと、日本でら初代ブラックタイガーとなった強豪“ローラーボール”マーク・ロコと抗争、ジム・ブリークスからはブリティッシュ・ウェルター級王座を奪取と、若くして頭角を表す。
1978年4月には、同じくシュート技術に基づくレスリング体系を基本としていたカナダのスチュ・ハートが主宰するスタンピード・レスリングに定着。
同団体が管理していた英連邦ミッドヘビー級王に認定されると、スチュの息子のブレット・ハートと抗争に入り、ネルソン・ロイヤルの様なメジャーで知られる同階級の強豪ともベルトを架けて戦った。
この時には従兄弟のデイビー・ボーイ・スミスも後を追って参戦してキッドやブレットと鎬を削っている。*1


そして、1979年7月に英連邦ジュニアヘビー級王者の肩書きで国際プロレスに参戦して日本に初上陸。
寺西勇や阿修羅・原といった国際のトップ選手と互角以上の戦いを演じて注目を集める。
国際プロレスではキッドに対して週に400ドルのカナダの2倍以上、週に1000ドルのギャラを払う厚待遇ぶりであったが、国際プロレスと提携していた新日本プロレスもキッドに注目し、新日側もスタンピード・レスリングに接触するとカルガリー遠征を実施し、当時WWFジュニアヘビー級王座であった藤波辰巳とタイトルマッチを行わせた。


こうした動きの中で国際はキッドを継続参戦させる計画を諦め、キッドは正式に新日のレギュラー外国人の一人となる。
尚、当時の新日は藤波以下、Jr.ヘビー級戦線の層が充実していた黄金時代であり、古巣の英国の他、ルチャの本場であるメキシコからも強豪が参戦していた。
当時の参戦外国人はキッドの他にもブレットや従兄弟のスミス、ロディ・パイパーといった、後のWWFの大物も居た。


こうして、新日に定着してJr.戦線のスターとして活躍していてから数年後の81年4月に初代タイガーマスクのデビュー戦の相手を務めることになる。
これまでに接触の無かった二人だったが佐山は修行先に英国を選んでおり、キッドとは入れ違いになったが、そのキッドが抗争していたマーク・ロコの新しいライバルとして活躍していた所を呼び戻されてタイガーマスクに変身した所であった。


果たして、二人の初対決は所々にミスは見られたものの、互いに共通する技術による攻防が見事に噛み合い、後々までのライバル関係の始まりとなった。
因みに、このデビュー戦ではタイガーのマスクとマントの出来が余りにも悪いことでも有名で、佐山ばかりかキッドもコスチュームの出来の悪さについてのコメントを残している。
観客からは出てくるなり失笑を買っていた中を目の覚める様な試合内容で覆した形となり、余計に伝説に拍車を掛ける形となった。
決着となったタイガーの超高角度ジャーマンは一見の価値ありの美技だが、それを食らった後もケロっとした様子で勝ち名乗りを受けるタイガーに襲い掛かるキッドの姿も注目である。


こうして大きな衝撃を与えたタイガーマスクの登場だったが、同時にタイガーにも劣らぬ身体能力とレスリング技術を持つキッドも改めての評価を高めることになった。


この間には、カルガリーを主戦場としつつ北米にも参戦。
82年にはWWF(現WWE)の本拠地であるMSGでタイガーの所有するWWF世界Jr.ヘビー級王座に挑戦。
まだまだ昔ながらの常識が抜けず、日本より硬いと言われるマットで日本ではお馴染みとなった攻防を披露して観客の度肝を抜いた。
後に、キッドの死に際してWWEは軽量級ブランド205Liveはこの時の二人の試合をきっかけに立ち上げたことを明かしている。


初代タイガーのライバル達の中でも筆頭と呼べる程の人気を得たキッドだったが83年8月に当のタイガーが突然の新日離脱。
その後もキッドは残留し、今度はその後に登場させられたザ・コブラ(ジョージ高野)のライバルとさせられるがコブラはタイガー程の人気を獲得出来ずに失速。
84年1月には、WWF世界Jr.ヘビー級王座決定トーナメント決勝でスミス、コブラとの三つ巴戦を制してタイトルを獲得しているが、既に新日でのキッドの役目は終わりを告げていた。


元々はJr.ヘビー(クルーザー級)で戦ってきたキッドだったが、この時期には北米マットではヘビー級の選手とも戦いタイトルを奪取する等していた。
ホームのスタンピード・レスリングでは巨漢のキラー・カーン(小澤正志)を破り団体のフラッグシップタイトルの北米ヘビー級王座を奪う等、最早Jr.ヘビーに留まらない商品価値をキッドは発揮していた。


そして、1984年11月にスミスとのタッグで全日本プロレスの「84世界最強タッグリーグ戦」に出場。
これは、新日と全日のライバル関係ということのみに留まらず、WWFと契約していた二人がNWA系の全日に登場という、北米マットから見ても小さくない事件であった。


二人は同時期に新日で開催予定の「第4回MSGタッグ・リーグ戦」に出場予定とされていた中での移籍であった為に、これは大きな話題となった。
この件はキッド&スミス曰く、WWFによるカルガリーテリトリーへの侵攻に対する反発とされ、全日側も、今回の件は北米でのNWAとWWFの大きなテリトリー同士の争いに起因するもので、自分達が引き抜きに動いた訳ではないとの釈明を出した。


これを受けて来日していたWWF社長のビンス・マクマホンJr.は新日本プロレス社長の坂口征二の計らいで全日本プロレス社長のジャイアント馬場(NWAテリトリーの大物プロモーターでもある)との会談を行ったが表敬訪問に近かったと見られ、翌年もキッド&スミスは北米ではWWFに、日本では全日に出場する形となった。
尚、移籍当初はテレビ朝日との契約問題を残したままだったので、二人の試合は『全日本プロレス中継』では映されなかった。


85年5月にWWFと正式に契約を交わし、スミスとのブリティッシュ・ブルドッグスとしてタッグタイトル戦線で暴れまわりシングルプレイヤーとしても実力を発揮。


尚、全日登場の辺りから元々Jr.ヘビーとしては大型過ぎたスミス共々キッドもヘビー級に転向しており、公称では108kgまで体重を増加したとしていた。


WWF、全日本プロレスを股に架けるトップレスラーとなったキッドだったが、86年12月にカナダはハミルトンでのタッグマッチ(キッド&スミスvsカウボーイ・ボブ・オートン*2、マグニフィセント)に於いて、全く予期せぬタイミングでオートンの凶器ギプス攻撃を食らって椎間板骨折の重傷を負い、この後も現役は続けたものの、この傷がキッドの選手生命ばかりか人生までも歪めることになった。


88年末にWWFを離脱して全日に再登場。
デイビー・ボーイ・スミスとのコンビを解消した後にジョニー・スミスとニュー・ブリティッシュ・ブルドッグスを組みアジアタッグ王座を獲得。
スタンピード・レスリングではブッカーも担当する等していたものの体調は思わしくなく91年に全日本プロレスで引退を表明。


その後は日本での状況が聞こえなくなっていたが93年に復帰したとの情報が入る。


そして、96年にルチャ譲りのJr.階級の飛び技主体の選手を集めて独自の魅力を開拓していたみちのくプロレスに参戦するために久々に来日したものの、かつての肉体美が見る影もなく痩せてしまっており関係者や昔を知るファンを唖然とさせた。




……ここで、再び近況が聞かれなくなってから約10年……スミスの変わり果てた姿が世界に報される。


07年に自らのファイトスタイルを踏襲していた現役スター選手のクリス・ベノワの死に際して、現役時代に横行していたステロイドや鎮痛剤の使用と副作用についてCNNのインタビューに答えていが、長らく状況が聞こえてこなかったスター選手の変わり果てた姿は世界中のプロレス関係者やマスコミに衝撃を与えた。


2013年には自伝映画のイベント試写会に登場する等していたものの、2016年には脳卒中に倒れて介護施設に入っていた姿が報される。
これは、NHK BSプレミアムで放送された『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』の初代タイガーマスク特集に寄るものだったが、キッドはそうした状況にもかかわらず「タイガー(佐山)のことなら話したい」と快く取材に応じてくれたという。


そして、2018年に逝去。
偉大なるレスラーの死には最大のライバルであった佐山を初め、世界中のプロレス関係者やファンから追悼の声が寄せられた。



【ファイトスタイル】

小柄(公称173cm)ながら、とてつもない身体能力の持ち主で、ランカシャー・スタイル特有の時にアクロバティックな動きから相手の動きを制して間接を取るレスリングを基本に、直線的で感情をぶつけるかの様な攻めと過剰とまで評される受け身で対戦相手の実力を引き出してみせた。


その、攻撃的なスタイルは“剃刀ファイター”とも評され、鋭い眼光も合間って対戦相手に恐れられた。


プロレス史上に残る身体能力の持ち主として知られる初代タイガーマスクとも遜色のないレベルの運動能力を誇り、Jr.ヘビー級時代には過激な飛び技もこなし、ヘビー級時代には2m級の大型選手をもスピードとパワー、テクニックを駆使して薙ぎ倒してみせた。


特に、90年代の新日本プロレス、00年代のWWEで活躍したカナダ出身のクリス・ベノワは地元で活躍していたキッドに憧れ、体格も似ていることもあってかキッドの得意技を会得して必殺技としていた。



【得意技】


  • ダイビング・ヘッドバット

代名詞的な必殺技で、元祖のハーリー・レイスとは違って、リングの半分も越える程の飛距離から頭を落としていった。
尤も、レイス式の倒れ込み式もバリエーションの一つとして使用していた。
現在、ダイビング・ヘッドバットは大きく飛んでから仕掛けるが、これはキッドから流行していった技である。
尚、当初のキッドはヘッドバット(頭突き)らしく、相手の額を狙って投下していたが、石頭が売りの選手に仕掛けた際に勝利を奪いながらも流血した経験からか、徐々に現在までの主流である肩口や胸部に落とすようになった。
スミスとのタッグでは、スミスのオクラホマ・スタンピード(ランニング・パワースラム)からキッドのダイビング・ヘッドバットに繋ぐのが黄金パターンであった。


  • ツームストーン・パイルドライバー

それまでは大型選手の御用達であったこの技をJr.ヘビーで流行させた張本人。
相手を抱えてから落とすまで速いのが特徴で、タイガーとの対決ではお互いに打ち合った。
また、ツームストーンの体勢から仕掛けられた側が足をばたつかせて引っくり返すといった定番の攻防もタイガーvsキッドから始まった流行である。
83年4月にはタイガーの脛椎を破壊して欠場に追い込んでいる。
キッドは、相手の胴を捉える通常のツームストーンと、相手の股の間に手を差し入れる欧州式(天山広吉のTTDと同型)を使い分けた。


  • 高速(低空)ブレーンバスター

通常は相手を上に持ち上げるブレーンバスター(バーティカル・スープレックス)と違い、小さな弧を描くようにして後ろに一呼吸で投げていくバリエーションで、これもキッドのオリジナル技。
現在はスナップ・スープレックスと呼ばれて多くのレスラーに愛用されている。
キッドの技は余りの切れ味から“剃刀”や“名刀村雨”とも評された。
雪崩式での使用(スーパー・プレックス)もあった。


  • ショルダー・ブロック

体当たり。
大型選手が使うイメージがあるが、キッドはスピードを活かして連続でぶつかる形で使用。
同じくスピードを活かして引っ掛けるようにして倒していくラリアットも使用した。


Jr.時代から得意としていたが、特にヘビー級転向後に威力が知れ渡った技。
形としては相手の片足を抱え込む(股に手を差し込む)抱え式のバックドロップなのだが、キッドの場合はブリッジを利かせて高角度で投げるのが特徴で、一度持ち上げて角度を利かせてから一息で投げ落としていく。
時として、投げたままブリッジで固めていくバックドロップ・ホールドも使用。
WWF世界Jr.ヘビー級王座決定戦ではコブラに決めて強引に勝利を奪ったこともある。
全日本参戦時に小川良成に伝授したと噂されていたが、後に小川本人により否定されている。



【余談】


  • 元夫人とは家庭内暴力を理由に離婚している。
    夫人によれば喉元にショットガンを突き付けられたからとのことだが、キッドは弾は入っていなかったと弁明している。

  • 現役当時、日本ではヒールに専念していた為に人気選手であるにもかかわらず、不機嫌なオーラを発散し、非常に気難しいイメージが付いていた。
    実際に、当時は試合前の定番であった花束嬢の花束を受け取らず、ファンからサインを頼まれても断っていたという。
    『アメトーーク』での昭和プロレス特集でも、これも当時の定番のサインボールを観客席に投げ込むのを不機嫌そうに投げている姿が紹介されているがライバルであった佐山曰く本来は礼儀正しい性格で、そうした不機嫌な様子もプロとしてヒールに徹底していた為だろうと予想されている。
    因みに、キッドにサインを頼んで断られた子供の一人にかつての小橋健太が居り、この経験を反面教師として、プロになってからはファンには優しくするように務めたという。

  • 髪型は時期によって色々だが、特に短く刈り込んでいたり坊主頭の時が知られている。
    端正ながら目付きの鋭さが際立つ風貌で、SNK格闘ゲームのビリー・カーンは、元々は当時のキッドがモデルになっている。




追記修正はダイビング・ヘッドバットで飛び込みながらお願い致します。


[#include(name=テンプレ2)]

この項目が面白かったなら……\ポチッと/
#vote3(time=600)

[#include(name=テンプレ3)]


  • 新日参戦時の感想は「良いレスラーとストーリーが揃っていて世界一の団体と言って良かったが、にもかかわらず猪木みたいなロートルが絶対的なエースとして全ての中心に君臨しているのだけが理解できなかった」 -- 名無しさん (2023-05-29 17:34:36)

#comment

*1 尚、スミスはスチュの二女(6人兄妹の5番目)であるダイアナと結婚したことでハートファミリーとは姻戚関係となっている。二人の子供がハリー・スミス=デイビー・ボーイ・スミスJr.である。
*2 ボブ・オートンJr.、ランディ・オートンの父親。

シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。

コメント

返信元返信をやめる

※ 悪質なユーザーの書き込みは制限します。

最新を表示する

NG表示方式

NGID一覧