今日は2月14日。来るべき学生たちの聖戦の日だ。
俺は登校時も下校時も狂ったように下駄箱のロッカーをカパカパする。
チンパンジーにボタンを押すと餌が出る条件付けを覚えさせると、例えもう餌が出なかったとしてもそれを延々と繰り返し続けるのは聞いたことがあるだろうか?今日の俺はまさしくそれそのものだった。
『本命チョコ』という餌を求めて下駄箱の開閉を続ける俺はチンパンジーとさして変わらない。それで、今年も0という絶望的な真実を受け入れられるようになるまでそれを続けるのだ。
今年もこの大筋は変わらない。……だが、ここ数年では少し変化が表れ始めていた。
トントンと誰かが俺の肩を小突く、振り返った先には丁寧にラッピングされた例のブツが。そうだ、『変化』がそこには居た。
「この時期の男女は親愛の証にチョコを送るそうだ、ということで。ハッピーバレンタイン、静雄」
「毎年毎年前口上が変わんねえなお前は。……そしてお前以外から貰えないのも変わらねえな、俺は」
「君は少々激情家な節があるからな。致し方ないんじゃないか」
「喧嘩売ってんのかてめぇ」
「チョコレートには怒りを鎮める作用もある、それを食べて落ち着くといい。」
「大丈夫、心配なくとも髪の毛とか変なものは入れてないさ」
「あったりめえだろ!入れてら逆にこえーわ」
辻導の掌から差し出されたそれを奪い取るようにして、それから乱雑に包みを開くとそのまま齧る。チョコレートはほろ苦くて、でもとても甘い。
口の端をチョコレートまみれにしてがっつく俺を哲乃はやれやれ、手間がかかる子だね君は、とティッシュで拭う。
いつも通りのバレンタインデー。だけど、今年はなんだか何か違和感を覚えたような気がした。
「なあ。実は俺、こないだ辻導さ、あいつからチョコ渡されたんだよな。あいつ、結構乳あるだろ?今思えば付き合っても悪かねえなぁとか思ったりするわけよ」
「にしたって中身がアレだろ?どうだかねぇ、見た目が70点でも総合点はどうよって話。趣味悪くね?」
「それは言えてるかもな。」
「「へっへっへ」」
思わずハッとした。聞き耳を立てたつもりじゃないが、耳にふとそれが飛び込んできたのだ。まあ、そういうの皆大好きだよな、と思うけど、昼間の渡り廊下の往来でするには下世話な話だ。元々自分が潔癖な性分もあってか、思わず眉を顰めて睨みそうになる。けれど、それよりもその内容に驚かされた。あの辻導が、誰かに、本命にチョコを送った?
正直、俄かには想像しがたい。あいつは人並みに誰かに恋をするというより、恋をしている誰かを質問攻めにして冷やかす側の人間だろう。だからこそ、一時はよくそんなんで本当に大丈夫か?と身を案じていたりもしたものだが、それもみな時間が解決するただの杞憂だったというわけだ。心底安堵する。まあ、ちょっとだけ、寂しいが。
……いやしかし、けれど、いっくらなんでも些か男の趣味が悪いんじゃないか。まあ通りすがりの俺が知らないというだけで、実は誠実な一面があったりだとかあいつが気に入るようなツボがあるのかもしれない。まあ哲学の話が合えば+5000兆点くらい加点しそうだしなあいつ。いや、それはそれでどうなんだ。……とかなんだの座り込んで考え込んでいたら、それは聞き馴染みの深いあの声で掻き消された。
「どうした静雄。真剣そうに云々唸って……考え事か?……もうすぐ授業のチャイムが鳴るぞ」
今すぐ尋ねようか、どうしたものか。
あいつの言う通り、昼休みももうすぐ終わる、そんなに急くことでもないだろうし、後で聞きゃいいか。適当にここはやり過ごそう。
「あー……?ああ、おう、ありがとよ。晩飯の献立何にしようかと思ってなぁ」
「君らしい悩みだな」
「どういう意味だよそれ。ああ、それとな、放課後ちょっとサ店かどっか寄らねえか?」
「構わんよ。ただ、買い物があるからそれならついでにそれも付き合ってくれ」
「荷物持ちか?」
「まあ、そんなところだ」
「お前の荷物持ちすると本が筋トレ並にクるからなぁ……。まあわかった、それじゃ放課後な」
手を振って、のそのそとそれぞれ別の教室に帰る。始業のチャイムが鳴るが、なんとなく今日の午後の授業はどこか上の空で、しゃんと身が入らなかった。
「ココアにホットサンド」
「アイスコーヒー」
「かしこまりました。」
注文を取ったバイトの店員がカウンターの方へ帰るのを尻目に、俺はおもむろにテーブルに左手で頬杖を付く。向かいの席に座る辻導の姿勢は気持ち悪いくらいに真直ぐだ。どっちも、いつも通り。
「いやーしかし、驚いたぜ。お前も案外水臭いよなぁ、一言くらいは言ってくれてもいいだろ。幼馴染のダチだろ?」
「何の話だ?」
「何って、ほら、アレだよアレ」
「主語がアレじゃわからん」
「かーっ。アレってぇのはそりゃ、バレンタインだよバレンタイン」
じれったいな。鈍いのは恋をし始めても変わらないらしい。
「バレンタイン?ああ、あの生チョコが気に入ったのか。それならレシピくらいなら教えるぞ」
「そうじゃねって。……風の噂で聞いたぜ?お前が本命チョコ渡したって話」
「ふむ……?」
「なんだ、照れてんのか?……それとも本当に覚えがないのか?」
「……いや、無いこともない。そうか、あれをそう捉えたか。文脈の解釈とは多種多様だな、新たな知見になった」
彼女は顎に手を当て一人ごちる。これだっていつもの仕草のはずだが、なんとなく今日は不穏な予感がして、なんだから勿体ぶられてるか、それとも秘密にされているような、そういう疎外感を覚えた。
「おい、ちょっと待て。一人で納得されても俺が話についていけてねえよ」
「ああ……悪い、いつもの癖だ。……と言っても君の興味を引く内容でもないと思うが」
「それは聞いてから俺が決める」
「そうか。なら話そう」
「1週間くらい前だっただろうか。同級生から『辻導さん俺にチョコちょーだいよww』と要求されてね、君が散々口酸っぱく言ってたように、無暗に波風を立たせることもないなと、君の分を作るときの余りの板チョコを、そのままプレゼントに持って行ったんだ。」
「……それで?」
「どうやら冗談のつもりだったようだ。『マジで持ってきたよ辻導さんwww』とか言いながら、他のクラスメイトに触れ回ったくらいで、それっきりだ。それ以外には特に渡してないから、心当たりがない」
「……そうか。」
そんなことをする奴が居るのか、いたずらに貶めるような揶揄いを加えるような奴が、あいつに。このときには、俺はもう怒りをどうにか抑えるのでいっぱいいっぱいだったと思う。俺を見る哲乃の顔も、どこか不安げだった。
「君こそどうした。随分酷い顔をしているぞ、買い物は止めにしておくか?」
「ああ、そうだな。お前には悪いがそうしよう」
それからふと思い出した、そういや『大丈夫、心配なくとも髪の毛とか変なものは入れてないさ』とか言ってたな。あのときはあいつにしては珍しいブラックジョークだと思ったけど、そんなことなかったんじゃないのか。……誰かがそう揶揄ったんじゃないのか。一度考え始めればキリがなくて、まるで無限の谷に落下していくような、頭がボーっとしていく感覚を覚える。
本当なら、こっから男心を掴むメシのコツ!(つっても肉・肉・肉だけど)とかなんだの言ってダラダラ駄弁る予定だった。だけど全部やめだ。
「……なあ、本当にどうした。君が泣くだなんて、そんなに気に障る話をしたか?私は」
「……」
わかってるのかな。それともわかってないのかな。いくら考えたって今まであいつの考えが分かった試しはないけれど、それでも、どちらにしたって本当に、本当に酷い話だ。
俺は机から身を乗り出して両腕を開いた。哲乃は頭上に疑問符を浮かべていたけど、それでも俺のしたいことを察してこっちに来てくれた。だから、俺はあいつを力いっぱいに抱き締め、涙を噛み殺した。
「……落ち着いたか?」
「急にすまなかったな。ああ、もうバッチシだ、冷静だよ」
「そうか、ならいいんだが」
あいつがほっ、と軽い溜息をつく。俺がひとまず落ち着いたから安堵したらしい。そうだな、心配する側が心配されてどうするんだ、という話だ。……俺はもっと落ち着いて、自分のやるべきこをやらねばならなかった。
「なあ。ところで、お前がチョコ渡したってえクラスメイトの名前を教えてくれないか?」
「ダメだ」
「お前は何も悪いこたねえから、気にすることもねえ。」
「……ダメだ」
悲しそうに何度も首を振られる。どうしてだよ。……いや、そんなことはわかってる。
でもそれじゃ、この怒りは収まるとは思えなかった。
「ちょっと聞かせてくれたらそれでいいんだ、なあ」
「少なくとも今は、君が冷静さを取り戻すまでは承諾できない。」
「……そうか。わかった、じゃあ諦めてお前以外に聞くことにするよ、会計置いとくから、頼んだ」
「あっ、おい、ちょっと待て……!」
手の平の中でくしゃくしゃになった1000円札をおもむろに置いて、サ店を飛び出す。
追い掛けようとそこから顔を出すあいつの顔が目に付いた。悲しそうだった。
今日見た中で、一番悲しそうな顔をしていた。……俺は、何をやってるんだろうな。
「……それで、こうなったわけか。」
「俺は自分の行いに後悔してないっすよ、あいつらは十二分に後悔させてやりましたけど」
「……わからなくもないよ、うん、僕もそういう時期があった。だけど、君はそれであの子に顔向けできるのかい?」
「そっすね。おっさんは俺、どうしたらいいと思います?」
「その辺も含めて、君が君を制御できるようにするが僕の仕事だ。少し時間は掛かるだろうけど、よろしくね?」
「……うっす。」
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