登録日:2011/09/07(水) 22:06:32
更新日:2023/11/20 Mon 11:55:04NEW!
所要時間:約 5 分で読めます
▽タグ一覧
レーシングドライバー f1 モータースポーツ イタリア ミナルディ ジョーダン ベネトン ルノー フェラーリ セカンドクラブ 地味 苦労人 職人 童顔 富士 かませ ザウパー フォース・インディア 不二子 ジャンカルロ・フィジケラ フィジコ
ジャンカルロ・フィジケラ(Giancarlo Fisichella)(1973年1月14日生まれ)はイタリア出身のレーシングドライバー。F1では231回の出走を記録する。愛称は「フィジコ」。
- チーム遍歴
1996(R11まで) ミナルディ
1997 ジョーダン
1998〜2001 ベネトン
2002〜2003 ジョーダン
2004 ザウバー
2005〜2007 ルノー
2008〜2009(R12まで) フォース・インディア
2009(R13〜) フェラーリ
- 来歴
カートからイタリアF3を制し、DTMなどのカテゴリーを経て96年にミナルディからF1にデビュー。資金難からチーム体制は安定しなかったものの最下位争いながら奮闘を続ける。しかし持参金を持つジョバンニ・ラバッジと交代させられシートを失う。
ミナルディでの奮闘が認められ97年には中堅チームのジョーダンへ移籍。ラルフ・シューマッハとコンビを組むもシーズンが進むに連れ確執が生まれ、最後まで解決しなかった。
苦戦するラルフを尻目にフィジケラはほぼ好調なシーズンを送り第6戦のスペインGPではファステストラップを記録。更には第10戦ドイツGPにおいてはゲルハルト・ベルガーとの熾烈なトップ争いを演じる。
翌98年はトップチームであるベネトンへ移籍しさらなる飛躍が期待されるも、ルノーのワークスエンジンを失い、さらに主要スタッフが尽く離脱し戦力がダウンしたチームで苦戦。しかしながらも隙あらばポイント、あわよくば表彰台と若手ながらもしぶとい走りで活躍。第10戦オーストリアGPでは初めてポールポジションを獲得した。
しかし99年はマシンの出来以前にチームが弱体化し表彰台どころかポイントゲットも難しいシーズンになる。
2000年からはチーム体制が変化し序盤こそは好調だったものの徐々に息切れし失速。しかし着実にポイントを稼ぎランキング6位に着く。
2001年はルノーが革新的なエンジンを引っ提げF1に復帰。だがこのエンジン、なんとVバンクが約111度(当時の一般的なF1エンジンのVバンクは72〜90度)と超広角で、案の定序盤戦はトラブルでまともに走れずリタイアか下位争いばかり続いた。
だが開発が続くにつれて予選順位がアップし、第14戦ベルギーGPでは3位でフィニッシュする活躍を見せた。
すっかり落ち目になったベネトンに見切りを付け、2002年からは古巣のジョーダンへ戻る。ジョーダンと言えば前年までベネトンに代わってトップチームの一角を占めていた。しかしチームはメインスポンサーに逃げられ資金力がガタ落ち、さらにこれまでの活躍を支えてきたホンダエンジンも失い優勝どころかテールエンド争いを強いられる羽目になる。
しかし翌年の第3戦ブラジルGPでは自身も驚くドラマが待っていた。
56周目にジャガーのマーク・ウエバーがクラッシュしその破片を踏んだフェルナンド・アロンソが大クラッシュし赤旗中断。レースの3分の2が消化しレース成立。(なお、当時は赤旗終了時は消化周回数より2周前の結果を反映するルールである)
ちなみに54周目のトップはフィジケラ、2位はキミ・ライコネンだった。しかしオフィシャル側は53周目時点をレース結果と判断してしまい優勝は53周目の首位だったライコネンの手に渡った。
だが後に1位で56周目を消化したフィジケラが優勝を認められ、次戦では優勝セレモニーが行われる出来事が起きた。
その後はやはり中段争いで大した結果が出ず、翌年はザウバーへ移籍。
序盤戦はパワーステアリング非搭載のマシンに苦しみながらもやはりしぶとく堅実な走りで度々上位を狙うところまで持って行くなど、職人ドライバーとして板についたイメージが出てきた。
健闘が認められ、05年はトップチームであるルノーへ移籍。開幕戦オーストラリアGPでポール獲得から独走で優勝。いきなりの好走からシーズンを掻き回すのではと言われたが、チームがアロンソ中心にシフトしていくと徐々に精彩を欠き、トラブルやミスをしでかすなど不本意なシーズンを送る羽目に。
2006年も前年と似た(優勝も一度のみ)シーズンを送り「ベスト・セカンドドライバー」という称号を得る事になってしまった。
07年はアロンソが移籍しエースへ返り咲くがマシンとタイヤ(この年からブリヂストンのワンメイク)のマッチング、チームメイトのヘイキ・コバライネンの台頭からか地味なイメージが付いてしまいチームを追われる立場になってしまう。
シート浪人となったフィジケラはオフシーズンにフォース・インディアのテストを受け、好走を認められシートを獲得。
08年はノーポイントながらもマシンを開発し牽引する立場からチームから重宝された。
翌年も残留しノーポイントのシーズンになると思いきや、第12戦ベルギーGPで突如フリー走行から上位に食い込む速さを見せつけ、予選ではなんとポールを獲得。決勝ではKERSを積むフェラーリのライコネンに抜かれるものの2位に終わり、チーム初のポールと表彰台をプレゼントし関係者から喝采を浴びた。
そして次戦イタリアGPからはフェラーリへ電撃移籍。「諦めかけていた夢が叶った」と発言し大変喜んだと言われる。それと同時にシーズン末で引退を発表した。
しかしレギュレーションによる事前テスト禁止とKERSによる独特なマシンフィーリングからフィジケラをもってしても予選はQ2止まり、そしてポイントを稼ぐ事無くシーズンを終える事になる。
翌年はザウバーに戻るのではと噂されたがフェラーリのテストドライバーとしてチームに在籍する道を選ぶ。
度々ルマンシリーズに参戦する機会がありドライバーとしてはまだまだ健在である。
- 余談
若い頃から才能はあると言われ続けながらも、マシンの乗り合わせ等に災いし、中々浮上するチャンスを掴めなかった苦労人である。
デビュー当時から顔が童顔でよく年齢を低く見られる。
F1界で一、二を争うサッカーマニアで故郷のサッカークラブASローマの熱狂的サポーター。フランチェスコ・トッティとも仲が良い。
2006年のワールドカップ期間中、ヘルメットのカラーリングをイタリアの三色カラーにするほど熱を入れていた。
雑誌の企画で「もしあなたがF1ドライバー以外の職に就くとすれば」との問いに迷わず「サッカー選手だろう」と言った。
追記・修正お願いします。
[#include(name=テンプレ2)]
この項目が面白かったなら……\ポチッと/
#vote3(time=600,2)
[#include(name=テンプレ3)]
▷ コメント欄
- 予選で実況アナに10番手でガッツポーズ(実際は前車への抗議)と言われる -- 名無しさん (2013-09-15 17:46:51)
- 初優勝でさえケチが付いてしまうのがらしいというか(当時のジョーダンで優勝って普通はありえない事ではあるんだけど) -- 名無しさん (2013-12-25 00:04:52)
#comment
コメント
最新を表示する
NG表示方式
NGID一覧