「バレンタインが過ぎてしまった……」
二月十八日、午後三時過ぎ。内垣真善は、一週間の遠征任務を終え、見知った土地へ向かう輸送車に揺られていた。遠征に参加した潜夢士たちは、そのほとんどが疲弊していたが、彼女はそうではなく、独り言を呟いて難しい表情をしていた。
輸送人員スペースには深層級の内垣と、賓客のヴィドとウミガメしかいない一号車に気まずい沈黙が訪れる。車内のベンチに前傾で着席し、膝で肘を支える体勢のまま固まる内垣に対し、ヴィドはなんと声を掛けようかと珍しく迷っていた。
この傭兵派閥『デイドリーレイダース』に所属するプロイヴィド、愛称ヴィドは、フィクサーの通り名に違わず、非常に頭が切れる女性である。同派閥内では大小の依頼の元締めをしており、派閥を跨いで傭兵界隈では名の知れた人物なのである。トラブルが発生すれば、それが日常であれ戦場であれ、巧みな話術と手腕で切り抜けてきた事は、側近のウミガメも当然よく知っていた。
だからそのヴィドが言葉に詰まるという事は、よっぽど驚くべき事が起きたという事なのだ。
話の聞きに回るヴィドを横目に見ながら、その正面の席で項垂れる女性を見た。
内垣真善、二十八歳。
特殊心理対策局、実働部隊の中でも精鋭とされる『獏』に所属する深層級潜夢士。
温厚で面倒見がよく、仕事に真面目だが、その働き振りはいわゆる社畜の区分である。日常では困ったように微笑む表情が印象的だが、一歩戦場に出れば悪夢とローグを抹殺するだけのマシーンと化す。
そのせいか、その年齢でも浮いた話は無く、周囲には恋愛とは無縁だと思われていた。
が、ヴィドとウミガメは知っている。彼女が一人の部下の事がどうにも気になっている事を。
平尺甚三郎、二十一歳。
内垣と同じく獏に所属する境界級潜夢士。
根っからのポジティブさで気の良い男。犬気質で気が散りやすいが、肝が据わっている。直属の上司である内垣を慕っており、彼女の命令ならば迷わず従う。
しかし──バレンタインが過ぎた事で内垣がそこまで落胆するのは、やはり意外な事だった。
ヴィドは頬杖をついて考え事をしていたが、ようやく言葉を発した。
「あー……、誰かに渡す予定でもあったのか?」
顔を上げた内垣は、困ったような恥ずかしそうな表情で言った。
「はい……」
ふんふん、とヴィドは頷いたあと、核心を突いた。
「誰に?」
問いに対する答える事に、内垣は少し迷いを見せた。
ヴィドは畳み掛けるように続ける。
「アンタがよければ、オレらも手伝うぜ」
ヴィドがオレ"ら"と言った事にウミガメは一瞬目を見開くが、まあそうなるだろうなと目を閉じた。
だが、その一押しにより内垣は先ほどの問いに答えた。
「誰かは……、内緒です。すみません」
内垣の答えに、ふっ、とヴィドは笑った。
「ま、いいさ、謝らんでも。もうブツは用意できてんのか?」
その問いに関して内垣は即答する。
「まだです……」
ヴィドは「だろうな」と待ち構えていたように言う。
「帰ったらチョコ作りからかね。どちらにせよ、動くのは明日からになるだろうが」
内垣はヴィドの言葉に、唇をきゅっと結ぶと、絞り出すように言う。
「なぜ、そこまで?」
語気はか弱いが、その言葉は、茶化されや揶揄いを警戒する殺気を帯びていた。
ヴィドは内垣に物怖じせず、不敵な笑みで言う。
「オレの好奇心だ」
「好奇心、ですか」
「ああ、今のアンタに興味が湧いて、手を貸したくなった」
無遠慮なヴィドの言葉には、偽りはないと内垣は判断し、こうべを垂れる。
「……ありがとうございます。よろしくお願いします」
提案を受け入れた内垣の言葉に、ヴィドは、ふふん、と笑う。
「心配しなくても、他人に言ったりしねえよ」
内垣はヴィドの言葉に、にっこりと微笑んで言う。
「それは心配していません。ヴィドさんの口の堅さは信用していますから」
ヴィドと内垣は、お互いに笑い合ったあと、おもむろにウミガメを見る。突然注目されたウミガメは、驚きと並行してすぐに宣誓した。
「わ、わわ私だって秘密は漏らしませんよぅ!」
翌日。
お互いに非番の内垣とヴィドは、デイドリーレイダースの食堂にあるウミガメの厨房で集合した。
ウミガメは、いつもオドオドした雰囲気を纏っているが、その実は強かな生ける夢であり、料理の心得がある。彼女の作る食事は派閥を跨いで大変好評であり、その為だけに他派閥から食堂を訪れる者もいるほどである。
つまり──バレンタインのお菓子作りを主導する役に適任なのだ。
エプロンと三角巾を装備したヴィドが、内垣に言う。
「ここなら大抵の材料は揃ってる。まあ、どうしても無けりゃあ買いにいけばいいしな……」
困ったように微笑む内垣とヴィドの間で、ウミガメが気持ちを引き締める。
「予めメニューが分かれば良かったんですけど」
「まあそう言うなって」
ヴィドはそう言って笑うと、内垣に尋ねる。
「普通にチョコレートを作るのか?こう、既製品を溶かして固めて……、みたいな」
内垣は、ふうむ、と考え込んだ後、説明を始める。
「揚げたパンの耳が、好物なんですよね」
「アンタが?」
「違います。その、彼がです」
会話に参加せずに、調理器具などの調整をしていたウミガメが口を挟む。
「チョコレートに拘らず、それに近いものがいいんですね?」
「はい。そうしたいなと」
パンの耳、パンの耳……、と考え込んでいたヴィドが笑って言う。
「揚げたパンの耳が好きなら、揚げたパンの耳がベストなんじゃねえの」
ヴィドの冗談にウミガメが素早く反論する。
「んもーそういうことじゃないですよぅ」
「わーかってるよ。贈り物の材料としては安っぽいもんな」
何か書き物をしながらウミガメは続ける。
「ヴィドさんだって昔はお世話になったでしょう。パンの耳」
「ふっ、うるせえよ」
軽快に冗談を交わす二人を微笑ましく見ていた内垣が、思いついたように提案する。
「ラスクとかどうでしょう」
ウミガメは、うんうん、と頷いて答える。
「ラスクですかぁ。いいですねぇ」
「材料は大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよぅ。フランスパンと無塩バターと、お砂糖くらいですし」
ふむ、と少し考えたあと、ウミガメが現場の指揮を始める。
「私と内垣さんで材料を取りにいくので、ヴィドさんはレンジにシート敷いておいてもらっていいですかぁ?」
「シート?」
「オーブン用シートですよぅ。電子レンジのターンテーブルの上にお願いします。パンの水分を飛ばしますんで」
「はいよ」
「お願いします」とヴィドに頭を下げる内垣の手を引き、ウミガメは食糧庫に向かう。
庫内には過剰とも思えるほどの多種多様な食材が保管されており、それぞれに番号が振られている。
「すごい量ですね。……これ全部消費期限内で捌けるんですか?」
「そうですよぅ。不足する時もあるくらいですしぃ」
ウミガメは少し得意げなりながら、材料を手に取っていく。
「バゲットにしましょうか。余って少し硬くなったやつ……」
彼女はそこまで言って、はっと内垣を見る。
「少し硬くなったやつの方が適してるんです。在庫処理しようとか微塵も思ってないですよぅ」
何も言っていないのに早口で弁明するウミガメに、内垣は思わず小さく噴き出してしまう。
「そんな事、思ってないですよ。材料選びは料理の先生にお任せしちゃいます」
「料理の──先生」
内垣の言葉に気をよくしたウミガメは、俄然やる気を出して食材を選んでいく。
必要な分の材料を運び出し、厨房のテーブルに並べていく。
(ウミガメ曰く硬くなった)バゲットのハーフと、無塩バター。それとグラニュー糖だ。
二人が材料を選んでいるうちに、ヴィドは役目を果たしたようで、電子レンジにはシートが設置されている。
「これでいいか?」
「完璧ですぅ」
ウミガメは指で輪っかを作ってヴィドの仕事を評価すると、三角巾を再度きつく締め直す。
「さて、始めましょうかぁ」
「おう」
「了解しました」
ウミガメが内垣とヴィドに指示を出す。
「内垣さん、パンを厚さ一センチ程度で輪切りにしてください。ヴィドさんはオーブンを130℃に温めててもらっていいですかぁ?」
「一センチですね」
ヴィドがオーブンを温めに向かうと同時に、内垣はパンのスライスを始めた。元より料理に慣れた内垣にとって、この工程はたいして難しくはなく、ウミガメが見ている横で手早く工程を完了する。
内垣がパンのスライスを終えると同時に、ヴィドもオーブンのセットを終えて戻ってくる。
ウミガメがヴィドに言う。
「手こずりました?」
「家で使ってるポンコツと違ぇからよ」
ふふ、と上機嫌なウミガメは、次いで内垣に電子レンジに敷かれたシート上にパンを並べるように指示を出す。
「レンジのシートに並べたら、一分から一分半加熱してください」
「了解です」
「んで、たまに指でコンコンと叩いてみて、硬くなったやつから取り除いてくださいね」
「ヴィドさんは、暇ならバターを二十グラム耐熱容器に入れて、ラップしといてください」
「あいよ」
フランスパンの水分抜きが終わったタイミングで、ヴィドが用意したバターを電子レンジで加熱し溶かす。
「じゃあ、ハケを使ってパンの表面にバターを塗ってください。片面でいいですよぅ」
ウミガメ自身は二人に指示を出しながら、グラニュー糖を器に準備する。
「塗れました」
「オレも」
「お砂糖を準備しておきましたので、バターがついた面にまぶしてあげてください。はい、スプーン使って」
最終工程として、あとは焼くだけのフランスパンを、オーブンの天板に並べていく。
「お砂糖の面は上ですよぅ」
「わかってる」
全て並べ終えたあと、ウミガメはオーブンを蓋を閉め、百三十度設定でツマミを捻る。
「だいたい十五分くらいですねぇ」
「お疲れ様でした」
労いの言葉を言う内垣に、ウミガメが向き直る。
「まだ終わってないですよぅ。ここで油断して下手打ったら最初からやり直しですぅ」
「は、気が逸ってしまいました」
申し訳なさそうに笑う内垣に対し、先生風を吹かすウミガメにヴィドは笑いを堪える。
が──ウミガメの料理に対する技術と熱量は本物だ。先生"風"というのは不適切かもしれない。
たわいない雑談を交わしているうちに十五分はあっと言う間に経過し、タイマーの音に急かされて蓋を開く。
オーブン内を確認するウミガメに続いて、内垣とヴィドも彼女の両側から焼き加減を確認する。
「いい焼き色ついてますねぇ」
「ついてますねぇ」
「ついてるねぇ」
ウミガメは焼き上がったラスクをオーブンから取り出し、仮置きの皿に移す。
内垣は、完成したラスクをまじまじと見つめる。
「ちゃんと美味しそうでしょう?」
「はい。本当にありがとうございます……」
「箱はな、こん中から好きなの選びなぁ」
少しの間姿を消していたヴィドが、カラフルな包装紙や箱の束を机に並べていく。
「カレの好きな色とかわかるか?」
内垣は甚三郎から聞いた彼の好きな色を思い浮かべる。
「黒……」
「黒かぁ」
ヴィドがゴソゴソと荷物を漁り、可愛らしい模様で彩られたものの中から、黒地に金の装飾が施された渋い柄の包装紙を取り出して見せる。ウミガメは、じっ、と包装紙を見つめて言う。
「バレンタインですよぅ?」
「カッコ良過ぎかな?」
「いえ、凄くいいと思います」
内垣がそう言うと、ヴィドとウミガメは彼女に振り返る。そして、お互いを見合って頷く。
「よっしゃ。梱包なら任せときな。レクチャーするからよ」
「ヴィドさん、ラッピング得意なんですかぁ?」
「まあな」
Tips:ヴィドは運び屋をしていた時期がある。
ラスクをビニールでパッケージした後、内垣が選んだ箱に詰め込めるだけ詰め込み、最後にリボンで飾る。
こうして完成したバレンタインの贈り物は、ウミガメの手から内垣に手渡された。
「きっと喜ばれますよぅ」
「ありがとうございます」
「しっかりな」
「はい」
内垣はヴィドとウミガメに深々と頭を下げ、厨房を後にする。
デイドリーレイダースの厨房から内垣が出て来た事に、一部のレイダースは不思議そうな顔をした。
普段ならば会釈の一つでも返すところだが、今日の彼女は一顧だにせず甚三郎の元へ向かう。
バレンタインを超過したところで、彼は何も文句は言うまいが──それどころか贈り物を貰えるとすら考えてはいないだろうが、ひとえに内垣のプライドが足取りを速くさせた。
内垣が甚三郎が借りている部屋の呼び鈴を押すと、ものの数秒で玄関のドアが開け放たれる。
「内垣さん!こんにちは!!」
「こんにちは」
「どうしたんですか!いや、どうもしなくても会えて嬉しいっす!!」
甚三郎が犬ならば尻尾を全力で振っているのであろう。内垣は甚三郎を一旦制止して言葉を絞り出す。
「あのですね」
「はいっす!」
「遅れ馳せながら、バレンタインです」そんな堅苦しいセリフと共に贈り物は手渡される。
受け取った彼の反応は想像に難くなく──落ち着かせたところで内垣の任務は完了した。
残った唯一の問題は、彼のバレンタインデーに対する認識が十九日になってしまった事だろう。
翌年は遅れないようにしようと、内垣は密かに心に誓った。
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