中嶋悟

ページ名:中嶋悟

登録日:2011/02/05(土) 22:06:12
更新日:2023/11/20 Mon 11:11:00NEW!
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中嶋悟(なかじま さとる)は日本の元レーシングドライバー




生年月日/1953年2月23日
血液型/B型
出身地/愛知県岡崎市



  • チーム遍歴

1987〜1989 ロータス
1990〜1991 ティレル



  • 経歴

全日本F3、F2000、F2、GCレース、スポーツカーレースと様々なカテゴリーを出走、そしてチャンピオンに輝く。
当時国内では星野一義と幾度も争い、星野の「日本一速い男」に対し、中嶋は「日本一上手い男」と言われる。


国内の好成績を引っ提げ、1987年に34歳と遅咲きながらロータスからF1にデビュー。
日本人としてはこれが初めてのフルタイムドライバーだった。


初年度はアイルトン・セナのチームメイトに抜擢。
いきなり第2戦サンマリノGPで6位入賞し、デビューイヤーで上々の結果に。


しかし、マシンに搭載された前衛的なアクティブ・サスペンションが足を引っ張り、更にチームがセナをNO'1ドライバーにしており最後までセナの前を走る事なくシーズンを終える。



1988年にはセナの代わりにワールドチャンピオン、ネルソン・ピケが加入。しかしここでもNO'1体制になれず。
開幕戦で6位入賞し更にポイントを稼ぐかに思えたが、市街地コースでの予選落ちや不運に見舞われ、2年目のジンクスの例にハマってしまい、この年のポイント獲得はこれきりに。


更にNA元年の1989年にはホンダを失い、市販のジャッドエンジンを積むなどチームが弱体化。


中嶋をもってしても3度の予選落ち、度重なるマシントラブルでこの年はノーポイントに終わると思われた。


最終戦オーストラリアGP、集中豪雨の中レースは強行された。


予選23位の中嶋は苦手とする市街地コースながらみるみるうちに上位に着く。上位陣が雨に祟られリタイア続発というレースで気が付けば中嶋は4位にいた。


そして64周目にファステストラップ(FL)を記録。前を走行するリカルド・パトレーゼに肉薄し表彰台も見えたが、水がマシンに入り込みエンジンがミスファイヤを発生、更に2時間を経過した為にレースが中断。


しかしながら4位入賞という快挙を果たし、日本中がこの瞬間に沸き、「雨のナカジマ」伝説が誕生となる。



1990年は古豪ティレルに移籍。チームメイトは新鋭ジャン・アレジとなる。


この年の中嶋は中段を走行するのが常で、粘り強く徐々に順位が入賞圏内に入るところを当時実況していた古舘伊知郎から「納豆走法」と言われた。
マシンセッティングなどの縁の下の面でチームから厚い信頼を受け、中嶋は外国でもスターになれた。


中古のフォード・コスワースDFRを搭載し、第3戦サンマリノGPから「コルセア・ウィング」と言われた変わったフロントウィングを付けたマシン、019がデビュー。マシンはそこそこ速いもののトラブルが多発し入賞かリタイアかの年に終わる。



1991年はホンダエンジンを獲得。これには本田宗一郎氏が働き掛けたと言われている。


ニューマシン、020はシーズン前テストで好調、チームメイトにはステファノ・モデナが着き、初優勝も見えるとF1ブームに沸く日本では言われた。


しかし現実は余りに厳しいものだった。エンジンパワーこそ前年の比ではなかったが、軽量なV8からヘビーなV10に換装したことによりマシンバランスが悪化。さらにピレリのタイヤがグリップ不足、何より中嶋自身既に38歳とF1で最年長ドライバーとなっており、元々体力が少ない中嶋ではF1を操縦するのが困難になりつつあった。


そんな中、中嶋は開幕戦で5位に入り日本中の期待に応えたが、第9戦ドイツGPでこの年いっぱいでレーシングドライバーとしての引退を発表する。


前述の通りの体力不足と低いマシンの信頼性に泣かされ、以降はリタイアか完走のみが続いた。


第15戦日本GPでは中嶋を応援する日の丸や横断幕が鈴鹿サーキット全てのスタンドに掲げられるなど異様な盛り上がりを見せた。


中嶋は予選15位に着き決勝も例の「納豆走法」で着実に順位を上げ一時は7位まで上がる。


しかし31周目、S字コーナーで白黒のティレルがタイヤバリアに突き刺さっているのが場内ビジョンに映った。
…中嶋のカーナンバー、3番が電光掲示板から消えた。
その瞬間、サーキット全体が悲鳴にも似た嘆きの声が聞こえた。


サスペンショントラブルで真っすぐマシンが突っ切ってしまいどうする事も出来ずクラッシュ。マシンを降りた中嶋はおぼつかない足元でコースを横断し、ファンに手を振るとスタンドからは拍手と歓声が鳴り止まなかった。
「しょうがない。ありがとう。」とインタビューに応え、彼の最後の鈴鹿はこうして終わった。


最終戦オーストラリアGP。後にF1デビューする息子の中嶋一貴をはじめ家族や日本レース時代の恩人達も現地で応援したが予選は24位に着いた。
2年前より酷い豪雨の中スタート。「雨のナカジマ」を見せてくれるとファンは奇跡を願った。


だが、3周目フロントウィングを壊しピットに入る。そこからの追い上げに期待されたが5周目、第一シケインで縁石に乗ってしまい挙動を乱し壁に激突。


しばらくして中嶋はマシンから離れた。日本のパイオニアの激動が終わった瞬間でもあった。



引退後は国内にて、ナカジマレーシングの監督として活躍。更には鈴鹿サーキットでレーシングスクール、「SRS-F」を設立。監督として校長として、野田英樹や高木虎之助や佐藤琢磨や山本左近など後輩ドライバーを輩出している。
また、かつて所属していたティレルと提携しスポーティングディレクターとして在籍した。オーナーだったケン・ティレルは中嶋を後継者にしたいと考えていたらしいが、実現することはなかった。



  • CM

国内レースからスポンサーに着いてくれたエプソンやPIAAのCMに出演。中でもエプソンのCMはF1ファンから名作と言われる程なので一見の価値あり。
また自身が歌う「悲しき水中翼船」がCMに採用されたりした。




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