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更新日:2024/05/20 Mon 11:08:21NEW!
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小説家 探偵小説家 作家 横溝正史 金田一耕助 寧ろホラー 兵庫県 神戸市 推理作家 推理小説家 成城の先生
昭和をミステリーに変えた男
『横溝正史』(1902~1981年)は、大正~昭和後半頃まで活躍した日本の小説家である。*1
主に推理(探偵)小説の分野で活躍し、90年代までは日本の名探偵といえば真っ先に名前が挙げられていた金田一耕助を生み出したことで知られる。00年代以降ともなると、流石に孫やら頭脳は大人な子供が有名になってきたが。
本名は、字面は同じだが訓読みの“よこみぞまさし”なのだが、文壇仲間から“よこせい”の渾名で呼ばれていたので、そのまま筆名とした。
本格的に作家として活動する以前は編集者として活躍しており、8つ歳上の先輩格で、正史が専業作家として生きるきっかけを作った江戸川乱歩とは、作家と担当編集者の関係だったこともある。
作家となってからは、乱歩が花開かせた残酷ながらも美しい猟奇耽異の世界を引き継ぎつつ、同時に本格派の妙味も備えるという路線を開拓した。
日本の探偵小説とは、この乱歩と正史から引き継がれたイメージを現在でも基本とする。
社会派ミステリーが流行った時代には時代遅れと見なされたこともあったが、晩年になって角川映画を皮切りに映画、ドラマで原作イメージに近い金田一耕助を映像化するのが流行すると、その魅力的な世界観の虜となる人間が続出し、再び原作の小説や好好爺然とした横溝自身にも注目が集まった。
勳三等瑞宝章受賞。
【来歴】
■生誕~専業作家まで
明治35年(1902年)5月4日、兵庫県神戸市東川崎(現:中央区東川崎=神戸ハーバーランド界隈)生まれ。
宣一郎(父)、波摩(母)の三男として生まれる。
姉も居り、正史が末っ子。
波摩は宣一郎の後妻であり、四人兄(姉)弟の中では長兄の歌名雄のみ母親が違ったという。
正史の名は、生まれた次の日が楠木正成の命日であることから“まさし”と名付けられたとのこと。
実家は『春秋堂』という、生薬を取り扱う薬屋であった。
1920年、神戸二中(現:兵庫県立兵庫高等学校)を卒業。
元々、文学の道へと進みたいと思っていた正史であったが父親は認めず、正史に神戸高商へと進学することを命じた。
しかし、それに反発した正史は、勝手に第一銀行神戸支店への就職を決めてしまった。
……が、自分で決めたにもかかわらず、直ぐに銀行での会計係の仕事に嫌気が差してしまった正史は、今度は大阪薬学専門学校(後の大阪大学薬学部の前身)への入学準備を家族にも職場にも相談せずに進めると、翌年より同学校へと進学した。
そして、専門学校生となった1921年(大正10年)に推理小説専門雑誌となっていた『新青年』の懸賞に『恐ろしき四月馬鹿(エイプリル・フール)』を応募。
これが見事に入選し、横溝正史の名が初めて文壇に登場した。
弱冠十九歳の時の話であり、元々文学で身を立てたいと思っていただけあってか、既に確かな才能があったことが窺える。
正史は、このことで『新青年』の編集部や自分と同じ受賞者達、雑誌に作品を掲載していた作家達との交流を得たものの、その後の創作には行き詰まってしまったこともあり、この時点では専業作家になる道を選ばず、1924年に薬学専門学校を卒業すると、執筆は続けこそすれ実家に帰って薬剤師として働いた。
この頃の正史は、外国のショートショート作品の翻訳をしては、それを雑誌に掲載して貰うという、あくまで副業の小遣い稼ぎとして執筆をしていたのである。
しかし、1926年(大正15年/昭和元年)に流行作家となったばかりの頃の江戸川乱歩より、“トモカクスグコイ”との電報を受け、何事かでもあったのかと思い、東京へと急行。
当時の常識では緊急の時にしか電報なんぞは打たれなかったので、慌てて神戸から遥々とやって来たのにもかかわらず当の乱歩は平静その物で、気の抜けた顔をしている正史に対しての「久しぶりに君の顔が見たくなったのさ」という、乱歩流の小粋な殺し文句を聞いては正史も怒るに怒れなくなってしまった。
……実は、乱歩には友人の映画会社設立計画が実現しそうだというので、折角なら正史も巻き込んでの企画をスタートさせようという思惑があって以前から声をかけていたのだが、結局は制作会社その物が設立出来ずに計画はとっくに頓挫してしまっていたのにもかかわらず正史を呼び寄せたのである。
乱歩は、冗談めかして東京観光を薦めておきながら、裏ではキッチリとお詫びも用意していた。
正史に『新青年』を刊行している博文社での椅子を用意させると、正史は東京に定着すると共に、翌1927年より二十台前半の若さで『新青年』の編集長に就任して辣腕を振るうことになった。
乱歩としても、この年下の友人の才能が地方で枯れていくのを惜しんでの厚意だったのだろうし、実は正史としても専業作家となって話題作を連発していた乱歩を見て、改めて自身の創作に挑もうかと思っていた所だったのだ。
また、この年に4歳下の孝子夫人と結婚している。
因みに、上記の出来事の直ぐ後に自作への嫌悪から初めての休筆に入っていた乱歩の一年四ヶ月ぶりの復活を編集者として担当したのは正史であった。
この時に乱歩の書いた『陰獣』を、正史は編集者としても作家としても絶賛。
そして、当該作の方向性こそが、後に正史自身が完成させることになる、猟奇と耽美的な世界と、心理、物理双方に通じた本格的推理が調和した物であった。
正史は、その後も博文社で新たに創刊された『文芸倶楽部』と『探偵小説』誌の編集長も順に経験。
編集者として働く傍ら、翻訳や自身の作品も発表していた。
そして、最後に担当していた『探偵小説』が1932年に創刊から一年程で廃刊となると、博文社を退職して、漸く専業作家となる道を選ぶのであった。
こうして、専業作家となった正史であったが前途は多難であった。
先ず、前年からの持病の肺結核の悪化により、1934年7月より長野県八ヶ岳山麓の富士見高原療養所への入所を余儀なくされてしまう。
本来なら執筆もままならない程の容態であったにもかかわらず、善くても3、4枚というペースで執念で執筆を続け、3ヶ月をかけて渾身の作品『鬼火』を書き上げる。
……が、折からの情勢の悪化により、その渾身の作品も当局からの検閲を受けて発禁処分となってしまう。
結局、戦時中は公共良俗に反する探偵小説は思うように書けなくなり、正史も時代小説を書かねばならなかった。
開戦前後の1941年には正史の唯一の長編家庭小説『雪割草』を地方紙(新潟毎日新聞→新潟日日新聞)に連載する等していたものの、売れ筋の探偵小説を書けない状況が長く続き経済的にも困窮、病の治る宛も無いとで、正史も死を覚悟したという。
■金田一耕助の誕生から全盛期~休筆まで
しかし、世界情勢が漸く戦争の終結へと向かう中で、正史の運命もまた花開こうとしていた。
一家は、終戦を間も無くとした1945年4月から終戦後までの3年間を岡山県吉備郡岡田村(現:倉敷市真備町岡田)で疎開して暮らしていたのだが、戦後より結核の治療薬ストレプトマイシンが値崩れして容易に手に入るようになったことにより体調も回復してきたこともあり、戦後から再び探偵小説が書けるようになると期待を込めた確信を持って、情熱と知識を蓄えていた。
サイズも種類もバラバラの書ける紙をかき集めては執筆していたようだが、とにかく紙自体が手に入らなかったので短編に纏めたものが多く、後年に於いて長編へと仕立て直した作品も多い。
因みに、この疎開の最中に同じ岡山で数年前に起きた津山三十人殺しを知った正史は、疎開先の空気から事件を膨らませ、後年に傑作と名高い『八つ墓村』を執筆している。
そうして、終戦後より本格探偵小説を打ち出して帰って来た正史は、1948年に金田一耕助の初登場する『本陣殺人事件』を世に出し、第一回日本探偵作家クラブ賞(現:日本推理作家協会賞)を受賞する。
正史は、戦前の日本の探偵小説界を席巻した乱歩的な世界観に、アガサ・クリスティやディクスン・カー等の影響を受けた本格推理の妙味を加えた作品を連発し、金田一耕助という分身を得たことで、遂に一線を退いた乱歩に替わる日本推理小説界のエースへと躍り出たのである。
しかし、既にこの時の正史の年齢は40半ばを過ぎており、デビュー自体は異例の早さであったことを考えると、遅咲き以上に世間の事情もあったとはいえ、苦労の末に辿り着いた境地であり、地位であったといえる。
金田一は、短編時代の乱歩が本格推理を模索していた時代に描いた、初期の明智小五郎に与えた、冴えない風体ながら異常人の知識を備えた人物という属性を引き継いで登場した。
見た目の直接のモデルとなったのは劇作家の菊田一夫で、当初は名前も菊田一にしようかと思ったが流石に本人に悪いし、菊田一という変な名字は存在しないだろうと思っていた所で、響きの近い名前として、疎開前に住んでいた東京吉祥寺の一緒の隣組に、言語学者の金田一京助の弟が居たことを思い出し、名字ばかりか京助氏の名前まで捩って“金田一耕助”と名付けた。
つまり、直接のモデルでは無いのだが、関西出身の正史が耕助を東北出身としたのは、岩手県出身の京助に倣ったものと考えられる。
しかし、知己も無い相手から勝手に名前を借りたことを正史は気にし続けており、野村胡堂の通夜で本人と同席する機会があったのに、逡巡している内に機会を逃してしまった。
暫くして京助も逝去してしまったので遂に謝ることが出来なかったと後悔していた正史だったが、人づてに子息の春彦が金田一耕助の名声により、世間から自分の家の名字を正確に発音してもらえるようになって感謝していると伝えて欲しいとの言葉を伝えられて、漸く胸を撫で下ろしたと述懐している。
正史は本格派を志向しつつも、通俗的探偵小説の路線も引き継ぎ、精力的に活動。
雑誌連載も4誌同時に受け持つ等、40年代後半~50年代いっぱいは、正に横溝正史の時代となった。
■休筆~晩年の空前の横溝ブームまで
しかし、日本が飛躍的な高度経済成長を見せた60年代に入ると、探偵ならぬ本格推理小説……殊に、松本清張に代表される現代のドライな都会を舞台とし社会派ミステリーが流行するようになり、日本のミステリーの風景はガラリと変わることになった。
こうして、先祖からの因縁や土着の因習、人間のサガをテーマとしていた、以前までの通俗的探偵小説は時代遅れと見なされるようになった。
清張は、通俗的探偵小説を代表する二人の巨人の内、乱歩についてはデビュー当時の本格派を志向していた時代の作品を愛読する一方で、通俗物については文学的価値が無いとまで言いつつも、その実は通俗物についても、乱歩と乱歩に追随する模倣者では乱歩に及ぶものではないと一定以上の評価をしているのに対し、
正史の作品については“お化け屋敷”と切って捨てたと真しやかに囁かれていた。
…しかし、実際には記録に残っている清張の全ての発言でも文章でも、そのような主旨のことを言ったという事実は存在していない。*2
正史自身は、乱歩等との『別冊宝石』での座談会に際して、社会派推理小説の隆盛を“流行りもの”と切って捨てた上で、作家は必ずしも時流に合わせた作品を書く必要は無いと語っている。
しかし、後には本格推理小説が復活するにしても、清張が築き上げたリアリズムの洗礼を受けた作品で無ければならないとしている。
何れにせよ、60年代に入ると正史の活躍の場は減っていき、64年に『蝙蝠男』を書いた後は探偵小説その物の執筆自体を休止してしまった。
以降は、書店でさえ正史の棚には『人形佐七捕物帳』か、探偵物があっても、せいぜい再販本を置く程度になった。
……そんな中で、再び正史に再評価の機会を与えたのは、メディアミックスによる小説以外のジャンルからであった。
先ずは、1968年に『週刊少年マガジン』にて影丸穣也が『八つ墓村』を劇画化して、大きな話題を呼ぶ。
これを機に、70年代に突入する頃には他の金田一耕助物や、少年探偵団以外の乱歩の大人向け作品、夢野久作のチャカポコチャカポコ作品といった大正~戦後にかけての猟奇耽異を備えた探偵小説が異端の文学として脚光を浴びるようになり、劇画化や映像化に挑む人間が現れるようになった。70年代のカオスな風潮は、ある意味ではデカダンスな空気の再来だったのだろう。
1970年に講談社より初の全集が発売されると、翌年より角川書店では超怖いカバーを付けて正史の全作品の刊行に挑んだ。
これは、上記の様に正史や乱歩の作品が、折からのオカルトブームにも合致した“ホラー”としても読まれていたということを了解した上での際物(キワモノ)的な判断からであったが、この風潮は暫く続くこととなり、乱歩や正史の作品は再販される度に怖いカバーが付けられ、ホラーのカテゴリーで売られる作品もあった。
角川が本人としては駄作として封印したいと思っている作品まで刊行しようとしたことには正史も辟易したものの、実は角川は映画産業への進出を狙うに当たり、正史作品のインパクトの大きさを利用したいという思惑があったからこその数年をかけての綿密な売り出しであった。
そして、公開順では1975年のATG制作の『本陣殺人事件』*3に先を越されたものの、角川映画第一弾として、市川崑を監督に迎えて公開された『犬神家の一族』*4が空前の大ヒットとなる。
同作には正史もゲスト出演しており、その意味でも必見の作である。
更に翌年には、松竹が『八つ墓村』を映画化。*5
清張の『砂の器』の映画化で大ヒットを記録した野村芳太郎による、現代を舞台とした一見すると社会派ドラマ風の作品ながら、歴代でも最も凄惨な金田一映画となった。
更に、1977年からはTBSで金田一の扮装や演出の方向性共に角川版を引き継いだ作風のドラマ版*6がスタートと、金田一耕助は一躍、当時のドル箱コンテンツへと躍り出たのであった。
こうして、角川が主導する横溝推しは見事にハマり、本丸たる原作の方も年を重ねる毎に売上を増していき、71年の時点で累計300万部を達成していたのが各社の映画が公開された後の79年には4000万部にまで到達したという。
こうした、空前の横溝ブームの中で角川は正史に(過去の作品の発掘に留まらない)新しい仕事を依頼。
正史もそれに応え、63年に中断していた『仮面舞踏会』を73年に書き下ろしで完結させた他、短編を基に『迷路荘の惨劇』を76年に、金田一耕助最後の事件となる『病院坂の首縊りの家』を75年に、正史最後の長編となると共に、メディアミックスにも恵まれた『悪霊島』81年に刊行している。
世間のブームに胡座をかかずに70の坂を越えてからも旺盛な仕事振りにをしていることについて、正史は76年1月の朝日新聞夕刊に寄せたエッセイ(『クリスティと私』)の中で、自ら“田中先生*7には及びもないが、せめてなりたやクリスティ*8”と戯れ歌を作ったと明かしていた。
しかし、1981年の暮れ(12月28日)に結腸ガンで入院していた国立病院医療センター(現:国立国際医療研究センター病院)で死去。79歳だった。*9
また、1980年に角川により横溝正史賞が制定。
現在は横溝正史ミステリ大賞を経て、2019年からは日本ホラー大賞と統合された横溝正史ミステリ&ホラー大賞として開催されている。
【正史自身に纏わる話】
酒好きとして知られ、原稿に向かう際も酒を片手にちびちびと飲りながらホロ酔い気分で書いていたという。
また、原稿用紙は通常の半分程の大きさのものを使っていたが、これは“いっぱい書いた気になれるから”であった。
我を忘れる程に飲むことは少なかったものの、時には酩酊して夫人を困惑させることもあったと述懐している。
閉所恐怖症のケがあり、とにかく乗り物が苦手で、当時の主要な移動手段であるにもかかわらず、中でも大の電車嫌いであったという。
当人で、一種のアル中であると自己判断しているにもかかわらず、電車に乗る時には首からかけた水筒に入れた酒をちびちびと飲りながら気を紛らわさねばならず、夫人と一緒に乗る時には常に手を握っていて貰わなければダメであったという。
先輩格の乱歩と同様に、後輩に対しては非常に面倒見のいい性格であったようで、晩年の空前の横溝ブームの中で各方面への露出が増えても、全く偉ぶらない温厚な人柄は多くの人々に親しまれた。
作家の森村誠一は、乱歩と正史は後進や新人に非常に温かいが清張は全くの逆、しかし、自身の作品しか見つめていないという意味では清張の態度こそを見習わなければいけないと語っている。
疎開していた当時には、作家として村の人達と一定の距離を置こうかとも考えていたともいうが、人柄からか村の人達にも好かれ、縁側で大勢と談笑することもあった。
一方で、前述の様に疎開していた頃の正史は戦後の推理、探偵小説の復活を見据えて煩悶していた頃でもあり、密室殺人の大家であるジョン・ディクスン・カーの著作を買い込んで来るべき日の蓄えとしていた。
そして、自身の執筆中に気持ちが昂ったり、反対に行き詰まったりした時には着の身着のままで外に飛び出して村を彷徨き回ったりという奇行も見せており、その時には村の人達も怖くて話しかけられなかったという。
余りに異様な雰囲気だったので、正史が出ていった後で夫人や子供達が田んぼの畦道だったり、用水路なんぞに嵌まっていないか探しに出ることもあったという。
また、散歩の他には編み物で創作のストレスを解消する癖もあった。
父親に逆らい勝手に就職先や進学先を決めたりと、当時としては非常に大胆な行動をとっている反面、他人と争うのを畏れる性格で、前述の金田一耕助の名前を決めるのに迷った話の他、映画の空前のヒットとなった『犬神家の一族』でのキーアイテムとして、歌舞伎に於ける音羽屋・尾上菊五郎の役者文様に由来する“斧・琴・菊”を用いた時にもクレームが来ないかビクビクしていたと語っている。
昭和モダニストの嗜み程度と断ってはいるがクラシック音楽を好み、テーマとしている作品がある。
その甲斐あってか、長男の亮一氏は新聞記者を経て音楽評論家の道へと進み、急逝直前のバリトン歌手の大橋國一氏と正史との対談をセッティングしている。
【主な代表作】
活動期間が長いだけに金田一耕助の登場してくる作品だけに限っても77作と非常に多いが、長編に限れば27作、更に映像化されたものは半分以下の11作のみだったりする。
金田一物の中でも特に評価が高いのは地方を舞台とした作品で、正しく映像化された作品の原作の殆どが該当する。
読み始めるのならば、矢張り『本陣殺人事件』からだが、先ずは映像化作品と同じタイトルから原作に入ってみれば確実だろうか。
前述の様に金田一耕助が誕生したのは戦後からだった訳だが、戦前となると『新青年』に連載され、乱歩に絶賛された『真珠郎』があるが、映像化の際には何れも探偵役が金田一に改編されている。
また、坂口安吾からは『蝶々殺人事件』が絶賛されている。
現代を舞台とした探偵小説以外では、時代小説の『人形佐七捕物帳』シリーズは、本格推理の要素も含む、正史自身もシリーズ纏めて代表作として挙げていた程の自信作である。
因みに、正史自身が幾度かの自選ベストの中で挙げたことがあるのは以下の作品。
■金田一耕助物
『本陣殺人事件』
『獄門島』
『悪魔の手毬歌』
『八つ墓村』
『悪魔が来りて笛を吹く』
『犬神家の一族』
『仮面舞踏会』
『三つ首塔』
『女王蜂』
『夜歩く』
※ただし、文庫の売れ行きが良かったというだけの理由の物(下の三つ)も含む。
■金田一以外の探偵物
『蝶々殺人事件』
『真珠郎』
『蔵の中』
■時代小説
『人形佐七捕物帳』シリーズ
『髑髏検校』
この他にも短編『百日紅の下にて』も挙げているが、ある理由から上記の分類からは外している。
【余談】
- プロ野球では近鉄バファローズの大ファンであった。
- 東京都世田谷区成城にあった正史の書斎は山梨県山梨市に移築され、2007年3月より『横溝正史館』として一般公開されている。
乱歩よりの送られた自筆の書簡が掲げられている他、正史の自筆原稿、愛用の品が展示されている。
追記修正お願いします。
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▷ コメント欄
- ?「百日紅の下にて」は金田一ものでしょうが? -- 名無しさん (2020-06-27 17:33:50)
- ↑それ自体が肝心な所のネタバレなので……。 -- 名無しさん (2020-06-27 17:38:30)
- もし横溝センセが全く同じ素材を与えられて「砂の器」を書いたら、例のヌーボー・グループは全員「少々とんがってはいるが愛嬌者の集団」として描かれたんじゃないかと思ってる。ガキの頃から辛酸をなめて育ってモダニズムに不信感を持ってた松本センセとは対照的に横溝センセは昭和モダンの旗手で若者文化にも結構寛容だったからね。 -- 名無しさん (2020-06-27 17:48:28)
- ミステリーではあるのだが同時にホラーというかサスペンスと言うか。読んでて背中がゾクゾクするような怖さがあって、それがまた魅力。 -- 名無しさん (2020-06-27 21:18:09)
- ブック◯フとかの古本屋へ行くと、必ず一冊くらいはあの怖い表紙絵の角川文庫あるよな…(笑) 古本マニアとしては好きだけど。 -- 名無しさん (2020-06-27 22:06:39)
- 人情味や暖かみが感じられて好きな作家。 -- 名無しさん (2020-06-28 19:53:37)
- 例の「仮面舞踏会」が完成までに12年もかかった件、表向きは「病気のため『宝石』での連載続行が不可能になったから」となってるけれど、一説には一読者からの心無い当初に横溝センセが死ぬほど怒ってそれきり執筆意欲をなくしたから…ともいう。あくまで噂の域を出ていないけれど、そういうこともあったかもしれない。 -- 名無しさん (2020-07-05 11:20:20)
- ↑すいません。「当初」は「投書」の誤字です。大阪のある古本屋に行けば当時の『宝石』誌が買えるけど、大阪のコロナが実態はどうなのか不確定なのであまりお勧めは出来ません。早くワクチン開発してくれ… -- 名無しさん (2020-07-05 11:23:53)
- ↑2 執筆時期的には社会派ミステリーの流行でイキりちらした信者が凸した可能性がありますな。今風に言うと。 -- 名無しさん (2020-07-05 12:43:20)
- この人が「ABC殺人事件」を時代劇に翻案した「羽子板娘」や「オリエント急行殺人事件」をこれまた時代劇に翻案した「百物語の夜」に満足してしまい、いまだにクリスティーの原典は読んでいない… -- 名無しさん (2021-02-13 22:08:52)
- 日本の風土を生かした本格ミステリーっていうのが実に良いと思う。文体も読みやすくて好き。 -- 名無しさん (2021-02-18 23:22:02)
- 読んでて後ろからぞわぞわする感覚の文章が本当に上手い。ちなみに映像化された作品でちらっとゲスト出演していることがあったり(本当にチョイ役) -- 名無しさん (2021-02-18 23:51:22)
- おい角川書店!今朝(4月24日)の文庫新刊広告に『雪割草』が載っとらんじゃないか‼やる気あんのかテメエら‼ -- 名無しさん (2021-04-24 15:36:09)
- 復刊された「びっくり箱殺人事件」、さすがに初版から40年以上たったので裏表紙では真の探偵役が明示されているけど、宣伝帯を見ると相変わらず等々力警部が解決した事件みたいに書かれているので「何とかせェよ」と思ってしまう。 -- 名無しさん (2022-01-21 16:57:22)
- 館シリーズの綾辻行人先生は江戸川乱歩は乱歩さんって呼ぶけど横溝正史は横溝先生とか先生って呼んでるって言ってたな -- 名無しさん (2022-01-30 08:28:16)
#comment(striction)
*2 このような話が罷り通っていた理由の一つには1957年の清張と評論家の荒正人による論争があり。この中で荒は清張の文章自体が名前を伏せた横溝批判になっていると主張している。
*3 若き中尾彬がジーパン姿の金田一を演じたことで知られる作品で、歴代でも特に型破りなれど大ヒット作となった。
*4 巨額の予算も投じて、初めて原作通りのヨレヨレの着物と袴のスタイルで登場した金田一で、二枚目俳優が演じたことも含めて、以降の金田一像に大きな影響を与えることになった。
*5 寅さんこと、渥美清が冴えない見た目ながら飄々とした推理を披露する歴代でも異端の金田一を演じていることで有名だが、正史自身は“最も自分のイメージに近い金田一”と太鼓判を押している。
*6 古谷一行主演。シリーズ自体は2シーズンで終了したが、スペシャル枠のドラマは00年代まで制作された。
*7 平櫛田中は日本の彫刻家。この時点で103歳で何と現役。結局、108歳で大往生となったが、死の間際まで創作を続けていた。
*8 アガサ・クリスティは英国の女流ミステリー作家。“ミステリーの女王”と呼ばれ、正史も憧れた存在。新作に限れば82歳まで現役で執筆を続けたことも驚異的であった。
*9 因みに、没年と執筆を止めた年齢こそクリスティには及ばなかったものの、正史の活動期間は19歳のデビューから数えて丁度60年となり、クリスティよりも上回った。
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