August 21th 20██ AM10:00 ロシア連邦 首都モスクワ
藍司は任務でロシアに来ていた。いかに特殊心理対策局といえど、一介のダイバーが他国にわざわざ出向くのは異例なことだ。彼自身もそのことはわかっていた。それでも尚出向かねばならないのは、彼が単独で管轄したローグダイバーがロシアに高飛びしたからに他ならない。更に突き詰めればロシア語がある程度理解できるダイバーの中から藍司に白羽の矢が立ったのだった。
「クレムリンが見えると、一気にロシアに来たって感じがするねえ」
もう何年も使っていない遠出用のトレンチコートを羽織ってモスクワの街をぶらついていると、異国情緒に胸焼けする気がした。計画の第一段階として現地のダイバー組織とコンタクトを取ることになっていた。早く日本に帰るためにも彼は件の建物を目指して歩いた。
「失礼します」
藍司が厳重な警備体制が敷かれた部屋に歩みを進める。周囲に立つスーツ姿の護衛たちは彼に対し好奇とも怪訝ともとれる視線を向けている。
(居づらいな)
ここはモスクワに存在するロシア連邦軍の施設のひとつである。周囲はロシアの軍人やエージェントばかりで、日本人の藍司の存在はかなり浮いている。部屋の主である壮年の男性が着ている軍服の階級は大佐を表している。
「特殊心理対策局、奇書院から派遣されました。ペインラヴァーです。以後宜しくお願い致します」
「担当官のブルコフです。よろしく」
じっとりとした微笑みを浮かべ、握手を求めたブルコフに応じる。
「日本語がお上手ですね」
「Спасибо. 事情は把握しています。日本から我が国へ逃亡したБандит…そちらだとローグダイバーと言うんでしたね。それを”どうにか”したいとか」
「ええ。身柄の引き渡しが可能ならば、それが……早いんですが」
「私もそうしたいのは山々なのですが、犯罪者と言えど同国人なもので。条約上クレムリンが許可しないのですよ」
「理解しています。だから僕が来ました」
藍司がそういうとブルコフは彼の前ではじめて本心から笑みを浮かべた。
「頼もしい限りだ。……ときに貴方━━ Выговоритепо-русски?」
彼は流暢な日本語とわざとらしく教科書的なロシア語で藍司と会話をした。
「あー……Немножко…」
「十分お上手です。不安になることはないですよ。日本語が話せる者をバディとして用意しました。資料も預けてあります。詳細はベネディクトフに聞いていただけると」
「Спасибо.ロシア語にはあまり自信がないので助かります」
彼は大佐に礼を言って部屋を後にすると、バディと呼ばれるダイバーのもとへ案内される。
(ロシアのダイバーかあ。ボディビルダーみたいなおじさんかなあ)
部屋へ向かう途中の廊下でもやはり通りすがる現地のダイバーらしい人たちに噂されているような気がした。そんな空気を感じた藍司は案内役に尋ねた。
「あのお。日本人のダイバーって、ここじゃそんなに珍しいんですか?」
「Что?」
「あ……、なんでもないです。Ничего.」
ポーターは彼に怪訝そうな表情をしたが、すぐに前を向き直して部屋への案内を続けた。
(母国語がほとんどの場面で通じないっていうのは、なんだか歯車が狂うな)
彼がそんな風にぶつぶつ呟いていると、バディの部屋の前に到着する。ポーターはカートから荷物を降ろすと、早口のロシア語で定型文らしい言葉を言い捨ててお辞儀をし、もと来た廊下を戻って行った。
藍司はポーターに対し眉をひそめて指定された部屋のドアの前に立つ。
(難しい人物じゃなけりゃいいが)
祈りを込めて彼はドアをノックした。
が、しばらくしても返事はない。まいったな。と思いながら頭を掻く。
するとドアに掛けられたボードに目がいく。
“Играя в видео игры”
(遊んでて気づいてないってことか?)
藍司がドアノブを捻ると鍵が掛かっていないことがわかる。彼は小声で「お邪魔します」と断りを入れて部屋に入る。
電気がついていない壁を指でなぞり、部屋の構造をなんとなく見ながら奥の部屋へ向かう。床には衣服が散乱している。中には女性モノの下着も含まれている。カチカチとクリック音が聞こえてくる方に足を進めると、明かりが点いている部屋がある。
(あそこか)
足の踏み場もなく散乱した衣服を抜き足差し足で避けつつ部屋に顔を出すと、VRゴーグルをつけたまま身体を左右に傾けてテレビゲームに熱中する女性の姿が見えた。タンクトップから覗くうなじと、照明に照らされて輝く薄金色の髪が印象的だった。
彼女に見惚れていたわけではないが、足元への注意が散漫になっていた藍司は洗濯物の束に右足を突っ込んでしまう。それと同時に何かに足を挟まれた感覚がした。彼は「うおっ」と声を上げて足を振り上げる。見るとおもちゃのトラバサミが足に噛み付いていた。ほっと胸を撫で下ろす。
「ああ……はは。本物だったら僕の脚は━━」
藍司は言い掛けて正面に目をやると、部屋の主である女性はVRゴーグルを外しゲームを中断して彼をじっと見つめていた。藍司はばつが悪そうに愛想笑いする。
「━━千切……れて、た。あはは、……Привет…?」
「Ктоты?」
金髪碧眼の女性は大きく首を傾げ、気怠そうな瞳で藍司を見た。
彼はおもちゃのトラバサミを外し、襟を正して問い掛けに答えた。
「Меня зовут аисию」
「японский язык.日本語わかる。それなりに」
「それは助かる。君が随伴してくれると聞いた。宜しくお願いするよ」
「ズイハン?」
「ああ、ごめんよ。随伴。ついてきてくれるとか━━そういう意味かな」
「ふうん」
そっけない態度であしらう女性に少し戸惑いつつ藍司は続けた。
「大佐が、作戦の詳細は君に聞くように言ってた」
「Да да.わかったって。アイシュ?」
「アイシ・ユウだよ。君は?」
「ゾーヤ・ベネディクトフ。ゾーヤって呼んで」
「ゾーヤ。作戦の詳細を教えてくれるかな」
「В ногах правды нет」
「なんて?」
彼は流暢なロシア語を聞き取れず目を細めた。それを見た彼女は床を軽く叩いた。
「座ったら?って。服は適当にどかしていいよ」
「あ、ああ」
藍司はゾーヤに言われるままその場に腰掛ける。彼女はゲーム機の電源を切って身体ごと彼の方に向き直った。胡坐をかいて指を組み、前のめりの体勢で藍司に尋ねる。
「日本から逃げて来た悪い奴を追ってるんだってね」
「モスクワ観光のついでにね。そっちはもうお腹いっぱいだから、仕事が終わったら日本に帰るよ」
彼の言葉に息を吐く。
「ちょっと遅かったね。悪い奴はイジェフスクに行ったみたい」
「イジェフスク?」
藍司が訪ねるとゾーヤは書き込みだらけの地図を取って広げて見せた。
「見て。ここがモスクワ。……んでここがイジェフスク。ドモジェドヴォ空港からだいたい600マイルくらいかな」
「空路か……。頼んだら大佐は手配してくれるかな?」
彼がそう言うと彼女は一枚のチケットを得意げに見せる。
「もうここにある」
テンポの良い展開に藍司は気をよくした。
「気が利いてるね。でも一枚?もしかしてカップル券とか?」
「チケットは私の」
その言葉を聞いてしばらく彼は意図を飲み込めずにいた。そうして結局答えに辿り着けず、ゾーヤに尋ねた。
「僕は?」
藍司の問いに彼女は含み笑いで答えた。
「コンテナ」
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