私たちにとってなんでもない日が過ぎようとしていた。空は黄昏に染まり、窓の外では下校と告げる鐘の音と子供たちの声が聞こえてくる。同居人のデザートレイドは子供たちの声が耳障りだとよく愚痴を零しているが、私は子供たちの遊ぶ声は嫌いではない。というよりは、彼と窓際でラウンドテーブルを挟み対面で椅子に腰かけて薄いコーヒーを啜るこの時間が、私は好きなのだ。そんな気持ちを知ってか知らずか、彼は毎日欠かさずこの時間にこの椅子に腰かけてコーヒーを啜る。そうすると彼は決まって昔の話をする。
「痛むか?」
━━私は仰向けで目を見開き、まるで陸で溺れていたかのように必死で息を吸い込んだ。酸素が漸く脳に行き渡り思考がスムーズになる。
眼前で彼が私の胸に手を置いて、安堵の表情で私を見下ろす。
「焦らせてくれる」
そう言うと続けて「立てるか?」と私に手を差し伸べた。私は彼の手を借りて立ち上がるが、鈍痛と立ち眩みで膝を着いた。痛みの原因を探して身体中を弄ると、布の質感に違和感を覚える。どうやら腹に包帯が巻かれているようだ。そこを触ると激しい痛みを感じた━━
私はあのときと同じように脇腹の古傷をさする。するともう痛みこそ感じないが今でも島の情景を思い出すことができる。そのときに郷愁にもどこか似ている感覚が鼻腔を抜けていくのだ。
「痛みはしないさ」
私はいつものように薄く微笑んでぶっきらぼうに答える。すると彼は「そうか」といつもと同じ返事を返す。
「ただ、懐かしく思うだけだよ」
そう言って私は煙草を二本取り出して一つを咥える。すると彼はジッポーライターを出して火をつけてくれるので、私はいつもの位置に頭を据えて煙草を突き出しているだけでいい。すると彼は必ず決まり文句を言う。
「まるで雛鳥だな」
「言ってろ」
そこで私は気にせず彼の唇に新しい煙草を差し込む。煙草をふかしている間は、しばらく無言の時間が続く。次に静寂を破ったのは彼だった。
「フリーランスってどうなんだ」
彼はこちらには目を合わせず、窓の外を眺めながらそう言った。
「アグロのことか?」
私がそう尋ねても彼は答えなかったが、私は前の問いに答えることにした。
「名声に実力が伴えば儲かるんじゃないか」
彼はうんうんと小さく頷くと、灰皿に小さくなった煙草を押し付けた。
「お前はどうなんだ。マール」
「私?」
予想だにしていなかった切り返しに声が若干上ずる。彼はそのまま続けた。
「お前は賢いし腕も立つ。古巣に忠義立てし続けるのもどうなんだ」
「ふむ。”どう”とは?」
「あのな。俺の趣味に付き合ってたらいつか巻き添えで死んじまうぞ。俺はお前と違って”選んで”鉄火場渡り歩いてるんだからな」
「知ってるよ」
私がそう言うと彼は前傾に寄ってくる。
「知ってるよじゃない。とどのつまりはな、”お前の立場”はなんなんだってことだ」
「お前の”趣味の戦い”についていく、私の立場か?」
「そうだ」
私は煙草を灰皿に擦り付け一直線に彼の目を見つめる。
「━━お前はどうなんだ?レイディー」
「感謝はしてる」
「感謝、ね」
彼の殊勝だが他人行儀な言葉に私は少し気を悪くした。
「私はお前の我儘な戦いに一生付き合ってやろうと思ってる。お前が心底脳みそが痺れるような戦いで死ぬ日まで」
「おうおう。ありがたいことだがな、お前の人生はどうなる。お前が俺と違って戦いが好きなわけじゃねえのは知ってるぞ」
私が「人生?」と訊き返すと、彼は身を乗り出して言葉の続きを待った。
「私はお前に命を救われた。私の命はお前のものだ」
私のその言葉を聞くと、彼は疲弊したように背もたれに寄り掛かり、額を片手で覆って眉間に皺を寄せた。
「信じられないか?」
「信じるとか、信じないとかじゃねえよ。俺は嫌なんだ。これ以上俺の趣味に”親友”を撒き込んじまうのは」
彼が思い悩んでいる対面で私は顎に手を当てて考えを巡らせた。
「なるほど”儀式”が必要か」
私がそう呟いた声が彼には聞こえていなかった。きっとそれどころじゃなかったんだろう。私は彼の目の前にミルクの空ボトルを突き出した。
「この話は一旦終わりにしよう。━━ミルクが切れた。悪いが私の寝室の冷蔵庫から取ってきてくれないか」
「自分で取ってこいよ。そんなもん……」
彼は不満そうな顔をしたが、立ち上がって指示通り寝室に向かっていった。
そして私はすぐに彼の後を追って寝室に彼を押し込んだ。
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